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夢を語る子にどうやって向き合うか

努力をすれば、諦めなければ夢は叶う。なんて僕は思わない。叶わない夢はあるし、努力ではどうしようもないこともある。ただ、子どもの夢は肯定する。いや、子どもだけじゃなくて誰のどんな途方も無い夢でも。それにはちゃんと理由がある。

はじめに


先日、TwitterのDMで質問をいただきました。

子どもは将来の夢で、プロ野球選手になりたい!や、お姫様、プリキュアになりたい!など努力次第でなれる可能性のある職業や、非現実的なものまで、様々な夢を持っていると思います。大人の観点からすると、プロ野球選手なんかなれるんか?と思う反面、否定はせず、頑張ったらなれるよ!と返事はするのですが、、、物心ついてくると自分が思い描いていた夢と現実はかけ離れている事に気付いた時、絶望感を感じるのではないか、と思います。
ですが子供の夢は壊したくないので、、複雑です。
どうやって子供の夢と向き合えばよいでしょうか

という内容。

僕も全く同じような悩みを抱いていたので共感しました。簡単に「なれるよ」なんて言えないし、だからと言って「子どもの夢」として(叶わないと思いながら)話を合わせるの違うなあと思っていました。

そのDMに答えながら、ああ、夢を追ったり保育をしたりしながらやってきた僕だからこそ答えられることってあるのかもなあと感じたので、僕なりに出した答えをここにもまとめておこうと思います。


1.夢が、その子の姿を見せてくれる

子どもが夢を語った時に、僕たち大人は自然とその子がその仕事についたときのことを想像します。そして、今のその子の姿を見てその夢が「叶うか叶わないか」を勝手に予測します。

そうすると、「無理なんじゃないかなあ」と思いながら夢を壊さないように「なれるといいね」と言ったり、現実を見て欲しい時には「それは無理なんじゃないかなあ」と伝えることになるかもしれません。

でも、夢を話している時の子どもの姿は希望に満ち溢れていてキラキラしているからこそ、適当に答えるのは違うんじゃないのかな、と感じることもありました。


だから、視点を変えることにしました。


子どもが夢を語った時に、それが「叶うか叶わないか」を見るのではなく「なりたい」と感じているその姿に焦点を置いておいてみてはどうかなと。

「ただかっこいいから」という理由で仮面ライダーになりたいと言っている子でも、それに憧れているという姿はかけがえないものだなあと感じます。

「叶う叶わないに関係なく」という言い方をすると「過程が大事なんだよ」「努力することが大切なんだよ」と捉えられそうですがそう意味ではなく、子どもが「なぜそれになりたいのか」に大人が思いを馳せてみるのも面白いんじゃないかなあ思うんです。

子どもの「これになりたい」は、その子がその仕事を見て感じた「こんな人になりたい」なんじゃないのかなと。その夢の中には「どんな仕事をしたいか」だけでなく「どんな人間になりたいか」が内包されているんじゃないかなと。


プロ野球選手になりたい、という夢を語ってくれる子がいたとします。


それを「叶う叶わない」で見ると

・あんまり上手くないからムリかも
・才能あってもなれるのは一握りだし運も左右するし
・めちゃくちゃ努力なきゃね

というような考えになると思います。それは「叶えるために」に焦点が置かれていて、そこにはその子の姿はあまりないように感じます。


これを、「なんでなりたいんだろう」に焦点を合わせてみます。尋ねてみたり考えてみたりします。

例えば、

・「テレビで見てカッコ良いと思ったから」という答えなら、
憧れを追いかけたいという思いがあったり、誰かの憧れになりたいのかもしれないなと考えることができます。誰かに夢やパワーを与えるのを生きがいにしていくかもしれない。カッコいい自分になるために努力を続けていく力を持っているかもしれない。とその子の姿を想像できます。

同じように

・おじいちゃんが阪神ファンだから
→おじいちゃんを喜ばせたい/身近な人を幸せにしたい…のかも。誰かと楽しんだり、喜びを共有することが好きなのかもしれないな。


・少年野球をやっていて野球が好きだから
→目の前のことに熱中する/その先も追いかけようとしているの…かも。今の熱中しているものに正直で、大切にしていきたいという思いがあるのかもしれないな。


・なんとなくみんなが言っているから
→みんなといることが嬉しい/みんなと同じように生きていたい…のかも。特別目立ちたいというわけではなく、好きな人たちといること同じなことに喜びを感じているのかもしれないな。

という風にその子の姿に注目できるようになります。

※「→」の解釈はあくまでも推測の一例で、そんな風に子どもを捉えられるんじゃないかなというだけの意味しかありません。心理テストのようにタイプ分けできるという意味ではないのです。なんの根拠もないので今回の例を鵜呑みにはしないでください(矛盾しているようですが、推測しながらも決めつけないように注意が必要)。


