美少女文庫の「妹」作品、あるいは文体から見る可能性
美少女文庫はジュブナイルポルノのレーベルである。ライトノベルの性描写付きバージョンといえる。「抜き」目的で作られた小説であり、エロ漫画の活字版というように言ってしまうことは簡単だが、そこには何かしらの可能性があるように思う。今回は、「妹」について書いた作品を考察する。
一つ目は、水無瀬さんご『お兄ちゃんのこと、好き好き大好き好き好き』(美少女文庫、2011年)。自分のことを大好きな妹から遠ざかるために田舎の高校へ進学した兄だったが、妹の想いは止まらず、強引に同じ学校へ転校してくる。クラスメイトの、同性カップルの姉妹の後押しもあり、結ばれるのだった。兄妹でセックスをしてしまうにも関わらず、作品のトーンは非常に明るい。妹がお兄ちゃんを大好きなのはもちろん、兄の方も腹が決まってからは、妹との結婚や子作りも厭わない。良き友人としての同性カップルの姉妹も、たがが外れているため、倫理的に兄妹を撃つということはありえず、むしろ当初は近親相姦に及び腰だった兄を振り向かせる妹の策略の手伝い(拘束用の手錠の供給!)までしている。ここにおいて、自然主義的リアリズムは無視されている。さらに、終盤、兄妹は学校で結婚式を挙げ、村人たちに祝福される。またしても、自然主義的リアリズムとしてはあり得ない展開であるが、明るい近親相姦は、田舎の村(奥嶺淵村)にひとつのマジックリアリズムを完成させるのであった。主人公の元に届く両親からの手紙が、自然主義的リアリズムを破壊する、最初のフックである。以下に引用する。
『前略。経緯も略。本題から言います。彩夏は恭一のところに行きたいそうです。
……そう言って聞きません。いやもはや、聞く聞かないのレベルではありません。聞くか死かの選択肢しか残っていませんでした。(中略) ……てゆうか諦めた。やれ。やっちまえ。やっちまえばいいんだ。そうすりゃ全部解決する。父さんはもう知らん。やってやってやりまくれ。父さんは早く孫の顔が見たい。愛する息子、恭一へ』
ここでは、娘の、兄への愛に恐れをなし(刃物で脅迫もされている。妹は、ヤンデレの側面を持つ人物である。)、屈服した両親の様子が窺える。妹によって洗脳され、の顔を見ることまで望むようになっている。序盤で主人公を取り巻く状況を察知させる文章が置かれることで、自然主義的リアリズムは脱臼され、それはその後の近親相姦展開によって加速する。しかし、自然主義的リアリズムが破壊されているがゆえに、この小説が2011年2月に出版されていることを意識せずにはいられない。当時は、オタク文化が栄えたゼロ年代が、東日本大震災によって転換点を迎える直前である。爛熟期を迎え、腐敗さえ起こっていたであろうゼロ年代のオタク文化(セカイ系、日常系・空気系などの諸作品。社会と向き合えていないという批判もあった。)の中で、このように退廃的かつ明るい近親相姦を描いたジュブナイルポルノが出ることは、時代の可能性と危機を映し出していたのではないか。それは、自然主義的リアリズムでは測れない別の何かなのである。
二つ目は、さくらいたろう『※妹だけど神様だからえっちしてもいいんだよっ?』(美少女文庫、2021年)である。冒頭の「ぷろろーぐ!いもーとのトリセツ!」で
「いもーとはね、かみさまなんだよっ? だからね、もしあなたがおにーちゃんなら、いもーとをたっっっくさん、かわいがってあげないとダメなんだからね!(以下略)」
と、平仮名で妹のトリセツなるものを羅列する。これは主人公が郵便受けから見つけた怪文書という設定になっている。その後、彼は義妹や実妹に迫られてセックスをし、妹たちへの倫理観を破壊され、ハーレムへとなだれ込んでいくことになる。プロローグにこの怪文書を持ってくることで、自然主義的リアリズムを脱臼している。また、主人公が妹たちにセックスを迫られ、妹の一人に挿入して射精しなかったら普通の家族であり続けるという約束をした場面で、
