同じ言葉を使っているのに伝わらないことについて
言葉がひとり歩きしている。そんな風に感じることがある。
「自尊心」「自己肯定感」「主体性」この言葉たちは、ここ数年の保育教育の大きなテーマとなっており、心理学と関係ない業界でも世間一般で使われるようになってきた。その世間一般で使われている言葉が正確な意味で浸透しておらず言葉がひとり歩きしていることに危機感のようなものを感じることがある。
そんなことを思って、違った解釈で捉えている方に向けて簡単な図解を作った。
言葉には意味がある。けれど、僕たちがそれを使うときに正確で明確な「意味」を意識しながら使っているかといえばそうではなく、あいまいな「イメージ」でその言葉を使っていることが多いように思う。実際に辞書を引きながら話す人はいないし、いちいち発した言葉の意味を確認する人もいない。僕たちは、文脈と想像で会話をしている。これは「意味」を重視することが大切であるとか「イメージ」のままではいけないという話ではなくて、それくらい曖昧なものであるということ。
言葉の再定義
先日、Twitterであるツイートに目が留まった。ある保育士さんの子どもに対する関わりの事例なんだけれど、その内容がとても良くて大きく共感した。
ツリーになっているので、ぜひ全文読んでほしい。
大きく共感したのに、なぜか小さな違和感を覚えた。相容れない感情を同時に抱くことはよくあることで、ミスを指摘されてイラっとしながらも大事故にならず感謝するとか、美味しいものを食べて幸せを感じながら健康を気にしてしまうであるとか、一つの感情に偏らずにさまざまな感情が同居するのは健全なことだと思っているので「共感と批判」が同居していても良いと常々思っている。
ただ、今回は「批判」ではなく「違和感」だったので、解消したいと思った。モヤモヤは感じた時に解消しないとずっと頭の中に居座り続ける。(その日のうちに解消したのですが、今回の話題のためにメモアプリから引っ張り出してきました)
では、なにに違和感を感じているのか。何度も読んで違和感を感じた部分を抜き出してみた。
[状況対応能力=「責任」を育む]
[やりたいと思うことをやる。その結果、困ったことが起きたら解決する。それをね『責任』っていうんだ]
どうもこの「責任」という言葉が引っかかっているようだった。
その違和感の原因ーーー「責任」という言葉の定義
言葉には、本来持っている「意味」とそれを聞いて感じる「イメージ」がある。「責任」という言葉には「任務」という役割責任としてのイメージと、「責任をとる」といった「責められる対象」というイメージがあり、前者は前向きな意味合いとして捉えることができるが後者はマイナスなイメージとして定着しているように思う。個人的な価値観によるものかもしれないと思い改めて調べてみた。
「責任」(読み)セキニン
(デジタル大辞泉の解説)
1 立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての責任がある」「責任を果たす」
2 自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の責任をとる」「責任転嫁」
3 法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任と刑事責任とがある。
社会で認知されている「意味」としてもあまり良い印象の言葉とは言えない。
先日、高学年の子が憤慨しながら学童クラブに帰ってきたんだけれど、聞くと「クラスの一人が宿題してこなかったからクラス全員が連帯責任で居残りをさせられていた」とのこと。これは「連帯責任」という名の「罰」である。
これまでの教育や保育には「責任」という言葉が多く使われてきた。そのほとんどは「罰」という意味合いを含んで。「あなたがやったんだから責任を取りなさい」という言葉を使って「罰」を与えることが実際にあった。「連帯責任」という言葉が表しているように、その「責任」という言葉は否定的な意味合いで使われてきたのだ。
「やったこと」に対する「責任」を、このツイートでは
・状況対応能力
・困ったことが起きたら解決する
としている。
そう、このツイートは、言わば「責任」という言葉の再定義なのだ。
「責任」とは、謝ることや罰を与えることではなく、失敗の後にどう「その問題を解決するのか」だよ、と。
このツイートで大切なことは「責任をとること」ではなく、「謝るを繰り返す(怒られることを恐れて萎縮する)事から解放する」「失敗しても解決できる」「次もやってみようと思える事」「それを助けてくれる存在がいる」等だとぼくは思う。