何が言いたいかというと、子どもが語るその「将来の夢」は「今のその子の姿」を投影しているんじゃないかなと、そんな風に見ることもできるんじゃないかなと思うんです。夢が、その子の姿を見せてくれるんじゃないかなと。

そんな風に子どもの夢と向き合うと、子どもの話を聞いてるこちらも一緒にワクワクしてきます。


その子の「その夢」には、その子の内側から生まれた何かがあります。それが、その子の本来持っている生きる力に繋がっているんじゃないかなと考えています。


そして、その「子どもが持っている力」は簡単に摘まれてしまうということも、大人は知っておかないといけないなと感じます。

2.夢をあきらめる理由

ここで、僕の夢を諦めた話をします。興味がない人がほとんどでしょうが大切なことなので書いておきます。

まず、きしもと少年のはじめの挫折は小学校のときでした。その頃の夢は宮大工で(神社とか建てる人)、理由は忘れたのですが、ものを作ったりするのが得意で伝統的な感じがカッコいいなと思ったんだと思います。5年生くらいの時にクラスメイトに「将来の夢なんなん」と聞かれて正直に「宮大工」と答えたんです。すると、そのクラスメイトたちは「宮大工とかムリやろ、そんなんなる人はもう子どもの頃から修行とかしてんねんで」と言われ、あっさり「え、そうなん。ムリなんかあ」と諦めたことを覚えています。なんでなりたかったかを覚えていないのにその言葉たちを覚えているんですから、よっぽどショックだったんでしょう。

そして、二つめは高校2年生くらいで進路を考えた時に、子どもの頃からの好きなことで比較的得意で周りからも評価されていた「絵を描く」ということを仕事にしたいと思うようになりました。美術系の学校にいきたい旨を親に相談したら「絵で成功する人なんて一握りだから」と一蹴されました。その時も、歯向かったりしながらも「自分なんかがその一握りになんかなれないか」とあっさり諦めてしまいました。

断っておくのですが、僕はかなり頑固な方で、こうと決めたらまずはやってみるし、納得できなかったら納得するまで調べたり説得したりする性格です。「子どもの頃から修行をしていないと宮大工になれない」なんて嘘だし、絵の仕事はいろんな種類があって多くの人がその仕事についている。調べればわかるしいつもなら食い下がったかもしれないのに、その時はあっさりと諦めてしまいました。それほど、周りの「否定的な」言葉というのは力を持っているんですよね。根拠なく自己肯定感をごっそり削っていきます。


夢を諦める人の多くや、なにか苦手意識を持っている人の多くは「自分の経験」ではなく「他人の声」が原因なんじゃないかなと思っています。


「わたし絵ヘタやから」と言う子がためにいます。「絵を描くことが好きではないから」ではなく「ヘタやから」と描きたがらないんです。それって苦手だと自分で気づいたんではなくて周りの評価からそれを知って描くのをやめてしまうんですよね。

逆に、下手でも自信を持てばやり続けるし、そうすると次第に上達してくる。周りの「否定的な」言葉というのは力を持っています。と言いましたが、逆も然りで「肯定的な」言葉も大きな力を持っています。


だからもし、誰かに言葉で影響を与えるのであれば、僕は「否定的な」言葉でではなく「肯定的な」言葉をかけていきたいと思っています。誰がどんな途方も無い夢を語ろうが、「いいじゃない」と肯定したい。「できる方法」を僕は知らないけれど、貴方なら見つけられるかもしれない、と背中を押してあげたいなと思っています。


そんな無責任なことを…。と思う方もいると思います。大人ならある程度の見通しは立つし、親ならなおのこと子どもの将来を案じてなるべく苦労しない生き方を、幸せになるために遠回りしない方法を示してあげたいと思うと思います。私の親がそうであったように、時には「現実」を突きつけてでも。


3.その子の人生だということ

この「子どもの夢にどう向き合うか」を考えてきて、ずっと答えが出なかった中でストンと腹に落ちたきっかけの言葉があります。


有名な映画なので知っている人は多いと思いますが「The Pursuit of Happyness(邦題:幸せのちから)」という映画のなかのセリフです。(明確には覚えていないのでセリフの内容は曖昧です)


父親(ウィルスミス)が、バスケットボール選手になりたいという息子に『「お前にはできない」なんて誰にも言わせるな、私にもだ』と話すシーンがあるんですが(全然伝わらないと思うのでぜひ本編を観てください)、それを聞いた時に、「ああ、その子の夢はその子のもので、その子の人生はその子のものなんだよなあ」という当たり前のことに気づいたんです。子どもの夢を聞いた時に、僕が「なれるといいね」とか「それは難しいよ」とか言うスタンスがそもそも違ったんやと。その夢に向き合うのはその子自身なんだと。