『ドピュ〜』漏れた。
と、まるで「おもらし」であるかのようにあっけなく射精している。妹が特殊な膣を持っており、呆気なく射精してしまうことを示す描写なのだが、ここにはセックスのリアリズムは無い。これも、自然主義的リアリズムを崩し、別の世界へいざなう。そもそもこの作品に出てくる妹たちは神様(姉妹の女神)の生まれ変わりであり、射精されても妊娠しない。また、「いもーと教」なる教団の巫女であり、政治的な権力があるようで、倫理観と闘う主人公を屈服させるために、法律を改正して兄妹でも結婚できるようにしている。荒唐無稽な設定である。しかし、プロローグで現実をポキポキと折られた読者は、それらの設定や描写は気にならなくなるであろう。妹たちが支配する神話的世界へ導かれるのだ。
ジュブナイルポルノを、ふざけた文体(ギャグ漫画的?)で書くことは、文体が砕けているがゆえに批評的で、阿部和重の文体に接近する可能性がある。阿部和重の文体は、
「うるせえバカ野郎!(略)俺のいうことをきけないやつは皆殺しにしてやるぞ、動くやつはぜんぶ皆殺しにしてやる!」(『アメリカの夜』)
「......何という非常識な女だ!しかもそのせいで、俺はあのような糞女とオールナイトでセックスするはめになったのだ!」(「みなごろし」(『無情の世界』に収録))
というように、筆圧が高く妙に力み返っている。「トライアングルズ」(『無情の世界』に収録)の、
「僕にはね!それらの問題が、どうしても見過ごせなくなってしまったんだよ!これはね、ひょっとしたら、質の悪い、新種の病気なのかもしれないけれど、実はそんな気が今も凄くしているけれど、しかし僕は、それでも構うものかと思っているところなんだよ!(中略)それはやっぱり何としてもやり遂げなければいけないよ!そうすればね、彼女とのことも、万事うまくゆくはずなんだよ!そうなんだよ!きっとそういうことなんだよ!そうに決まってるよ!」
という「先生」(「トライアングルズ」の「私」の家庭教師で、「私」の父親の不倫相手をストーキングする)の台詞(「私」の家族がそれぞれ抱えている問題に介入しなければならないと決意する場面)では、本文中でおよほ十五行ほども費やしながら、内容的には極めて貧困であり、「自分はそれをしなければならない」ということを、トートロジカルに反復しているに過ぎない(「文藝」2004年夏号の斎藤環による評論)。この「(言葉の)貧困さ」は、阿部和重のすべての小説に通底しており、それは以下のような特徴を持つ。
阿部の語る事がらの内容は常に「貧困」であり、そうした性質の言語を背負わされた登場人物たちは、何とか「貧困」から脱しようと力み返って言葉を重ね、それでも厚みを湛える現実的な内容=対象に到達できずに苛立って罵詈雑言を撒き散らしつつ、誰もが前の「先生」のような現実=対象から離れた妄想にのめり込み、ついには言語の「貧困」を実際の行動における「充実」で補おうとするがごとく、彼の妄想の正確な延長線上で、果敢に「暴力」的な行為を勃発させてはその都度痛い目にあうというわけだ。(石川忠司『現代小説のレッスン』)
そして、阿部特有の言葉は日本語の「ペラさ」に由来する。
中国語の文字=漢字は完全な表意文字であるがゆえ、ここで言葉はそのまま即物的に、かつ重厚に現実の対象を指し示す。ところが日本語の場合は、中国から漢字を取り入れはしたが、(略)その文字の語感をついに体得しえず、表面的な訳、一応の意味の理解にとどまり、漢字を日本語の場合にあてはめるという表音的な使用の性格が強い。このため、漢字を使っても漢字が本来持っている濃密な意味合い、『太陽』なら『太陽』、『山』なら『山』という濃密な意味合いが弱体化する。この弱体化を補うものとして、日本語には、たとえば助詞とか助動詞とか、あるいは活用形と言われているような、話す本人が自分の判断や感情を表わすことばというものを持っていて、これが非常に発達している。(加地伸行『現代中国語』)
つまり、
