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保育士を「誰にでもできる仕事」にしていく。というのはどうだろう。

「子どもと遊ぶのが仕事でしょ」って言われたときに、「そうですよ」って答えちゃえばいいと思うんだよね。

ある保育士さんから投げかけられた言葉だ。
物腰が柔らかくて腰が低く優しい、現代の保育現場ではともすれば“頼りない”と言われかねないような方なので(僕はそんなところが好きなんだけれど)皮肉などの他意はなく率直な思いなのだろう。「日ごろ[あそびは素晴らしい]って散々説いといて「遊ぶのが仕事でしょ」って言われちゃうとなんだかバカにされたみたいでムキになる。自信持って「子どもと遊ぶ簡単な仕事です!!」って言っちゃえばいいのになって思ったんだよね。そしたら保育園の先生になりたいって人が増えるかもしれないでしょう。」と続けた。

その言葉を聞いて、ある部分は短絡的ではあるけれど、ある部分ではとても的を射ているなあと感じたのだった。


「誰にでもできる」と言われる仕事

数年前に、「なぜ保育士は給料が安いか」という問題に対してある方が発した「誰にでもできる仕事だから」という言葉が炎上していました。僕の職場でも話題になり、ある人はその言葉に「許せない」と憤慨し、ある人は「何もわかっていない」と呆れていました。保育現場の近くにいながら保育園で働いていない僕は「外からみたらそういう風に見えるんだ」とか「保育に限らず大体の仕事は誰でもできるよなあ」とか「だからこそ専門性を高めないとなあ」とか、いろんな思いを抱いたんですが、総合的にまとめると「まあ、そうだよなあ」と半ば共感の思いでした。

考えてみれば、どんな仕事でもある程度は「誰でもできるように」してあります。それが専門性の高い仕事と言われているものでも、人々が生きていく上で必要な「生活を支える職業」であればあるほど、質を安定させるために誰にでもできるようにしてあるし、誰にでもできるように研究されてきていると思います。

じゃあ、なぜ「保育士は誰にでもできる仕事だ」と言われて大きな反論が起きているのか。

そこには、2つの理由があると思っています。


・その感情はどこから来るのか

まず1つ目。

以前、同業種であるはずの保育士の先輩に「なんで学童の先生なん?」と聞かれたことがあります。そこに敬意は感じられず「保育士は無理やから学童なんやろ?」という、いわゆるマウントをとる姿勢が感じられました。学童保育は職業としての社会的地位はかなり低く、子育てが落ち着いた主婦のパート、教職員になるまでの腰掛けというイメージが大いにあり、専業としての選択肢すら認知されていません。そんな現状なのですぐに「ああ、馬鹿にされてるな」と感じたのですが、同時に「ああ、この人も保育士として同じように馬鹿にされてきたのかな」と感じたんです。


きっと「保育士は誰にでもできる仕事だ」という言葉に怒る時、そこには「馬鹿にされた」と捉えて「なめるなよ」という感情が生まれているんですよね。

その感情が悪いということではありません。僕もその先輩に言われた時には怒ったし失礼だ馬鹿にするなよ、と言い返しもしました。「誰にでもできる」と言われていい気はしないし、その言葉に敬意は感じられない。だから怒るのも当然だし「そんなことはない」と反論するのも正当だと思います。

以前にも書いたように保育という仕事は「誰にでもできる仕事」ではなく「専門性のある仕事」です。専門的見地を持って子どもの育ちを支えています。

ただ、その「なめるなよ」という感情と、保育という職業に向かう姿勢とを一緒にしてしまっていいのかなと少し違和感を感じています。

馬鹿にされる→怒る
までは、正当だと思うんです。ただ、

「誰でもできる」といわれた→「誰でもできるものではない!」(反論)→「誰でもできるものではない事を知ってもらおう!」

と発展していくことはなにか本質からズレていっているような違和感を感じています。もう一歩進めていきたいと。


僕はよく「矢印がどこにあるか」という表現を使うんですが、

「誰にでもできるものではない!」という反論の時に、矢印はどこに向いているかって言ったら外側に向いているようで実は自分(内側)に向いているんですよね。本質的な問題には向いてなくて、自分の上にある。「バカにされた」という怒りだったり「なめるなよ」というある種の悔しさだったり「ちゃんとしてるんだよ!」というプライドだったり、自分の感情に矢印が向いているんですよね。

怒るのは正当だし、馬鹿にされるのは許せない。けれども、その次に進む時にそういった感情のままいってしまっていいのか。そうなれば建設的な解決には向かわないだろうし、必ず偏りがでてくる。