日々、保育の仕事をしていて、僕たち大人の役割はその子の全てを肯定するこのなんじゃないかなあと思っています。

それは、その子の姿を映す夢も同じで、僕たちは常に伴走者でいるという思いで子どもたちの夢と向き合いたいなと思っています。叶ったとしても叶わなかったとしても、一緒に走ってくれた人がいるというのが本人にとっては一番大きいと思うので。

あと、自分で夢を叶えるために行動した人は、叶わなかった時にはただ絶望するのではなく、色んなものを乗り越えて飲み込んで諦めるわけだから、僕たち他人に出来ることはなにもないと思っています。けれど、ともに横に走っていてくれる人がいるのなら、安心してまた新しい一歩を踏み出すことができるんじゃないかなあって実体験を通して思うんですよね。


4.夢に縛られない

僕の話に戻るんですが、保育の学校に行って子どもと関わりながら今回の「子どもの夢とどう向き合うか」という問題にぶち当たってまあまあ真面目に考えました。どれぐらい真面目に考えたかというと、就職して1年で「まずは自分が夢を追ってから」なんてカッコつけて仕事辞めてイラストレーターを目指すくらい本気で向き合いました。まあきっと、自分の夢を諦めきれなかったのもあるんだと思います。

絵の仕事は鳴かず飛ばずでニートのような生活をしたり色んなバイトで食いつないだりした時期もあり、結局回り回っていまは子どもと関わる仕事に戻っています。そして、ひょんなキッカケで保育のために書いた漫画がTwitterでいろんな人に評価してもらうようになりました。現在、思いがけず、子どもの頃に描いていた夢が叶おうとしています。

今の僕なら、実体験から「諦めずに続けていれば夢は叶うんだ」と子どもに言うことができるかもしれません。

が、言いません。

10年前の僕なら「よし、仕事辞めて漫画一本でいくぜ」となっているかもしれませんが、そんな気持ちには全くなりませんでした。それは、「現実を見ているから」でも「自信がないから」でもなくて、ただ単に「したいことが変わったから」なんです。


僕自身「絵の仕事で生きていきたい」と思っていたけれど、じつはそんなに絵を描くことが好きではなかったことに途中で気づいたんです。嫌いではないけれど、別に好きなわけではないかも、と。自分でも驚きでした。「え?絵描くの好きやったんちゃうん?」となりました。僕にとって絵を描く理由は、誰かに喜んでもらえるとかだった。で、なにが楽しいかやりたいかというと、僕の場合はやっぱり保育だったんですよね。

例えばこのタイミングで「過去の夢が叶う」という思いで保育を辞めて漫画を描いていっても、きっと自分は楽しくないし幸せにはなれないと思うんです。だって絵を描くの別に好きなわけちゃうねんもん。

逆に、自分の追求したい分野の保育を表現できる「ひとつの方法」として、今まで描いてきた絵が生きているなと感じることはあります。

なにが言いたいのかというと「過去の夢に縛られなくてもいい」んじゃないかなということ。積み重ねてきたものを「もったいない」としがみつかなくてもいいんじゃないかなと思うんです。

逆に言うと、夢に向かう時間が報われないものになったとしても、次に向かう力が育まれていればいいじゃない、と。

子どもとの育ちで、特に非認知能力を育むための大切な視点として「できるできないに捉われない」というものがあります。とにかくその物事に熱中する、楽しむ、ということをしていく中で興味関心が広がり深まり結果的に能力が高まったりできるまで続けるようになったりします。けれど、あくまでもそれがゴールではなくて熱中して続けることが目的です。

そして、それをしていくことで技術だけではなく「前向きに生きる力」(非認知能力)が大きく育ちます。

やり始めたことが続かなくてもいい、何に役立つものなのかわからなくてもいい、とにかく「いま興味を持っている」という姿に焦点を当てて子どもの姿を捉えて共に走ることが大切であり、ひいてはその子の未来に繋がっているんだろうなと思っています。

おわりに

「1.夢が、子どもの姿を見せてくれる」だけで終わるつもりが、あ、これも話しておかなくちゃ、あれも話しておかなくちゃと書き綴った結果、取り留めないとはこのことですね、と言われそうなくらいまとまりのない内容になってしまいました。

夢を語る子どもと向き合っている人、夢と向き合っている人、明日朝早いのに眠れない人のなにかの役に立てれば幸いです。

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