では、なぜ違和感を感じてしまったのかというと、
「責任を負わせる」という価値観のまま、上の“再定義”を汲み取れずに従来のままの意味で「責任」という言葉だけをとって「やはり責任はとらせるべきなのだ」と納得してしまう人がいるのではないか。という懸念だったのだ。
さて、違和感は解消された。この内容を記事にしようとツイート主に連絡をしてみると、あるツイートを添えて了承の連絡を下さった。
もう先に答えを発信してらした。
パラダイムシフトと言われる「価値観ごとの転換」が起きている現代、この「言葉の再定義」は保育教育の業界ではこれからどんどん必要になってくると思う。
言葉の伝わり方の記事を書いているそばから、相手の本心を探るのではなく勝手に推測して満足するという醜態を晒したことで、その必要性と難しさがつたわったことだろう。(良いように言った)
多様性がもたらすもの
僕がしたように正しい意味を伝えることや、件のツイートのように再定義を図ることは、目の前の人の誤解を解くことや手助けになることはあっても(それが一番必要なことだと言われればそうなんだけれど)、根本の解決にはならないのではないかと感づいてる(と自分で思っている)。
解釈の違いから生まれるミスコミュニケーション(意図が伝わらず齟齬をきたすこと)は、言葉を使うからには起こりうることだ。根本的な価値観の違い以前に、「言葉の解釈の違い」から諍いが起きているのではないかと思う場面をよく見る。自分の言葉の意味が正しいと思い込み、伝えることよりも正しいことを主張してしまったり、自分の思っている意味で相手も解釈していると思い込んで話を進めてしまったりしてしまうからだろう。
大切なのは正しい意味の言葉を使うことではなく、伝わる言葉を選ぶことなんだと思う。この言葉で伝わっているだろうか齟齬をきたしていないだろうか、と相手の立場に立ちながら言葉を選んでいくことなんだと思う。
受け取る側も、相手の言葉に違和感を感じた時に「本当にその意味でその言葉を使っているんだろうか」「違う意味で使っているんじゃないか」と言葉尻ではなく相手の本意を想像しながら聞くことなんだろうと思う。違和感を感じたのなら「こういう意味?」と聞くくらいがちょうどいいんじゃないかと思う。
ここで考えたいのが、多様な社会へと移り変わっていくことで、多様な言語、多様な価値観が混在し、よりコミュニケーションが図りづらくなる。…と予測されているかもしれないが、それは逆なんじゃないかということだ。
いま起きているミスコミュニケーションは、「あなたも同じだからわかるでしょう」という傲り(おごり)があるから起きているのではないだろうか。同じ言語を使っているから、同じ文化だから、同じ会社だから、同じ家族だから「答えは一つだろう」と。細かく言わなくてもわかるでしょうと。
多様な社会ではそうはいかない。みんなが「同じではない」ことが当たり前になる。そうなれば、「あなたはそうじゃないかもしれない」という不安を常に持ちながら話すことになる。あえて不安というマイナスな表現を使ったが、言ってみれば最低限の気遣いだ。「私の価値観や言葉は伝わらないのではないか」と思って伝えるなら、自ずと一方的な言葉で話すことはなくなるだろう。海外から来た友人をもてなすようにゆっくりと丁寧に相手にもわかる言葉で話すだろう。もちろんこれは例え話だ。けれど、これは言葉だけではなく価値観や文化や性格など人それぞれが個々で違うはずのものすべてに共通することではないかと思っている。
「あの映画全然おもしろくないわ」というセリフを聞いたその人が自分とは違う感覚を持っているかもしれない、と思えば「僕は、あのシーンが個人的には苦手だったな」というふうに言い方が変わるかもしれない。「それはやめてほしいな」と言われた時に、「なにも失礼なことはしていないのに」と思うのではなく「自分は当たり前だったけれど相手にとっては嫌だったのかも」と思えるかもしれない。
という、とてもシンプルなことだ。
今でもみんながやっている当たり前のことだよと言われればそうなのかもしれないけれど、当たり前のようにそれができない人も非難されることなくそれができるような社会になっていくんじゃないか(そうなればいいな)と。多様な社会の実現がそれを自然と実現していくんじゃないかという可能性に期待したくなった。
こうやって文章を書いている今も「こちらの意図した意味で伝わっているだろうか」と不安になりながら書いているし、読んでくださっているあなたもきっと「この文脈で言葉を使うということはこういう意味なのかな」と推測しながら読み進めてくれていると思う。
そして、半分も伝わっていなくてもそれはそれで良いのかもしれないなとも思ったりする。