「イサム・ノグチ 発見の道」展@東京都美術館
2021年8月29日で終わってしまうイサム・ノグチ展(東京都美術館)、ふと、思い出してオンライン予約(すかすか)、行ってきた。
イサム・ノグチといえば、立派な美術館の目立つところにどんと常設してある、でんとした存在感のある彫刻の作者で、何度かその名を見るうちに、目立つ彫刻があったら(あ、イサム・ノグチかな)(あ、だよね)(あ、ちがった)くらいの認識でした。
とにかく、いかにも「見よ」って感じでそこにあるものだから、きっとありがたいものなんだろう、よくわかんないけど、と思っていました。たぶん、10年くらい。いろんなところで見かけるうちに親しみは生まれてたんだろうか、きっと。
広い庭園の一角にたたずんでいたいときみたいに
で、東京都美術館へ。ええ、なに、すごくよかった。
ええと、本当に、感想を書きたいと思って何度も書こうとするのだけど、なんだ、言葉が出てこないぞ。これはしばらくなんも書いてこなかったせいなのかもしれないけど、違う気もする。
広い庭園を散歩したときみたいな、ずっとここに居たいな、という気持ちが似てる。語るべき言葉を私はもってないけど、ただ木漏れ日って気持ちいいよね。踏みしめる落ち葉の音とか、東屋に吹いてくる、水の気配を含んだ風とか。家ではないけれど、たたずんでいたい、できるだけ長い間、ここにいたいという。
あの築山に込められた意味とか、岩が竜の形をしていてとか、この橋の由来はとか、だれだれのお屋敷があってとか、そういう背景は半分も理解していなくて、聞いたことも明日には忘れてしまっても、ただ心地よかったことだけはずっと覚えている、そんな感じ。
しずかに視線を吸い込んでいく、緊迫も威圧もせずに
私はイサム・ノグチをほとんど何も知らなかったのに、不思議に削られた石が、薄く重なる鉄板が、ブロンズの滑らかな曲線が、しなやかな竹とやわらかな紙と灯りが、視線を吸い込んでいくんですよね。かといって緊迫感も威圧感もない、ずっとそこにあったかのようなさりげなさ。ええ、すごいなぁ。
やさしく明滅する大小さまざまな提灯に包まれて深呼吸をしたいと思った、というか、した。3秒くらい目を瞑って、息を吸ってはいて。目を開けたときのかぎりないやさしさを感じてください。きっと気持ちがいいです。
磨かれてつるっとした石の断面と、砕かれてざらざらの石の断面が、交差してせめぎ合うそのあいまいな境界にすーーーっと目が引き寄せられていくあの感じはたぶん私は他に体験したことがないです。見つめてください。石を。
高松市牟礼町と、ニューヨークに行こう
そこに、イサム・ノグチ庭園美術館があるって。晩年は牟礼町(むれちょう)とニューヨークを行ったり来たりしながら制作を進めていたという。行かなきゃ。
展覧会の会場で、この2つの庭園美術館の存在を知ってすぐ「行きたい」と思ったけれど、帰宅後、買ってきた図録を読んでいたらさらにそう思った。
この図録、すごい。エッセイと年譜の充実っぷりがすごい。目次見ます? エッセイだけ。
「イサム・ノグチ 石の声をはじめに聞く」(磯崎 新)
「イサムさんのこと」(安藤忠雄)
「イサム・ノグチの牟礼のアトリエ」(中原淳行)
「作家自身の言葉を引用しながら、「あかり」がイサム・ノグチの原型的作品となるまでの経緯を明らかにする」(デーキン・ハート)
「内発するもの、たち 何かがイサム・ノグチに出入りして、漲っていった。」(松岡正剛)
で、エッセイを順番に楽しんでから、それに続く「イサム・ノグチ年譜」を読むと、内容が理解できるんですよ。それってすごいこと。
年譜なんて、だいたいその人に関してすでに詳しい人くらいしか楽しめないのが普通だと思う(というか、楽しむものでさえないか)けど、この年譜は違う。キーワードはすべて、それまでのエッセイに詰まっています。エッセイを読んで、年譜を楽しんだ後には、きっと多くの人がファンになっちゃうんじゃないかって思う。
で、牟礼町とニューヨーク行こう、って心に決めちゃうんじゃないかと。私はひっそりと決めました。特に雨の日がおすすめらしいですよ(雨降るのも怖くないですね)。
2021年8月29日まで。そろりと行くと、いいかもです。
では、またそのうちに。