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子育て経験者が保育士の代わりになるのか。を考えるということは、保育士の専門性について考えること。

「え、先生って資格持ってたの?」と保護者から聞かれたことは一度や二度ではない。子どもに「なんの仕事するのが夢なん?」と聞かれたことも一度や二度ではない。「これが仕事やで」と答えると、「はいはい」と信じてはもらえない。


「子育て経験者が保育士の代わりになるか」という議論について

それぞれの立場の正義があると思うので、それ自体の是非は語るつもりはありません。

私の役割は、どう転んだとしても子どもの毎日を守ること。実践で保育と支援の質を保つこと。もし「子育て経験者が保育士の代わりになる」とされた時に、どのような視点を持っていなければならないかを考えていたい。保育士には専門性がある。それは間違いないけれど、ただ叫んでいるだけじゃあ質が上がることはない。どんな結果になっても、いつだって割りを食うのは子どもだから。

私が現在勤めている放課後児童クラブ(学童保育)の業界は、自治体によっては数年前まで専門的な資格が無くても指導員として認められており、それで学童クラブの担任を数十年続けている人もいました。放課後児童クラブでは、現在でも子育ての経験を活かして働いている職員が多くいます。そんな人たちのほとんどが責任感を持って、情熱を持って取り組む人たちです。「子どものために」頑張っている人たちです。けれど、残念ながら今回の議論では「責任感や情熱」は置いておきます。冷たい言い方をするようですが、専門性と情熱は関係ないからです。(学ぶことと情熱は関係するとは思っています)

では、具体的になにについて考えていくのか。

どんな仕事でもだいたい「観察する→考察する(判断する)→行動する」という順序を経ていると思います。

そして、その判断の基準になるのが「保育士」は「専門的見地」であり、「経験者」である人たちの多くが「各々の価値観と各々の経験則」に委ねています。

ここが大きなテーマだと思っています。

この「見る→考える→やる」をそれぞれ分解して考察していきたいと思います。

1.「見る」ときの専門性

突然ですが、外出時に急に雨が降ってきた時のことをイメージしてみてください。よくある状況なのでイメージしやすいと思うけれど、そんな時にどんなことを考えるでしょう。ただ「傘を忘れた」と感じるだけかもしれないし「洗濯物外に干してきた」と後悔する人もいるかもしれない。子どもがいれば「あの子傘持って行ったかな」と我が子を案じるかもしれないし、野球好きなら「今日のナイター中止かあ」と一日の楽しみがなくなり残念がっているかもしれません。

ひとつの同じ事象でも、それぞれの立場で感じ方(その物事の捉え方)は全く変わってきます。当たり前ですね。

飲食店を選ぶ時も、インテリア、接客、お酒の品揃え、価格帯など、人によって見ているところが違います。そして、それはその人が属しているものや普段から気にしているもの、経験や好み(価値観)であることが多いと思います。

先日、家電の研究開発をしている友人と旅行に行ったんですが、コンビニのコーヒーメーカーからホテルのドライヤーに至るまで事あるごとに「これはどこどこの製品で、ここがすごくて」と熱弁されました。俗に「職業病」と言われるものですね。さすが目の付け所が違うなあと感じました。

では、保育でそれを考えることにします。ひとりの子どもを見た時にどんなことに注意して観察するのか。実際に専門職として働いていても、トラブルが起きない限り細かく観察することはなかったり日常的に見るクセが付いていなかったりすることがあります。
私がベビー服のデザイナーなら今日なにを着てきたかに注目するでしょうが、私はデザイナーではありませんから、保育士としての視点が必要になってきます。

「あの子どんな子?」と聞かれた時に、“なんとなく”でしか答えられないことってよくあるんですが、それはきちんと見ていないということになりますね。(…自分で言っておいて耳が痛いですが)

そのため、私は具体的な問いを自分に立ててそれぞれの子を見るようにしています。
「いま楽しんでいるか?」「しんどそうじゃないか?」という視点をいくつか用意しておいて、そのフィルターに通して見るようにすると「じゃあなにに興味を持っている?」「どんなことをしんどいと感じる?」と、自然と思考が深まります。