これを、どうにかできないかな、と考えています。


僕たちが目指す唯一無二のゴールは、保育業の社会的地位の向上ではなく、その先にある「子どもたちの健やかな育ち」です。

なぜ、「誰でもできる」といわれた→「誰でもできるものではない!」(反論)→「誰でもできるものではない事を知ってもらおう!」という流れになるのかといったら、「保育士は誰にでもできる仕事だ」と言われて大きな反論が起こるもう1つの理由に関係しているのだと思っています。


外側が変わるだけでは不十分

2つ目の理由。

とても言いづらいのですが「保育士は誰にでもできる仕事だ」と言われて過度に反論するのは「図星をつかれているから」だと思うんです。

前述した通り、ほとんどの仕事が誰でもできるように進化していっています。職業ではないけれど、車でさえ自動運転の技術が開発されてその方が安全であると言われてきています。特別な能力がなくても自動車を運転できる時代はすぐそこまでやってきている。

そんな時代の中で保育という職業は、技術の進歩や新たな仕組みの発明という意味ではなく「誰にでもできる仕事」だと言われている。言葉を選ばずにいうと、時代から取り残されている。みんなその違和感を抱きつつも「子どもの育ちを守っている」という自負を持っているからこそ「誰にでもできる仕事だ」という言葉を聞いて、すんなりとは受け入れられないし見過ごすこともできないのだと思うんです。


正論だとわかっていて敢えて言わせてもらうと、「バカにするな」という「怒りの感情からくる行動」では本質からは遠ざかるから、そのエネルギーでもう一歩進めていきたい。それは僕らの使命「子どもの最善の利益」を考えた時に、「保育は誰でもできる仕事だ」という言葉に対して「私たちの仕事は誰でもできる仕事ではない!」と僕たちの仕事のスゴさを伝えたり敷居をあげたりすることに注力するのではなくて、実際に「誰でもできる仕事にする」ことに力を注いだほうがいいんじゃないかと思うんです。その方が間違いなく「子どもたちにとって」も「保育者にとって」もいいと思うんです。

もちろん、「誰でもできる仕事ではなく専門性の高い仕事だ」と伝え発信していくことの利点も理解しているつもりではあります。社会的な認識が変われば制度も変わってくる。先述した「保育指針」を現場で活かすためにはその制度から変えていかなければならないのかもしれない。専門性の高い仕事とわかってもらえたら、それに見合った報酬をもらえるし保育に関わる人たちも増えてそれに伴って質の高い人員配置も可能になると思います。価値観そのものが変わり社会が成長を遂げていく。成熟するという言い方もしますね。性差別などでも近年顕著に見えてきていますが、それもとても大切なことだと思います。(だから、それを実現しようとしている人を批判しているわけではありません)


ただ僕としては、社会の価値観が変わっていくだけでは十分ではないと思っていて、現場の保育の質と外側ではなく内側の仕組みこそ進化し変わっていかなければならないと思っています。

病気の人がいて、それを診るのが医師です。それは高い専門性を持っているからこそできます。

美味しい料理を作れるのが料理人だし、丈夫な家を建てられるのは建築士や大工さんだし、子どもが健やかに育つのを支援するのが保育士です。


ただ、ふと思ったんです。
医者がいなくても病気を診てもらえたら、料理人がいなくても美味しいご飯が食べられたら、丈夫な家が建てられたら、子どもが健やかに育ったら…。多くの人たちにとってはそっちのほうがいいんじゃないかなって。


(質が保障されることが前提ではあるけれど)、それぞれの専門性を持った人しか携わることができない社会と、専門性がなくても誰にでもできる社会と、同じ質であるのなら多くの人が専門性はなくてもそれに携わり役に立つ社会の方がいいんじゃないのかなって。

そんな時に「誰にでもできてたまるか!」とプライドを振りかざすことよりも、専門的な知識を持っているからこそ「もっとこうしたら質を安定させることができるんじゃないか」という前向きな話をしていたい。と思っています。

「誰にでもできる」というのは、裏を返せば「質が安定する」とも言えます。
もともと特定の人だけが持っていた技術や知識を多くの人たちの手にも届くように、特別な技術がなくてもできるように発展してきて、社会は豊かになってきました。農業も工業もそうやって進化を続け多くの人を豊かにしてきたのに、保育業や教育業は旧態依然とした仕組みのままでいいのだろうか。と。


