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保育に引き出しは必要か。

「保育に引き出しは必要じゃない?」って聞かれて、自分には何もないなあって反省したんです。

相談してきてくれたその職員は今年度から6施設のリーダーを務めている。もう1人のリーダーと力を合わせ少しずつ自信をつけていき、悩みながらも日々奮闘して力をつけていた。

それを知っていたので「リーダーになるのまだ早かったんじゃないかなって思うんです」と落ち込む姿を見て、足りないことを指摘しても「よし頑張ろう!」とはならずせっかく積み上げた自信も失くして「自分なんて」と自尊心が削られるだけなんだなあ、とビールを飲みながら(話を聞きながら)感じていた。

現在の保育所保育指針や放課後児童クラブ運営指針では、子どもの権利や主体性を尊重した保育について明記されているが、残念ながら慣例や独自の価値観で大人本位の保育や支援になってしまっている園は少なくない。

私の所属する放課後児童クラブはその流れを断ち切ろうと、4年前から「子どもを主体」にした保育にシフトチェンジした。学童保育が正式に「放課後児童健全育成事業」として制定されて厚生労働省から放課後児童クラブ運営指針が発行されたタイミングで、その指針をできたら良いねではなく、目指すべき方向の「指針」として現場は変わっていった。

といっても、もちろん法人や保護者の方々からの理解が得られない場面があって簡単にはいかなかったんだけれど、紆余曲折ありながらもチームで力を合わせながらこの1、2年かけて保護者からの理解も得られるようになっていき定着していった。

そういった現状の中で冒頭のような「子どもの主体とか指針とか人権とかだけ大事にするんじゃなくて、君たちももっと(技術的な)引き出しがいるでしょう」という一見正論めいた批判的な言葉を保育士から投げかけられることがあって、冒頭の場面はその言葉で落ち込んでいる同僚のものだ。

素直にまっすぐ受け止めて「全然引き出しないですわ。ダメですわ自分」と落ち込んでいたのだった。

そんな落ち込んでいる同僚と話したことを、同じ言葉で苦しめられている人に届けばと思いここに残しておこうと思う。

〇僕らの役割を考える

例えば「退屈だ」と言っている子どもがいたとします。

そんなときの、僕らの仕事はなんでしょう。

①子どもが退屈しないように→あそびを提供すること
だとすれば、たしかに技術的な引き出しは必要になってきます。その場でできるあそび、すぐにできるあそびをいくつか用意してすぐさま対応できるようにしておかなければなりません。ピアノで音楽を鳴らしたり、読み聞かせをしてあげてもいいかもしれません。

一般的に保育士と聞くとこのイメージがあるかもしれないですが、実のところ僕らの仕事はそれがメインではないんですよね。どちらかというと、枝葉にある付属の部分です。

本来は、

②子どものしんどさを解消するために
③子どもの楽しいを深めるために
④それを子どもが主体的に取り組めるように
→なぜその言葉を言っているのかを考える。考察する。支援する。

のが、僕たちの仕事です。

誰かとケンカしてひとりになったから気づいて欲しいのかもしれない。やりたいあそびがあるけれど入っていけないのかもしれない。ただヒマなのかもしれない。
それを見て、話して、汲み取って、支援する。

もしかしたら話を聞いて満足して戻っていくかもしれないし、一緒なら遊びに加われるかもしれないし、ただ喋りたいだけかもしれない。その子に対してその子に合った関わりや支援をしていく。

そんな中で、ほんとにヒマで何か新しいあそびがしたいようあれば、引き出しを開けます。

ひとりでゆっくり遊びたいのなら、以前は編み物に挑戦したから刺繍や裁縫はどうだろう。誰かと遊びたそうだけど将棋は飽きてきてるしまだやったことのない囲碁をしてみようか。と、ここでも技術的な引き出しもあるけれどその子の姿や発達を捉える力が求められてきます。

極端なことを言ってしまうと、遊びは教えたり提供したりしなくても子どもたちと一緒に探したり覚えていけばいい。作っちゃってもいいし、ネットで調べたっていい。「なにか作ってみたい?毛糸があるけど(自分は編み物できないし)よし、じゃあ調べてみよう」でいいんですよね。

僕らの頭の中の容量には限界があって、引き出しの数は決まっているから無限に詰め込むことはできない。お医者さんも、その場で答えられることもあれば医学書読んだり専門医の助言を得たりするし、弁護士も六法全書を暗記して判例を全部覚えているわけではない。大事なのは目の前の情報を専門的視点と専門的思考で最適解を見つけ出すこと。

なにが言いたいかというと、なにか技術的な引き出しよりも先に、その子の姿を捉えるための引き出しと、どの引き出しを開けてなにを取り出すかの方が大事だということです。

そして、その子どもの姿とそれを支援するための視点や知識や方法を、どう組み合わせて支援するのかという力を伸ばしていくことが必要だと思っています。

小手先の技術を覚える前にまずは、その時にどんな顔をしているのかを見る力、その姿が子どもの発達のどこに繋がっているのかを考察する力や視点が重要になってくると思っています。

で、その力を身につけたり伸ばしたりするために何より必要なのは、子どもの姿を見て「その子の最善の利益」を考えること。僕らの頭の中に技術や知識を詰め込むことではなくて、頭の中にあるものをなにに使うかの目的を明確にすることなんですよね。