「あの人は今日なに色のネクタイをつけていまいしたか?」という、よくある観察力を試すクイズと一緒で、人間って意識していたらそれに気づくけれど、意識していないと簡単に見逃してしまうそうです。「自分はほとんど見落としている」と自覚することも大切だなあと感じます。

細かい視点はやはり高度な専門性が必要ではあることは前提ですが、私は「子育て経験者」と「保育士」がある程度同じ視点を持つことはできると考えています。

では、現場でなにをすべきかというと、「われわれの目的を明確にする」と言うこと。

現場では子どもへの対応など「保育士の行動を統一」することを重視されがちだけれど、そこはあまり重要ではないと思っていて、大切なのは「目的を統一」すること。

なんとなく子どもを見て、“自分の経験上の”気になったところを取り上げて、ということにならないように、明確な目的を具体的に提示することが大切だと思います。

例)
・明確な目的
「子どもの最善の利益」

・具体的な目的
「安全・健康」
「楽しい・嬉しい」

とあれば、「危ないことをしていないか」「楽しんでいるか」という視点で子どもを見ることができます。具体的な指標があれば、それを気にして行動しますし気づいた後の対応も自然と統一されてきます。

そういった目的を明確にしてそれぞれが行動できる方法として、私の職場ではクレドというものを活用しています。行動の指針となる信条のようなもので、リッツ・カールトンやディズニーランドが採用していることで有名なのですが、サービス業界だけでなく保育の現場でも活用できると思っているので気になった方は調べてみてください。


2.「考える」ときの専門性(ここが一番重要)

問題は、次です。考察について。

考察とは「物事を明らかにするために、よく調べて考えをめぐらすこと(デジタル大辞泉より引用)」とあるように、子どもの姿を見て「調べて考えをめぐらす」ことが必要となってきます。

「専門家」と「経験者」では、同じ視点から子どもの姿を見たとして、その姿を考察するときの基盤が全く違うと考えています。

例えば「子ども 泣いている なぜ」と調べるとして、「経験者」は「自身の経験則と価値観」というデータから類似ケースを探すのに対して、「専門家」は「専門的な見地(知識と経験)」という膨大なデータから複合的に解決方法を導き出してきます。

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それは、“考察する能力“が違うということでは無くて、そもそもの“検索データベース”が違うということです。(検索データベース=情報の貯蔵庫のようなものだと思ってください)

じゃあ、私たちがその専門的な知識を網羅しているのか、と聞かれたら胸を張って「完璧だ」と答えることはできません。人間ですから、知識量には限界がありますし日々情報は新しくなっていきます。だから、なんでも答えられる生き字引でなければならないということではないのです。分からなければ後で調べるなり誰かに相談するなりすればいいんです。要は、「検索するときのデータベースを間違えない」ということが大切だと思っています。

残念ながら、何十年も現場で専門家として働いてきたベテランでも「個人的な経験則と価値観」で物事を捉えている人が少なくありません。他意はなく結果的にその人たちを批判することになってしまいますが、「保育士は専門職だ」と誇りを持つのと同時に「専門職として向き合えているのか」を振り返る機会にもしなければならないと考えています。

この視点から「子育て経験者」が「保育士」の代わりとなるのかを考えます。

結論から言えば、できる人にはできるしできない人にはできない、という身もふたもない答えになってしまうんだけれど、「保育士」として従事するのであれば「資格」はそれを保証するものだから資格者であることが必須であると思っています。

腹が痛いときに、胃痛持ちの人の経験談と内科の医者のアドバイス、どちらの言葉を信じるかと言えば、きっと医者でしょう。それは腕の問題ではなく安心・信頼できるかという話です。医療行為同様、保育という子どもの育ちを守る仕事も、「腕」よりも「信用」が重要視されることはまず間違いないと思います。
これを、経験があるから無資格でもいいよとしてしまったら、その質を保証するもの(基準)がなくなってしまいますから。

ただ、無資格でも質の高い保育をする人は多くいますし、資格を持っていても専門家とは呼べないような保育をする人もいます。「保育士」という「専門家」であることを保証する資格に恥じないような実践が求められることを、繰り返しますが心に留めておきたいと思っています。

