理屈で保育ができるでしょうか
より良い保育を目指している中で「あなたは熱いからね」と言われたことがある。情熱があるからそこまでやれるんだ、と半分は敬意を示してくれたのだろうけれど、半分は「他の先生には暑苦しいんだよ」というニュアンスが含まれていたため「情熱で保育はしていません。仕事です」と答えた。何年かして同じ人に「指針とか理屈ばっかりじゃなくて、思いとかがあるやん。思いで保育しようよ」と言われた。「どないやねん」というツッコミはせずに「思いで保育はできません。専門性のある仕事なんだから、理論で保育をするんです」と答えると「そういうところやで」と辟易された。お気づきだろうか。そう、ぼくは嫌われている。
理屈っぽいとよく言われる。
だからといって人の心を持っていないわけではない。子どもの姿に一喜一憂するし、ふとした成長に感動したりもする。情に流されやすい性格だし、正義感が強いからこそ自分の思いを主張してしまうことも多い。だからこそ、冷静に保育できるように、偏った関わりをしないように理論立てて保育をしたいと思っている。「保育を科学する」というのはどうだろう(カッコつけた)。
その理論を噛み砕いていけば、多くの人たちに応用してもらえるんではないかと思っています。
理屈っぽいのをなるべく伝わりやすいように漫画にしているんだけれど、ちょっと今回は文章のまま載せようと思います。(漫画にしない理由は聞かないでください。サボっているだけです。文章だと隙間時間で書けるんですが、漫画は気合入れて机に向かわないといけないので…。改めて漫画にします)
同じように悩んでいる人のなにかのヒントになれば、誰かのなにかの役に立てれば幸いです。(正解としてではなく、ひとつの視点として書いています)
【子どもの姿を見るときに、ぼくが気をつけていること】
1.なぜ、それをしているのか
僕たちの行動には動機があります。ご飯を食べるのはお腹が減るからだし、映画を見るのは楽しいからで、遅刻しないのは嫌われたくないからかもしれません。仕事をするのは楽しいからかもしれないし、楽しく仕事をするのは楽しく仕事をする人に憧れているからかもしれない。突き詰めていくと分からなくなって考えるの嫌になっちゃうし、そもそも行動原理なんて心理学者の人たちでも意見が分かれることもあるのであんまり難しくは考えないで、自分が考えられる範囲で想像してみます。
保育をする上で子どもが「なぜその行動をとるのか」をこちらが理解しておくこと、理解に努めることが大切だと思っています。行動原理、とまで言うと難しく感じてしまうのでシンプルに「なぜそれをするのだろう」と考えています。
目の前の子どもがどんな思いでその行動を起こそうとしているのかを観察してみると、なんとなく見ていた姿が、「褒められたいから?怒られたくないから?楽しいから?衝動から?」と具体的に推測することができます。
ただ、ここで気をつけているのが「答えを見つけない」ということ。大切なのは、「その視点でみる」ということなので。
で、子どもの動機として大きなエネルギーとなるのが、言わずもがな「楽しい」や「おもしろそう」といった内側から出てくる感情です。
人によっては「褒められたい」「認められたい」という思いを優先する子もいます。
どちらが良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとかでは無いと思っています。一番大切なのは「その子がしんどくないか」なので、答えを見つけてしまおうとせず「その子の姿」に焦点を合わせます。
なにか活動をした後「どうだった?」と尋ねた時に「楽しかった!」と答えたとしても、[「楽しかった」と答えたら喜んでくれるから楽しかったと答えよう]と思っているかもしれないので(その行動や結果に目が行きがちだから)その子の姿をしっかりと見るように心がけたいと思います。
こんな風に話していると「いや、考えすぎてめんどくさいわ」と言われることもあるんですが(冒頭の上司の気持ちがわかってきたかもしれませんが)、慣れてきたらそんなにめんどくさくはなくて、逆に表面だけ取り繕ったものを見ると違和感を感じるようになります。
僕ら大人も例えば「仕事どう?」って上司に聞かれて「楽しいです」と答えたとしても、それが100%の本心かと言われたらそうじゃない時もあると思います。それを、「実は楽しくないんじゃないのー?」と勘繰られたら鬱陶しいです。けれど、裏っ側に隠してる「しんどさ」を理解してくれていてこっそり助けてくれたら救われると思うんですよね。それが僕たちの仕事かなと思っています。
