貧乏性とひがみ根性 シニア夫婦の海外個人旅行
1958年生まれです。子どものころと違って、今はずいぶんぜいたくな暮らしをしていると感じています。
56歳で少し早く会社を辞めてからは、毎年、数回海外旅行をし、飛行機のビジネスクラスも普通に利用しています。
18歳で就職するまでの生活は、今の生活とは大きく違いました。
子どものころの生活で、貧乏性が身についたのではないかと思っています。ただ、就職するまでは、それまでの生活が貧しかったとは考えていませんでした。
就職するまでの生活は、どんなものだったのかを少しだけ紹介します。
父親は鉄工所で働いており、通勤で着る服はいつも会社で支給された作業服でした。
そのまま仕事をするのではなく、会社に着くと、通勤用の作業服を仕事用の作業服に着替えていたようです。
同じ作業服ですが、仕事用は油まみれになるので、支給された何枚かを通勤のためにつかっていました。
母親は家で洋裁の内職をしていました。
小学校3年の家庭科
来週の家庭科の時間に紅茶を飲むから、ティーカップを持ってくるようにと先生が言いました。
教科書を見ると、ティーカップはコップに取っ手がついているものが掲載されていました。
家に帰りティーカップなるものを探しましたが、取っ手のついたコップはありません。
母親に聞くと、そんなものはないといいます。ないものは仕方ないので、お茶を飲む一番大きな湯呑を持っていきました。
家庭科の時間にみんなのコップを見ると、どれも取っ手がついています。私一人だけが番茶用の湯呑を持ってきていました。
取っ手がない湯呑で、しかも熱いお湯を入れるので、恥ずかしくもあり、熱くて持つことも飲むこともできなかったことを覚えています。
ちなみに、紅茶というものも飲んだことはなく、その時に初めて飲みました。
親戚の家で
毎年お墓参りで、母親の実家に行っていました。
隣の県なので、いつも一泊していましたが、夕食も朝食もおかずが数品出てきます。
我が家の食事のおかずは、いつも1品です。
親戚の家では、なんであんなにたくさんのおかずが出るのか不思議でした。母親に聞くと、「お客さんが来ているから御馳走を出している」ということでした。
それで納得はしていましたが、うちよりはお金持ちだと感じていました。
ちなみに父親の実家に行くことはあっても、泊まることはありません。食事も、うちとあまり変わらないものでした。
父の飲み会のお弁当
父親は会社の飲み会には出ていました。
花見の時期と忘年会の時期で年2回です。
会社主催の飲み会に出席するだけで、それ以外の飲み会には出席していませんでした。
会社主催の飲み会では、折り詰め弁当が出ていたようです。
父親は毎回その折り詰め弁当には一切手を付けずに、お土産として家に持って帰っていました。
子どものころは、父親が持って帰るお弁当がうれしくて、晩御飯が楽しみでした。
色とりどりの珍しいおかずが入っており、会社の飲み会は子ども心に「いいなー」と思っていました。
父親がいつも食べずに我慢していただろうということは、全く考えもしませんでした。
高卒で就職
中学生のころは、家の経済状態が大学に行けるほど裕福ではないと、自分で勝手に判断していました。
そのため高校は、就職に有利な工業高校に決めていました。もちろん公立の高校で、私立高校など頭の隅にもありませんでした。
学科は機械・建築・電気・土木・・・といろいろありましたが、どこでもいいと思っており、倍率が高い学科を選びました。倍率が高い学科は、それだけ人気があり、就職にも有利だと自分なりに考えていました。
就職先を選ぶ時期でも、就職先はどんな会社でもいいと考えていました。就職先に希望はありませんでした。
自分が何かに興味があるから、こんな仕事をしたいからなどとは、会社を選ぶときには全く考えていませんでした。
父親と同じように、生活していくために働くのであって、就職する会社に好き嫌いを言える立場ではないと思っていました。
学校の方針で、就職試験は会社からの募集人数しか、受験の推薦をしてくれないことになっていました。
学校の成績を考慮して、担任の先生が数社を選んでくれます。幸い学校の成績はトップクラスでしたので、上位数社の中から離職率が少ない会社を選んだことを覚えています。
38年間同じ会社で働きましたが、結果的にも良い会社だったと思います。
世間からずれた考え方
18歳までは考え方がまだまだ子どもでした。就職して社会に出るまでは、本当に世間からずれていました。