では、子育て経験者は保育士として代わりとなり得ないのか。…といえばそんなことはないと思っています。

3.「行動する」ときの専門性と、それぞれができること

日曜大工が好きで自作のログハウスを作れる人がいるとして、その人が他人の家を建てられるかといったらそうはいきません。建築や工学の知識はもちろんのこと家を建てる際にクリアしなければならない法律への理解も必要となってきます。どれだけその人が丁寧な仕事をして建築物に情熱を持っていたとしても、購入する人はきちんと資格を持った人に建てて欲しいと願うでしょう。

では、その人が家を建てる時に全く力にならないのかといえば、そんなことはない。職人顔負けのノコギリさばきと釘打ちで大いに貢献できるはずです。そう、部分的に。

専門性とは、ある特定分野の「知識」と「経験(技術)」のことだから、部分的に「技術面」では専門性を発揮できるということだと思っています。それを専門家というかは別として。

保育でいえば、子育て経験者は新米保育士よりもオムツ替えが早いかもしれないし、ベテラン保育士よりもミルクのあげ方がうまいかもしれません。“それ”だけが保育ではないけれど、“それ”は間違いなく子どもが育つ上でなくてはならない存在であり必要なことです。

保育・子どもが育っていく環境は、さまざまな方向からの見地が必要となってきます。2018年から始まったキャリアアップ研修の制度を見てもわかるけれど、職務分野別リーダーの研修だけでも(乳児保育、幼児保育、障害児保育、食育・アレルギー、保健衛生・安全対策、保護者支援・子育て支援)と多岐にわたります。これは、オプションで身につけていく知識・技能ではなく「保育士」として身につけておかなければいけないものです。しかしながら、それぞれの分野でそれが得意な人たちやAIが活躍できると考えています。
ひとりの保育士に重荷を負わせるのではなく、子育て経験者を含めたそれぞれの分野でそれが得意な人たちやAIが協力し合って子どもの育ちを守っていく事、保育に関わっていくことがこれからの時代の課題だろうと思っています。

そんな時に「保育士」は専門的な見地からその現場をマネジメントする立場して本当の専門職となっていくと感じています。

4.子どもがいないと保育士として半人前?

どんなことでも、経験しているほうが優位であり経験していない方が未熟であるという心象を持たれるものです。

保育の仕事でいうと、「子育て経験があるかないか」がそれに当てはまると思います。保育士の資格を持っていても、子育てをしたことがないのなら子育てをしている親の気持ちはわからない、という理屈で半人前扱いされることは少なくありません。

これについては、はっきりと言わせてもらうと、保育の質に「子育て経験の有無」は関係ないと思っています。

まず、前提として子育ての経験は“生きる”とは思います。その人の保育観に多大な影響を与えることでしょうし、得てして保育と関連付きやすいことですので役に立つことは多いでしょう。しかしながらそれは、その人なりの経験からくる人間性についてのこと。

同じように、生涯独身であっても、私のように離縁してしまって子育ての経験ができなくても、その人の人生の経験としてその人の人間性が形作られていきます。そこに「保育の専門性」の差は生まれないと思っています。

例えば、医者の家族が患者と同じ病気で闘病しているという経験があるとして、その経験をもって患者に寄り添うことに長けるかもしれないけれど、逆に感情移入してしまって冷静な判断が難しくなるかもしれません。

保育の現場でも保育者の経験則が子供の育ちの弊害や足かせになることは多くあります。「経験していること」も「していないこと」もそれぞれの“経験”としてどう生かすかなのだと思います。

また、この議論をするときに「専門性」と合わせて大切にしたいことがあります。それは、保育で大切にしていることの一つである「多様性」です。

それぞれの人生であることを尊重すること。

その人の経験でその仕事ができるかどうか決まるのであれば、それは専門性のある仕事とは言えません。

子育て経験があってもなくても、両親がいても片親でも養子でも児童養護施設で育っても、子どもが好きでも好きでなくても、保育士という仕事はできるはずですし、質がそこで変わってしまってはいけないと思っています。

理想論と言われようと、ぼくはそういう仕事だと思っています。

5.共感について

子育て経験が有用であるという理由に「共感できるから」というものがあります。けれど、経験によった「共感」はときに諸刃の剣になることもあるため、そこも「専門性」が必要になってくると思っています。(以前書いた漫画を参考に貼っておきます。)