2.僕たちの言動がどこを刺激しているか
そして、僕たちの言動が、子どものどの部分を刺激しているのか。を考えます。
怒って恐怖でコントロールしているのか、褒めて承認欲求を満たそうとしているのか、楽しんでいるのを邪魔しないように見守っているのか、などを自分で認識することが大切だと思っています。
これも、どうするのが正しいということを言いたいのではないです。
毎日の子育ては「こうすればこうなる」という白黒はっきりつくような正解はないから、その時々の状況に合わせて多種多様の関わりがあります。
そんな時に、自分がいまどのような視点にいるかをメタ認知(客観的に自覚)しておくことが大切になってくると思っています。
怒って褒めて楽しんで、目まぐるしくすぎる毎日を冷静に見てみると、怒り過ぎたと落ち込むことも甘やかし過ぎかなと悩むことも減るんじゃないかなと思います。
子どもをコントロールすることはよくない、と分かってはいてもそうしなければならない状況もあります。
例えば
「怒って行動を促す」場合に
・危ないことだから怒ってでもいい聞かそう
と、考えないといけないかもしれないし
・いますぐに行動を制止する必要は無いから怒らずに伝えよう
と、冷静になれるかもしれない。
・怒るほどのことでもなかったから、次からはこのことについては怒らずに見守ろう
と、その視点に軸足を置いて省みることもできます。
「子どもをコントロールしようとすること」は、その子の主体性や人権を尊重していない事になるのでなるべく避けなければならないけれど、だからと言ってその言葉を鵜呑みにして「ダメな保育や子育てをしてしまっている」と落ち込むことはしなくていいと思っています。
冷静にメタ認知して、怒るほどのことじゃなかったのに怒ってしまったな、と思った時には「寝不足で余裕が無いからかも」「気圧が低くて体調が優れないからかも」と冷静に自己分析して改善すればいいし、「今日は調子悪いし、気をつけよう」と次に繋げることもできます。
また、「口うるさくなってるな」とか「全然うまくいかないな」と思った時に、自分がどこに焦点を当てているのかをいくつかの視点で見られるようになります。
・子どもの姿(楽しさ、しんどさなど、非認知の能力)
・大人の思い(キチンとしてほしい、規律を守ってほしいなど、認知能力)
・人としての感情(単純に気に食わん、腹立つ)
・安全、健康(危ない、不安)
・体裁、見栄え(保護者や保育士などふ周りからどう見られているか)
など、自分で分類分けして分析できます。
そうすると、「最近忘れ物とか片付けとか「キッチリする」に偏って怒ってばかりだったかもしれないな。今日は「キッチリする」を放棄して「楽しむ」にシフトしてみようかな」とバランスが取れるようになってきます。
子どもの思いを尊重して、安全も保障して、きっちり身の回りのことができるようにして、行儀よくして、子どもの意欲関心を育んで…なんて、まとめて出来るわけがありません。(いや、できればいいんだけれど)
だからこれは、いつでもなんでも楽しくやりましょう、という話ではなくて(楽しいが一番だけれど、毎日のことだからそうもいかないし、「ちゃんと」してほしい場面はあるし、その思いも間違いではないから)、そこを感覚やイメージではなくて論理的に認識/把握しておくことが大切なのだと思っています。
いま、自分はどこに向いているのか、を意識します
そして、この時に向いていく指標を明確にしておくと、気付きやすいしさらに細かく行動を理論立てることができます。(後付けではなく)
少し例を挙げてみます。
僕が勤めているのが学童保育なので小学生を例に出しますが、根本の考え方は幼児保育も同じだと思います。
目的【子どもの最善の利益】
(ここに向かうように)
その中で、目的は抽象的なので、少し具体性を持たせた指標を設置します。
[安全・健康・発達]
→安全で健康な育ちを保障、体調に配慮など
[子どもの主体性の尊重]
→子どもが主役、意思の表明や選択する権利など
[個の尊重・多様性の理解]
→ひとりの人として尊重、文化の尊重など
[連続性・全体性を考慮]
→1日の連続性、生活や育ち/発達の全体性を考慮
そのためのさらに具体的な視点として
例えば
「いま、楽しいか/しんどくないか」(主体性、安全)
「この後しんどくないか」(全体性、健康)
「後々しんどくないか」(子どもの最善の利益、育ち)
を見るようにする、などです。例はごく一部ですが。