小学校5年生から新聞配達をしており、高校の休み期間中は郵便配達のアルバイトをしていました。
新聞配達は今と違い休刊日はほとんどなく、雨の日も風の日も早朝に起きて配達していました。わずか45部でしたが、雨の日は自分はぬれても新聞はぬらさないように、配達するのがつらかったことを思い出します。
バイト代は、3000円/月でしたが子ども心にも大金だと思っていました。お金は、もちろん全部母親に渡していました。
家と学校を往復するだけで、中学や高校の部活もお金のかからないものを選んでいました。
体育系の部などにも興味がありましたが、ユニホームや道具にお金がかかります。
遊ぶため(部活は遊びだと勝手に考えていました)に親に負担をかけるべきではないと、最初から候補には入れていません。
家族で外食をすることもなければ、旅行もしたこともありません。
世間で中流家庭というのは、こんな生活をしているものだと考えていました。
無意識のうちに、節約(貧乏性)することが身についてしまったのでしょう。
コンプレックスの塊
いまだに学歴にはコンプレックスを持っています。
工業高校卒では、いくら仕事ができても大学卒、大学院卒の人のような昇進はきません。次々に追い抜いていかれます。
毎年、能力評価を上司にされますが、能力など関係なくて、どんなに努力しても追いつけない感じです。
少し前に「親ガチャ」という言葉がはやっていましたが、家庭の状況によって、スタート位置が違うのはとても不公平だと感じていました。
「普通科の高校を出て大学に行く学力はあったのに、いけなかった。」と、人のせいにしている自分がいます。
小さい時から、野球やサッカーなどのスポーツをさせてもらえる家庭の子供は、恵まれていると今でも感じます。
能力があっても、させてもらえる環境になければ、埋もれてしまい世に出ることはない。そんなひがみ根性をいつも持っていたように思います。
学歴にコンプレックスがあったので、大学は30歳になってから受験し、第二部(夜間)に入学・卒業しています。ちなみに、私の給料が少なかったので、学費は半額免除でした。
学歴は国立大学卒となりましたが、世間はそのようにみてくれません。昼間と同じ先生で同じ授業ですが、やはり違うのでしょう。
会社で働いているときは、コンプレックスとひがみ根性ばかりだったような気もします。
退職すれば、学歴は関係ありません。コンプレックスもひがみの考え方も少なくなってきました。
再婚した妻は、常にプラス思考をする人で、ひねくれた私の考えを修正してくれており、助かっています。
収入が多くあっても支出が多ければ、お金は溜まりません。私の場合はたまたま離婚してすっからかんになりましたが、離婚してからの節約生活が役に立ったようです。
生活費は年金でまかなえるし、旅行費は貯金と資産運用の利益でまかなっています。
退職し外国旅行をするようになってからは、妻の教育のおかげか旅行にはお金を使うようになってきました。
なお年金は、退職金のうち税金がかからない程度をもらい、残りは企業年金としていますので、生活費がまかなえています。
余談になりますが、退職金には税金がかかりませんでしたが、年金にすると支給される都度所得税がかかります。住民税も健康保険税も高くなります。
ざっと計算すると、年金にすると税金をたくさん払うようになっています。
なんだか国の税金の徴収でごまかされた感じです。
これから退職を考えておられている人は、注意が必要です。
私にとっては、旅行にお金をかけるのは大変なぜいたくだと思っています。品物を購入すれば物が残りますが、旅行は物が残りません。記憶が残るだけです。
価値観の違いだと思いますが、食べ物にもこだわらないし、物欲もありません。自分の知識や経験を増やしたいと考えています。
世界中にはまだ見たことも知らないことも多数あって、それらを見たり触れたりする経験が大好きです。
上の写真は、マルタ(地中海の小さな国)にある「カートラッツ」です。
数千年前の時代で、車輪は発明されていないはずなのに、車輪の跡が化石になって残っているものです。現地の案内表示はほぼ皆無なので、ネットの情報を頼りに探し回って見つけたものです。
どの国にもこんな不思議なものが、一つや二つはあります。それらを見て、触って、考えることが大好きです。
いまだに外食をするのもタクシーに乗るのも好きではありませんが、旅行の計画は妻が主にしています。
私の好きな世界遺産やオーパーツ(その時代にそぐわないもの)の見学などを計画に含めてもらうようにしています。