6.保育士の専門性って

さて、ここでこの議論で見逃してはいけない問題があります。

それは、何度も繰り返している「保育士としての専門性」について、です。

ここ近年でようやく社会的にも「保育士は専門性の高い仕事で、子どもたちの育ちを守る重要な仕事である」という認識が広まってきました。メディアなどでも取り上げられることが多くなってきました。

そして、保育士という職業を軽んじられるような発言があった場合に、例えば「誰でもできる仕事だ」と言われたり今回のように「育児経験者であれば保育士として認めよう」という案が出たりした時に、「専門性の高い仕事なのにバカにするな(意訳)」という声が上がって、いわゆる「炎上」するようになってきました。

けれど、それを見るたびに私は違和感を感じていました。なぜ、保育士の専門性が見えないのか。その違和感についてここで取り上げておこうと思います。

(誰かを批判したり傷つけたりするために書いているのではなく、あくまでもいい方向に向くためのアイディアとして書いています。ご了承ください。)

7.保育という仕事は、生産性が見えない

保育の専門性とは何か、それが社会に浸透しないのは何故なのか。

その理由は、誤解を恐れずにいうと、実際に専門性のある保育をしていない(できない現場である)ことが原因だと思っています。これは保育士を批判するものではありません(誤解を恐れずに言いましたが、誤解されそうな気がしてなりません…)

では、その専門性を発揮できないのはなぜなのか。それは、この仕事の特性に原因があると考えています。

保育や介護などの福祉系の業態は生産性が見えにくい仕事です。基本的には0から1を生み出したり、1を100にしたりするような仕事ではなく、日常を保つ(0を保つ)仕事です。0が1になっても気づかれることはないけれど、0が少しでもマイナスになろうものなら叩かれるような仕事です。

幼児期はとくに、非認知能力(※1)を育む時期だから見栄えしない毎日が続くのは当たり前で、なによりも今を毎日を楽しく充実して過ごすことが大切になってきます。
(※1 非認知能力:自尊心などの前向きに生きる力の土台。逆に読み書きなどの目に見える能力を認知能力といいます)

けれど、
実際は目に見える生産性を求めて、行事のために太鼓を叩かせたりお遊戯をさせたり、英語教育プログラミング教育など、見栄えするものに力を置くような保育を行なっている保育園がほとんどです。日常の保育が行事のためになり、創作を楽しむはずの制作が誰かに見せるものになり、子どもの成長が小学校の準備になってしまっています。

残念ながら太鼓を叩けるようにすることや上手に折り紙を折れるようにすることに、「保育士の専門性」はありません。

仕事をしている中でなにか成果を求めたくなるのは自然なことですし、保護者からもそれを求められていると感じるのも自然なことです。けれど、私たちの仕事はそれではない。

子どもの意見を尊重すること、何に興味関心を深めているかを発達段階や環境を考慮して考察すること、それが一ヶ月ずっとダンゴムシを集めていることだとしても、それを専門的な見地から捉えて保護者に伝えて安心してもらうこと。何げない毎日がかけがえのないものだということを伝えていくこと。そういう積み重ねが僕たちの仕事です。(それだけでは無いですが)

けれど、人間にはキャパシティ(容量)があります。ただでさえ決められた業務をこなすことで精一杯なのに、成果が目に見えにくい取り組みに力を入れることはなかなか厳しいのが現状ですし、園の方針と諦めてしまって自分を責めてしまってしまっている人もいると思います。古く根付いてしまっている文化であり、残念ながら保護者もそれを望んでしまっているのいう根深い問題があります。(これも保護者が悪いという話ではありません)

志高くこの業界に入っても、現実を見て幻滅して辞めていく人たちを見てきました。保育士不足は賃金の問題だけではないと感じています。

では、この見栄え問題は解決しないのか。というとそんなことはなくて、テクノロジーと時代が、保育業界を変えていくと思っています。

私は日々の業務に忙殺されてしまう保育の業界ではなく、まだ未開拓の学童保育の業界で実践を積んで保育業界の改善の力になりたいと思って活動しています。その中のある事例を紹介します。