例)「宿題をしなければならない、けれどしたくない。遊びたい」という場面。
宿題をやるように促すときに「宿題やりやー」と声をかけるとして、その時の自分の頭の中をメタ認知してみます。すると「決まってることだから」「保護者さんにも言われてることだから」という自分がいることに気づきます。もしかしたら保護者の方に嫌な顔をされてしまうかも…と思ったりすることもあるかもしれません。
そんな風に考えている自分を認知したときに、指標を思い出します。
「この子がしんどくないか」を頭に置くように意識してみると「今日は学校で色々あってしんどいのかもな」と見るところが変わってきます。
生活の全体性を見て「この後しんどくないか」を意識してみると「家に帰ってからだと寝るのが遅くなるから少しでもここで終わらせておいた方がいいんじゃないかな」と考えられます。
なんとなく「決まっていること」として声をかけていたのが、その子の上に矢印を持ってきて「その子の最善の利益のためには、どうするのがいいのだろう」と考えるようになり、常に自分の言動をメタ認知するようにすると、自分はその指標に向かっているのかを省みることができます。
別の例を出します。
ある活動(しなければならないこと)の間にあそび(楽しいこと)を挟む場合に、それがご褒美となっていないかを考えてみます。ご褒美として機能してしまっているならば、それは結果的には、その活動をさせるために人参を吊ってコントロールしようとしているということなので、主体的なあそび(指標)には向いていないことになります。
では、子ども主体という目的に向かうにはどうすればいいかを考えると、活動の間にご褒美として入れるのではなく、あそび(楽しいこと)がメインにくるようにする。「これをしたら、これができるよ」ではなく、「これを思いっきり楽しんで、あれはあれで頑張ろう」と分離して考え支援するようになります(一つの例です)。その「しなければならない活動」に向き合うのがしんどいときには、「そのしんどさを解消するために」ご褒美があってもいいと思います。人参を吊るす例と結果は同じかもしれませんが、「行動」に焦点を当てているか「この子のしんどさ」に焦点を当てているかで全く違うんですよね。そして、この小さな違いが保育の内容や質を大きく変えると思っています。
自分が、または子どもが、いまどんな状態かを的確に把握することで、ちゃんと目的の本質に向かっているのかを見直すことができます。
それを繰り返していると、うまくいかない日もはっきりと見えてきて「ああ〜うまくいってないなあ」と落ち込むし「ああ〜めっちゃ落ち込んでいるなあ」と思ったりもするんですが「落ち込んだときにはうまいもん食ってしっかり寝るのが一番やで」と、がむしゃらになりそうな自分を一休みさせてくれたりもします。
この子のためなのだ、と言い訳しないように。けれど自分を責めないように。
毎度のことながら長くなってしまいました。そろそろ終わります。
常に客観的な視点で振り返る習慣をつけると、事後ではなくその場面場面でメタ認知出来るようになってきます。関わりの中で「いま、自分は感情的になっている?」「いまの声のかけ方は子どもを誘導しようとしていた?」「よし、ちゃんと冷静に話できてるぞ」など、客観的な視点からもう1人の自分が問いかけてくるので、その場で気付きながら軌道修正することができます。そして、その視点が本質に向いているかを意識できるようになってきます。
客観的に自分の行動を振り返るので、怒ることも落ち込むことも減るし、その場で間違いに気づけたら素直に子どもに謝ることもできます。
保育者にとって一番必要な資質は「自分はあっているのか?」と自問自答し続け、自分の経験や考えに固執せず人の考えを受けてためらいなく自分の考えを変えていけることだと思っています。
常に考え反省し改め行動していくことが僕たちの仕事の唯一の正解だと思うし、大切にするべき指標を見失わずにするために、めんどくさいことだけれど理屈で保育をしていきたいと思っています。めちゃくちゃ嫌われますが。
保育が好き、子どもが好き、その思いはかけがえないものだし大切なものだけれど、それだけでは専門性が足りない。そこにある専門性を論理的に紐解き、多くの人が応用できるようにすれば、保育が好き子どもが好きという思いを生かしたまま専門性の高いものになっていくんではないかな、と考えています。
思いで保育ができるように、理屈っぽくても、ぼくは保育を科学していきたいです。(最後にもう一回カッコつけた)