「俺たちのラノベ史」について

*これは、2000年前後に生まれて中学・高校時代にオタクに開眼し、ライトノベルを読むようになり、2021年現在までラノベを読み続けている人(特に男性オタク?)が、ラノベへの情熱が高じて「ライトノベル体験をきちんと歴史化したい」(「俺たちのラノベ史」を語りたい)と思ったときに抱えると思われる問題について考察するものである。


 2010年代のライトノベル史を書こうとするとき、おそらくweb小説という困難に直面する。おそらく2017年以降は特に。

  web小説といえば「なろう系」と言われるような、異世界転生作品である。先行世代がゲームやアニメで作り上げた異世界の雰囲気をフォーマットに、テンプレ的な物語を量産するという形になっており、評価は分かれる。

 異世界転生ものは、消費者層が必ずしも中高生ではない。購買層が30代であるとか、いやそれほど偏っていないとか、色々と言われる。しかし、ライトノベルを読むオタクの「空気」として、異世界転生ものは「なんか違う」という雰囲気があるのではないか。オタク臭くないから、キャラクターに萌えたり、関係性を想像して楽しむには薄っぺらいので、なんとなく食指が動かないというような雰囲気。例えば、「感傷マゾ」界隈では、感傷に繋げられるような青春要素があるかもしれないのに、異世界転生ものはほとんど語られない。

 この「空気」は、あるときからラノベ語りの範囲を限定たように見える。2010年代半ば頃までは、『ソードアート・オンライン』や『魔法科高校の劣等生』、『ノーゲーム・ノーライフ』など、異世界転生ものではないが異世界的な要素が強いライトノベルがもっとオタクの中で熱を持って受け入れられていた、はずである。

   しかし、web小説のマーケットが大きくなり、「なろう系」という形で批判的に見られるようになったとき、「なろう系」に付随している異世界的なものがオタクの中から排除された、ように見える。

 現在、オタクを自認してライトノベルを読む場合に、異世界ものを「俺たちのラノベ史」として語るだろうか?

 例えば『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』に衝撃を受けてラノベを読むようになって、完結まで追うような人が、「なろう系」を「俺たちのラノベ史」の中で語りたがるか?「俺ガイル」のような心理描写が細かいラノベを熱心に読む人は、おそらくかつては「文学青年」と呼ばれる層だったわけであり、小説家や批評家の卵と言えるのではないか。そうなると、描写が薄っぺらいと揶揄される「なろう系」、そしてそのイメージに引っ張られて異世界転生ものが「俺たちのラノベ史」に入ることは難しい。

 「なろう系」は、消費者層の違いから、「俺たちのラノベ」とは違う概念のラノベかもしれないので仕方がないにしろ、オタクにとってある時期までは熱かった、なろう系ではない異世界的な要素のあるラノベまでこぼれ落ちてしまうのではないか。

 そして、心理描写が細かい(リアルな、文学的な)ラノベは「学園ラブコメ」というバイアスが植え付けられてはいないか。それが2010年代の「俺たちのラノベ」にはラブコメ以外を無意識に語り落とす結果とはならないか。

 「俺たちのラノベ」である以上、ある程度の偏見が入るのは当たり前である。しかし、2010年代の「俺たちのラノベ史」を考える場合、web小説以前の「俺たち」の感覚を忘れないでほしい気がするのである。せっかく実体験しているのだから。





よろしければサポートお願いします。サポートで本が買えます、勉強が進みます!