少しまとめます。

大事なのは、
①子どもの人権を尊重できる環境を整えること。(安全も含む)
②子どもが主体(主役)であることを心がけて、原則子どもに意思決定や選択の権限があるようにすること。
③子どもの姿をちゃんと見ること。言葉を聞くこと。子どもにとっての最善を考えること。
④子どもが健全に育つための知識、またはそのために必要な支援方法を身につけること。
⑤考察した子どもの姿を、知識や技術を生かしてどのように支援するのかを考える力を持つこと。
⑥その支援のために、既存の価値観に囚われないアイデアを生み出す思考力をつけること。

小手先の技術がいらないと言っているのではなく、それは大事なことの枝葉の先にあるものだということです。必要なものではありますが、先に技術を身につけてしまうとその技術に囚われてしまって本当に大事にすべきことを見失う恐れがあることを理解しておきたいと思っています。

技術は後からでも獲得できます。けれど、目的に向かう姿勢や考え方は技術の後からは身につきにくいものです。

そして、目的のための手段だったものが、その手段を発揮するために目的をすり替えてしまったり、その方法でうまくいかない場合に「自分やその子が悪いのだ」と追い詰めてしまうことが少なくないのです。

色々理屈を並べましたが、ようは引き出しが少なくても落ち込まなくていいということ。

ピアノが弾けなくても、字が下手でも、絵が描けなくても、手先が不器用でも、そんなことであなたの価値は下がらないし、そんなことで大事な自尊心を削られないでほしい。

ピアノが弾けなくてもCDがあるし、絵が苦手でもフリー素材があるし、字が汚くてもPCで文字は打てます。

手先が不器用なら、不器用な子の立場から支援の方法が見つけられるよ。音楽が苦手なら、みんなが歌って楽しいわけではないのを知っているから、歌わない子が問題児には見えないよ。下手でも子どもと一緒に絵を描くことを楽しめばいいし、できないことがあることを恥ずかしいと思わなくていいって子どもに伝えられるから。

だから、苦手なことがあったとしても、自分なんて、と落ち込む必要なんてありません。

そして、後輩や新しく入ってきた職員にも「できてないよ、足りてないよ」とは伝えずに、持ってる引き出しで最善の方法を一緒に見つける方法を身につけていけたらいいなと思います。


とは言え小手先の技術で助かる人もいる

何度か断りましたが、引き出しを持つことや小手先の技術を持とうとすることが必要ないということではなく、目の前のどうしようもない状況で、一つの小手先の方法に救われる場面も多くあることも事実です。それ自体を否定してはいけません。

また、色んな技術や引き出しがあるからこそ、子どもを見守る視点も増えて奥深く観察することができます。

ただ、その一つの引き出しに囚われてしまって自分はできないのだと追い詰められる保護者や子どもがいることを理解しておかないといけない。それに囚われて本当に大事にしたい子どもの権利を侵しているかもしれないということを肝に銘じておきたいと思うのです。

例えばもし「にんじんが嫌い」だと言う子がいたときに、まずは「なぜその子はにんじんが嫌いなのか、食べないことでどうその子の不利益に繋がるか、その子の思いを尊重しながらどのように不利益を減らせるか」というのを考えられるようになると、追いつめられることも減るような気がします。また、そう考えられる余裕のある環境を目指したいとも思います。

食べたくないと言っているその子をどんな眼差しで見守っていくか、食べられたら嬉しいけれど食べなくても大丈夫と安心できるような視点や知識を共有して安心して子育てに向き合えるように支援していくことが僕たちの役割なのだと思っています。

「にんじんが食べられる方法」を目にすると、「やっぱりにんじんは食べられるようにならなきゃいけないよな」と思ってしまうもの。

保護者の方のその不安を、もしかしたら僕自身が生み出しているのかもしれないんですよね

もしかしたらいっそ引き出しが少ない方が、そのまんまの子どもの姿を見つめられるかもしれない。そんな風に考えてみるのもおもしろいのかもしれません。

あとがき

先日近くの旅館にばあちゃんを連れて一泊しました。食事の時に「このお汁美味しいですね」と仲居さんに声をかけると「こちらは鳴門の鯛で出汁を取っていて、お刺身だけでなくいろいろお楽しみいただけるんですよ」と答えてくれたんです。

ああ、すごいなあって感心して。

料理屋さんの仕事が「美味しい料理を食べて幸せになってもらうこと」だとします。

すると、力を入れるのは料理や接客サービスだと思います。より雰囲気を感じるようにインテリアや空間にも力を入れるかもしれません。

それが仕事です。それ以外の引き出しは後でいい。

けれど、やはりそれ以上を伝えられると価値が上がります。それは答えられる仲居さんにやはり引き出しがあるからで、大切なことです。また、引き出しが多くなると小手先に頼りすぎない奥深さと余裕も出てきます。

だから、そこを目指しはしたいなと思いますし、目指していくことが大切だとも思います。

なにか身につけたいけれど、なにをしたらいいかわからない、という時にも自分の自信になるのでとりあえず技術を身につけてみよう、というのも一つの方法としてもアリだと思っています。

技術や知識がない言い訳として、今回の理論を盾にしてしまうのはそれはそれでプロ意識に欠けるので、両方の視点を持っていたいですね。今回は無くても落ち込むなよ!って視点で書きました。

「鯛の出汁かー!私こないだ鯛の出汁のラーメン食べたわ!美味しかってん!」という答えに「私もラーメン好きです!鯛ラーメン美味しいですよね、〇〇というラーメンやさんもおススメですよ」と自分の経験や好きなことが思いがけず生かされるのも、一つの引き出しだと思います。


結論。


引き出しは増やすものではなく、整理するもの。

ちなみに僕はうどん派です。

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