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子供は「子ども」と、障害者は「障がい者」と書くべきなのか

[大学の講義で、子供の「供」は供え物という意味が含まれていることから「子供」表記は不適切で、「子ども」と表記することが望ましいということを学んだ。]という旨のツイートを目にして、少し思ったことがあるのでまとめておこうと思います。

問題はそこじゃない

まず、この「子供」表記問題について。私が認識しているのは、もともと複数を表す「共」から「供」に変化したという説。「子たち」という意味だ。それが定着して「子供」が単体にも使われるようになった。こないだドイツに住んでいる友人が「日本語は単数複数が曖昧だから日本語を少し話せるドイツ人が“友達たち”と言い間違える」と言っていたんだけれどそういうことだろう。

そんななか、「お供(おとも)する」という意味もあるから「大人に付き添うもの」という意味があったんではないかという説から、一人の人として尊重するようにとひらがな表記に。最近になって「お供え(おそなえ)」という意味もあるから「神に人命をお供えする」からきたんだという説が出てきた。と私は認識している。

上記はあくまでも私の認識であって詳細な真偽は定かではないのだけれど、それについてはそこまで重要なことではないと思う。きっと諸説あるだろうし、きっとこの問題については多くの場所でいろんな人が議論し尽くしているだろうから特に深めるつもりもない。

そもそもの問題として、
・漢字には一文字で様々な意味がある
・同じ漢字でも使い方によって全く違う意味になったり、熟語として使われだしてから意味が反対になったりすることもある(適当とかそうですよね)。
・その漢字が使われているからといって、その字の意味が含まれるわけではない。

という前提があるんだから、個人的には背景を知らずにその漢字だけにとらわれて表面だけ変えてしまうことはナンセンスだと思っている。

本当にしなければいけないのは、「供」という漢字を使わないことではなく、「お供をさせる」「人命を捧げる」というような「子どもの人権が尊重されない」文化が実際にあったということを知り、子どもの人権を尊重できるように各々が気をつけることだし、その方向に社会を変えていくこと。


わかっています、理想論です。
それでも、そこに意識を持っていかないといけないと思っている。

「過去の過ちを忘れないために戒めとして残すのです」ということではなくて、「問題をすり替えちゃいけない」ということ。

表面を取り繕えば、それで問題が解決したように思ってしまうから。そうなったら、本質を見ることはなくなってしまうから。


そもそもの意味を知る

「障害者」という言葉も、同じような問題を抱えていると感じる。

「障害者」という言葉が問題視されて「障がい者」「障碍者」と表記するようになってきている。言わずもがな「害」というマイナスな表現を使うことが差別であるとされたためだ。

その一文字にとらわれて「害」という漢字を使わなくなってどうなったかといえば「差別をしてはいけませんよ」「害という漢字を使ったら差別なんですよ」という見解が広まっただけのように感じる。障害者への理解が深まったのではなくさらなる偏見が生まれたかもしれないと思ってしまう。

というのも、そもそも障害者の「障害」は、その人自身にあるのではなくその人が生きる社会の側にあるもので、「障害を持っている人」ではなく「いまの社会に障害があって生きづらい人」という解釈が正しいんだけれど、「その人が持っているもの」と思っている人は少なくないだろうと思う。

バリアフリー。この言葉を聞いて多くの人は段差がない道や部屋を想像するだろうと思う。その段差が障害なんだよね。ハンデではなくバリアなんだよね。ハンデキャップを埋めることではなく、障害(バリア)を無くす(フリー)ことが本当は必要なんだよね。

そんな中で「障害者」を差別表現だとして「障がい者」と表記する(ことだけに固執する)ようになると、さらに誤解を生んでしまいかねない。本当は社会の側が「障害」を無くしていかなければならないのに、「障がい者」がこの社会でやっていくしかないという構図になってしまう。

前述した「子供」の問題と同じで、表面だけ取り繕って問題が解決したように見えても問題の本質からは遠ざかってしまう。

もちろん、当事者の方にとってその漢字を自分に向けて使われることが辛い人もいるだろうから表現を変えることには賛成だし、誤解を生む表現自体を見直すことは必要だと思っているし、区別すら曖昧にしていくべきだと思っている。

それを考えたときにそんなに簡単に解決できる問題では無いこともわかっているつもり。


その言葉を変えることが悪いことだとは思わないし、色んな方法や視点から差別や偏見を無くそうとすることはとても大切なことだと思う。
だから、その問題の是非について物申したいということではなくて、ちゃんと問題の本質を見ておきたいし知っておきたいなということ。そして、そういった表現について話をするときには、背景とその問題の本質をきちんと伝えた上で理解してもらうことに努めていたいなと思います。


表記を変えるだけではなくて、子どもをひとりの人として尊重して関わっていたい。学童で過ごしているときだけでもその子にとって障害が無いように物理的にも精神的にもバリアフリーな居場所でありたい。ここに来ることができればバリアフリーですよ、ではなく、そこに行くまでの障害もなくしていきたい。全部自分ができるわけではないけれど、目の前で起きている問題からは目を背けたくないし自分ができることを積み重ねて少しでも多くの人の生きづらさがなくなっていけばいいなと思っている。

ちなみに、私は「僕」という字を「ぼく」書くことが多いです。それは「僕」が「しもべ」という意味だから使いたくない、ということではありません。単に字面が好みだからです。同じ理由で「子供」を「子ども」と書きます。


最後に

その「表現を変えよう」とすることはその人にとっての「誰かのために出来ること」だから、その行為自体を批判しているわけではないです。そういった情報も含めて物事をきちんと見て知って鵜呑みにせずに調べて、常に問題の本質に目を向けていたいなという思いです。
この文章で傷つけてしまっている人がいたらごめんなさい。

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