私が勤めている放課後児童クラブを運営する法人は保育所が母体なのですが、残念ながら前述のような見栄えを求める保育を続けています。

4年前に私が着任し学童保育だけ「子どもの主体性を尊重」した保育を始めました。なにかを覚えさせるわけではなく、指導するわけではなく、子どもの今を尊重する。ただ、自由にさせるだけならフリースペースでも良いわけだから、その分支援員の「視点→考察→支援」の専門性を徹底的に高めて6つの事業所が同じ方向を向いてやっていきました。「子どもの最善の利益のために」「いま楽しいか」「いましんどくないか」「生活の全体性・連続性を見ているか」と何度も繰り返し話し合い、実践を積み重ねて質の向上を図ってきました。

結果どうなったか。前述した通りそういう法人なので、上司、法人内の保育園職員から猛烈な批判を受けました。これまで通っていた子どもの保護者からも「今まではあんな活動やこんな遊びをしてくれていたのに」と意見をもらいました。間違ったことはしていないはずなのに、なんでなんだろう。子どもはこんなに生き生きとしているのに、自分たちでどんどん成長していってるのに…。厚生労働省が出している指針に合わせてやっているだけなのに。王道のはずなのに…なんで理解してもらえないんだろう。

そこから、僕たちがやることは変えずに、伝えることに注力していきました。送り迎えの際には鬱陶しいくらい今日あったことを伝えて、月間のお便りも報告だけでなく支援員の視点が伝わる内容に。パンフレットを新しくして「知徳体」のような大事なことを言っているようで何も言っていないような内容ではなく、明確に「ここを大切にしています」ということを伝えるようにしました。

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それを続ける中で、流れが変わったと実感したのがSNSで毎日の子どもの姿を投稿するようになったことがきっかけです。これまでもブログをしていたけれど不定期であげていたのを、「日々の姿を大切にしている」という明確な目的を知ってもらった上で、ほぼ毎日子どもの何気ない姿を写真に撮って支援員の視点を添えて発信していきました。

ずっと見えないまま行事ごとにドンッと大きな成長は見せられることはないので初めは物足りなく感じられたかもしれません。けれど、毎日の生き生きした子どもの姿というのはそのドンッに勝るものがあります。なにかに熱中している顔が、毎日楽しく過ごすことがなによりも大切なことだと思えます。

その時に初めて、僕たちは毎日当たり前のように子どもたちの「楽しそうに遊ぶ姿」や「何かに夢中になっている姿」を見ているけれど、保護者はそれを見れていないのだ。ということに気づいたんです。そりゃそうだろうと思われるかもしれないけれど、そんな簡単なことに気づかずにいたんですよね。それを見せることはできないという固定観念があったのかもしれません。

今までの時代はそれができなかったかもしれないけれど、今の時代はそれができるんだと。本質を求めたら見栄えしなかったものが、本質を追求するからこそ目に見える形で伝わっていく、ということを実感したケースでした。

もう一つ「保育の専門性は理解される」と感じた大きな出来事が、私がツイッターで発信した漫画です。普段から気をつけている関わりを漫画にして発信したら、多くの人に共感してもらった。当時フォロワーさんが50人いなかった中で、多くの方々の共感を得ることができました。なにより嬉しかったのは現場のチームのメンバーと「間違ってなかったね」と言い合えたことでした。

そんな風に実践を積み重ねながら「専門性」のある仕事であることをコツコツと発信していて、最近「本当に保育業界は変わっていける」と実感しています。

「子育て経験者は保育士の代わりになる」かどうかは、正直わかりません。けれど、保育士の専門性を見直すきっかけとなればいいなと思っています。私たちの仕事がどんなものなのかをちゃんと伝えることはできると思うから。

私たちが諦めずに変わっていくことができるなら、きっと、保育士には向かい風が吹いているように感じるこの時代が、逆に新しく生まれ変わる大きなチャンスなんじゃないかと感じています。


(実際のところ、知識も視点も経験も状況も環境もさまざまな事象が複雑に絡み合った上で総合的に判断し支援・保育にあたっていますが、わかりやすくするために簡潔にまとめています。ご了承ください)


あとがき

部分的に見ると、今の保育士さんに専門性がないというように捉えられるかもしれませんが、そのような意図はありません。仕組みの問題に言及するために書いています。子どもたちの毎日を守っているのは、間違いなくいま働いている保育士のみんなの力があってのことだと思っています。

2020.4.21:追記、編集

経験がないことで保育士を諦めたり自信が持てなくなる人が少しでも減ればという思いで、4.5.を追記しました。

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