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その部屋の隅にこっそりと花を飾ってみるのはどうだろうか。

この春、また多くの保育士たちが辞めていくだろう。前向きに辞める人もいるだろうけれど、この業界に失望して辞めていく人たちも少なくないだろう。

僕の周りにも、この仕事を続けたいのに、続けられない、そんな人がいる。それを聞くたびに、何もできない自分の無力さを痛感する。

一年目の保育士さんと比べたら、僕を含めた先輩たちはそりゃあできることは多い。けれど、業界にとっては、ある程度できる僕たちなんかよりも次の時代を引っ張っていく若い人たちが辞めていくほうが損失だ。

「たかだか数年でプロだと言うなんて偉そうだ」と、複数の保育園を運営する経営者に言われたことがある。

ある保育施設の園長からは「保育業界を良くしていきたい」なんてこと言っちゃうから嫌われるんだよと言われた。

上の言うことに歯向かわずに、謙虚にしおらしく働くことが良いこととされる空気をいまだに求めている。奉仕の心、愛情、献身、そんな言葉で保育士を蝕んじゃいけない。

貴方達が雇っている保育士たちは紛れもないプロなんだよ。専門性をもって保育をして、報酬を得ている。そんなプロたちが、この業界に失望して辞めていくことの重大さを感じなければならない。

ぼくが革命をする!なんて、大風呂敷を広げるつもりはない。ただ、目の前に変えなければならない事実があって、それを少しでも良くしていこうと思うことを諦めたくはないのだ。

SNSで発信するようになって、「保育・教育の業界を良くしたい」そんな思いを抱いている人たちが多くいることを知った。それと同時に「同じ思い」のはずなのに分断し対立する場面を見るようになった。それぞれの場所で、それぞれのできることをすることしかないことを感じながらも、自分がどの立場でどこに向かっているのかを改めて整理することにした。


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花を飾ってみるとかどうでしょうか

ある地域の色々な保育園の主任やリーダーの職員が集まって開催された「働き方を見直していい職場にしよう」という趣旨の会議に参加した際に、働きにくさの話題で「事務仕事の煩雑さ」と並んで「職場の雰囲気」が取り上げられました。それは「上司の圧力で意見が出せない」というもの。この会議に参加している主任たちは、役職としては園長の次なのだから「あなたたち主任クラスが意見を言えないのなら現場の保育士みんな何も言えないじゃないか」と心の中でツッコミたくなったけれどそれは心の中だけに留めました。その主任たちが心底しんどそうだったからです。そんななかでも少しでも良くしていこうという思いで集まったわけだから、僕はある提案をしました。いま考えれば(その時にも薄々感じていましたが)この会議で僕が意見を出すこと自体求められていなかったようですが、そんなことは知らないふりです。解決の糸口となることなら言葉にすべきだと思っているし実際前向きなアイディアだと思って発言したつもりでした。

「小さなことでもいいから意見を聞かずにやってみるというのはどうでしょう」
子どもの主体性についても言えることなんだけれど、「自分で選択できること」と「自分が世界を変えられると知っていること」は主体的に生きていく上でとても大切な要素となります。それができるように、その小さな成功体験を積み重ねるための支援をすることもあります。

たとえば「アイス食べたいなー」とボソッとつぶやいた子がいるとして、そこには「言うたって無理なんは知ってるけど〜」という内心が見えます。その予測を裏切るのです。
「お、ほんなら買いに行こか」と返してみる。「え?ほんまに!?」と意表を突かれながらも喜んで一緒にスーパーへ買いに行く。みんなでアイスを食べる。自分が言ったことが叶うという経験をすると、次からも「できるかも」という期待のもとで自分の思いを伝えてくれるようになります。少しスケールが大きくなるかもしれません。「流しそうめんしたいなあ」とか「バーベキューしたいなあ」とか。「お、いいね!どうやってする?(どうやったらできる?)」と、一緒に実現する方法を考えていく。それを積み重ねることによって「どうせ無理やろ?」が「どうにかしたらできるかも!」に変わってきます。すると、子どもは自分の人生は自分で決められるんだということを知ります。いま自分が食べたいものを食べるし食べたくないものは食べない、そんな当たり前のことを「自分の意思で世界を変えられる」ということを知ります。普段「与えられている」と思っているものも自分で作ることができることを知ります。

これは、失敗をした時の関わりでも生きてくると思っています。

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もちろん、いつでもどんな時でもなんでもかんでも子どもの願いを叶えられるわけではありません。目的は、子どもが抱いている「どうせ無理なんやろ」を取っ払うこと。そのために僕たち保育者がいると言っても過言ではないと思っています。