だからね、保育士を「誰にでもできる仕事」にしていくというのはどうだろう。なんて思うんです。



保育士を「誰にでもできる仕事」にしていくというのはどうだろう。


ここまで書いておいて、現役の保育士さんや今まで保育業界を担ってきた先輩たちやこれから保育士になろうとしている人たちの何人かは僕の文章で傷つけてしまっているんじゃないかと心配になっています。

この記事は、誰かを批判したり非難したりするために書いているのではなく、至極前向きな思いとして書いています。もし傷つけていたらごめんなさい。

子どもも親も保育者も、みんなしんどくなくて楽しい日々を送る方法があると思っています。(まだ見つけてないけど)


実はすでに保育の質を理想の水準にするための、それが体系化されるための最先端の専門的見地をまとめた「保育所保育指針」が存在します。保育所のルールブックのようなものです。しかし、それを現場の実践には活かせていません。

残念なことだけれど、理想からはかけ離れた保育の現場が少なくありません。そんな時に、“その保育士”あるいは“その園”を非難してしまいそうになるんだけれど、それじゃ解決に向かないんだよなあ、と感じています。
その保育士さんたちは何かに追われているようで、それがなにかは分からない(本人たちにもわからないのかもしれない)けれど、とにかく必死に働いているんですよね。「子どものために」と信じて「もしかしたら間違っているのかもしれない」と思いながらも毎日を無事に終えられるように身も心も削って頑張っている。

そして、研修で前述した指針などの理想の保育を学んで士気を高めるものの、そのままのキラキラとした気持ちで保育に向かえる人は少なく、むしろ現実とのギャップに自己嫌悪に陥ったり「どうしようもないんだ」と目を逸らして現場に戻っていくしかない。そんな現実を見て幻滅したり耐えきれなくなって辞めていく人たちも多くいるように思います。


そんな現状を見て、「これは仕組みごと変えなければならないのだ」と思いました。その「仕組み」というのは「社会制度」という意味のものではなく、どちらかというと「発明」に近いものだと思っています。

社会制度が変われば、生活に余裕ができれば、社会的な地位が上がって心に余裕ができれば、業務が改善されて時間に余裕ができれば、もしかしたら保育にも余裕ができて質が高まるかもしれない。

けれど、根本的な保育の内容や質は外側だけを取り繕っても変わっていかないと思っています。


再現性はなく、生産性も目に見えない、抽象的だけれど「子どもの健やかな育ち」という明確な目的はある。それを実現するための方法論は様々で環境や個に左右されやすい。個を尊重する方法を体系化しようというパラドックスのなかで、正鵠を射るような保育論を発明する。それこそ「誰にでもできる」くらいの。それがただのアイディアかもしれないし最先端のICTかもしれない。

何言ってるかわかんないですよね。僕もです。偉そうに言っていますが、そんな夢みたいな方法なんて発明できてないから。

「発明してから偉そうに言え」と言われそうですが、なかなか僕だけじゃできないと思っています。色んなことを試しているけれど、悲しくなるくらい上手くいかないことばかりで気が遠くなるし諦めそうになっています。
正直なところ、発明するのは僕じゃなくて全然いいと思っています。誰かが発明していければいいと。ただ、それができるのは現場にいる僕たちしかいないんじゃないかとも思っています。

何度も言いますが、保育士は誰にでもできる仕事ではありません。ただ、それを声高に主張することよりも、目の前の子どもたちこれからの子どもたちこれからの保育業界を見据えて、多くの人たちが保育に携われるような環境を一緒に作っていったほうがいいんじゃないかと思っています。

社会がそっちの方に向いていけばいいなと思っているし、少しずつでも小さな発明を繰り返して保育の業界が根っこから変わっていけば、結果的に社会的地位の向上にも保育の質の向上にも繋がっていくんじゃないかと考えています。


少し踏み込んだ話をしました。

めちゃくちゃ批判されるんじゃないか、という不安がありますが、それでもこの思いに共感してくださって一緒に面白いことをしていきたいと思ってくれる方がいることを願って。

あとがき


ダラダラと長い文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。今回の記事内容は、普段発信している漫画やnoteを有料コンテンツにしない理由でもあります。保育業界を社会を少しでもよくするために、現場で戦っている保育者さんの小さな力になれるように、そして、子どもたちの最善の利益のために活動していきたいと思っています。

キレイごとでシメようとしてしまいましたが、悟りを開いて奉仕の心で満ちているとかではありません。自分がなにより大事だしお酒好きだし、できれば何もせずダラダラとのんびり生きていきたいと思っているような人間です。

ただ、誰かと一緒ならどうにか頑張れるかなあと思っています。

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