日本語は圧倒的に「ペラい」(松本潤一郎)のであって、この「ペラさ」を克服し突き破り、具体的な対象に到達せんがため、われわれは助詞やら助動詞やらをさかんに活用して、さらにペラい言葉をトートロジカルに重ねざるを得ず(中略)阿部特有の言葉の「貧困さ」、文体の無駄に「力み」返ったあの感じは、まさに日本語のペラい性質それ自体に由来するものである。(中略)阿部和重は、日本語の本質およびそんな言語に取り憑かれた「日本」というシステムを体現してしまった小説家として現れる。(『現代小説のレッスン』)
阿部和重の文体は、「日本」というシステムにまで繋がっている。そして先に挙げたジュブナイルポルノの、「やれ。やっちまえ。やっちまえばいいんだ。そうすりゃ全部解決する。父さんはもう知らん。やってやってやりまくれ。」や、「いもーとはね、かみさまなんだよっ? だからね、もしあなたがおにーちゃんなら、いもーとをたっっっくさん、かわいがってあげないとダメなんだからね!」のような、阿部和重に近しいと思われる「(言葉の)貧困さ」は、自然主義的リアリズムを逸脱していて「文学的」ではないかに見える一方、むしろ「日本」というシステムを体現している可能性がある。
また、これらのジュブナイルポルノは、阿部和重『シンセミア』(山形県東根市神町を舞台に、欲望に忠実な人間たちが、政治的陰謀、盗撮、幼女愛、ドラッグに明け暮れ、街を襲った殺人事件と浸水被害をきっかけにカタストロフィに向かっていく群像ミステリ)のような神話的空間を発生させるのかもしれない(兄妹の結婚を祝福する奥嶺淵村、「いもーと教」が法律を改正する力を持っている世界など)。これは中上健次の紀州サーガ(和歌山県新宮市の「路地」(被差別部落)で展開される地と血が織りなす人間関係を描く小説の数々。父殺しの問題、差別の問題など、天皇制にも関わる問題意識が含まれている。)が、サブカルチャーが隆盛している現代において如何に描かれるか(神話的世界をどのような設定で、どのような文体で構築するか)という問題にも繋がっているように思う(妹が、ロリコンに通じる面もある。『シンセミア』にはロリコンの登場人物が描かれ、『※妹だけど神様だからえっちしてもいいんだよっ?』では妹の身体的幼さ(ロリ的なもの)が強調されている。これは重要な符号ではないだろうか。)
ジュブナイルポルノの「妹」について書いた作品の中には、妹を媒介として神話的空間を開く可能性を開くものがある。それは、近親相姦を扱う手つきの荒唐無稽さ(妹と結婚して子作りし、周囲が祝福してくれることや、「いもーと教」が教団を作り、妹が神様であることなど)に賭けられている。性的な描写を含むがゆえに、自然主義的リアリズムを逸脱しやすく(「エロがあるからこんな展開でも別に良いかな?」という感覚)、そこに妹という禁忌(近親相姦のタブー、ロリコンという問題)が差し込まれることによって、それでしか書けない何かが生じるのである。文体の面においても、日本語の「ペラさ」を引き受けており、日本という空間を再考することに繋がるかもしれない(これは「妹」について書いたものに限らず、もっと広くジュブナイルポルノの分析に適用できるであろう。ライトノベルにも適用できるかもしれないが、ジュブナイルポルノは「抜き」目的の購入を考えたとき、「文学的」(どうも世間的にいう「文学的」とは、村上春樹のようなエモーショナルさを指しているのではないだろうか?)に書こうという誘惑がより少ないと思っている。渡航『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』が巻を追うごとに「文学的」なものに接近していったように、ライトノベルはしばしばそのような誘惑に屈しているように見える。善し悪しを言うわけではないのだが、表現の可能性を自ら狭めているのではないか?)それは、資本主義リアリズムに覆われた時代に僅かに残された、革命の種であるかもしれないのだ。