つまり、「どうせ無理やろ」という空気になっていることを「やってみようか」と前に進めてみる。「え?できるの?」という空気のなか実現する。すると「無理だと思ったことでも言ってみたらできるかも。やってみたらできるかも」と行動に主体性を帯びるようになってきます。

そんな小さな成功体験となるように…と思って提案しました。

「なんでもいいから許可を取らずにやってみるというのはどうでしょう。たとえば職員室に“勝手に”花を飾るとか。花を飾ったくらいでケチをつけてくることは無いだろうし、万が一ケチをつけられても悪いことしたわけじゃないから堂々としていられるし」と。

もちろん、目的は職員室に花を飾ることではありません。自分たちの意思で環境を変えること。その行動の足がかりとしての提案です。難しいことではないことを伝えてみたのですが返ってきた答えは意外なものでした。

「できるわけないやん、君はなんも知らんねん」

後味なんて残らないくらいあっさりと却下されたのでした。

この時、自分の提案が無碍にされたことよりも保育士の主体性がここまで蝕まれているのか…というやるせ無い気持ちのほうが大きかったのを覚えています。子どもの主体性を尊重した保育というのは現代保育の大きなテーマですが、それを支援するはずの保育士の主体性が全く失くなってしまっている。これは、その職員に主体性がないということではなく、主体性が尊重されない現場であるということです。

ついでに言わなくてもいいことを言うと、[いい職場にしていこう]という趣旨のこの会議が、参加した園の上層部から謀反だと批判を受けて次年度から開催されなくなった。というのも世界観を徹底していて笑い話にもなりません。

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そんななか、特にそれについて発信したわけではないのですが、全く別の地域の保育士さんから同じような境遇の相談を受けて同じような法人や保育園が他にも多くあることを改めて知ることになりました。

現場の保育士は意見を言えず、必要のないことを「やめる」ことも新しいことを「始める」ことも「できない」。子どもの最善の利益や保育士の働きやすさについて考えたり話したりしたくてもそれができない。そういった園が少なくないこと。そういう園でも保育士たちは葛藤しながら子どもたちのために奮闘していること。

「この法人(園)だからしょうがないよ。諦めたほうがいいよ」「自分がやりたい保育ができる園に行けば?」と親身になっているようで「郷に従えないあなたが悪い」と非難してくる人がいます。「志を持って保育をしているんだから、ここで消耗されるくらいなら他のところに移ることを考えたほうがいい」と本気で心配して諭してくれる先輩もいます。けれど、葛藤して向き合っているその人が去ることが本当に最善の選択なのか…?

その現場で戦っている人たちに、間違っても「違和感を持ってしまう自分の方がおかしいんじゃないか」と思わせてはいけない。そこで悩んでいる保育士たちこそ、まっすぐ子どもたちにも保育にも向き合おうとしている人たちなのだから。

その先生が悪いわけではなくて、その職場環境や業界のあり方自体に問題があるということ。
どんな園にいても子どもには人権や育ちや質の高い保育が保障されるべきだし、それぞれの保育士が主体的に取り組める環境が保障されるべきだ。当たりはあっても、ハズレがあってはならないということ。

どうすればそれが実現できるだろう。何ができるのだろう。と、そればかりをずっと考えています。このnoteを書いている今も答えは見つかってないんだけれど、現場の保育士のせいや職場の環境のせいだけにしてはいけないことは分かっています。だから、いま出来ることと、どの方向に向いていくかをまとめていこうと思います。最後まで読んでいただけたら嬉しいし、同じ方向を向いていきたいと思ってくれる仲間ができることを期待して。

さて、ここまでは現状への不満、批判です。問題提起はとても大切なことです。しかしながら「こんなのおかしい!」と叫ぶだけでは世界は変わらないのは分かっています。ここからは未来を変えるための前向きな話をしていきたいと思います。

改革を進めていく上で、いろんな立場や役割があると思っています。特定の立場が正しいと主張したり、ある立場が間違っていると非難したり蔑んだりすることは不毛なことだと思っています。

それぞれの立場や場所でそれぞれが前向きに問題解決に向かってこそ全体がいい方向に変わっていくのだと思っています。

そんな中で、自分がどの役割であるかを知っておくことは大切なことで、どの方向に向いていたいかを明確にしておきたいと思っています。戦う相手を見誤らないために。

後編


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