美しいものを美しいと思える心を持っていないと保育士はできないのか。
オオイヌノフグリという花をご存知だろうか。
畦道などに生えている雑草なんだけど、淡い青色の小さな花を咲かせる。田舎で育ったぼくにはなじみ深く、小学校の登下校道でその花をよく見かけた。
あれは小学3年生の頃だったと思う。生活科か何かの授業で植物を観察しに小学校の周りを散策していた時のこと。
植物や花の名前を担任の先生が説明してくれていて、その内容はもう覚えていないんだけれど、ひとつだけ印象に残った花がある。それが、オオイヌノフグリだ。
先生は「この花の名前の由来知ってるー?」と僕たちに問いかけた。もちろん知る由もないので興味津々に「なになに?」と聞く僕たちに先生は教えてくれた。
「オオイヌっていうのは大きなイヌで、フグリは金玉袋のこと。イヌの金玉袋に似てるからオオイヌノフグリやねんて」
なんやて…。
衝撃だった。なんちゅうネーミングセンスしとんねん、とツッコミをせずにはいられない。「花言葉は「愛くるしい」やねんて」と続く解説は耳に入ってこない。ツッコミどころは増える一方だが、それどころではないのだ。イヌのそれを見たことがない僕は「でかいイヌのブツはこんな形なのか」とその小さな花を観察することで頭がいっぱいだった。(実際は花ではなく果実が似ているらしい)
理想の保育士像
「道に咲く花をみて美しいと感じる心が大切です。保育士なら、美しいものを美しいと思えないと」
今どきの若者は…という文脈で語られるその言葉に僕は違和感を覚えた。いくつかの保育園を束ねる経営者が、こんな保育士さんを採用したいという趣旨で話していた内容だ。その方に限ったことではなく、感受性が豊かで、慈悲深くて、気配りができて、品格があって…という保育士の理想像を色んな場所で耳にする。そのたびに、本当にそうなんだろうかと考えてしまう。
たしかに乳幼児期から学童期は、子どもの感受性を育み人格形成の基盤となる重要な育ちの期間である。その間に子どもの育ちを見守り支援する保育者は、それなりの人格と感受性をもちあわせていなければということだろう。言いたいことは分からなくもない。
ただ、気になることがあるので整理しておきたい。
まず、1点目。
美しいかどうかはそれぞれの価値観である。
当たり前のことだけれど、美しいと思うか思わないかはそれぞれの価値観だ。
鮮やかに咲く花を見ても美しいと思う子もいれば何も感じない子もいる。逆にみんなが気持ち悪いというものを、かわいいと感じる子もいる。ゴキブリを「かわいい」と言って直に捕まえていた子を僕は知っている。
そんな子たちに、美しいものを美しいと感じようとは言わない。
月並みな表現になるけれど、美しいという感情はその人の中に生まれるもので、その物体は何もしていない。それぞれに感動するものが違うのだから、(世間一般で)美しいと言われるものを美しいと思えるかどうかに価値を置くことはナンセンスだ。それぞれがそれぞれ美しいと思えるものを「君はそれを美しいと思うんだね」と認めあえることの方が何倍も価値があると思う。「そんな美しさもあるんだ」と思えたら、また素敵なことだと思う。
2点目
ぼくは、人を羨んだり妬んだりする。
そんな自分がいるのを知っているから、偉そうなことを子どもには言えない。忘れ物をしたり、陰口を叩いたり、くだらないことで落ち込んでしまったり、そんなことを大人になった僕も同じようにしてしまっている。同僚ともよく話をするんだけれど、「僕たちなんかが偉そうには言えないよね」と。僕は人格者とはほど遠いダメ人間だ。カッコよく生きようと思っても上手くできないし、忘れ物ばかりするし。けど、それでもいいかなとも思ったりもする。
上司には厳しい目で見られるけれど、チームのメンバーたちは助けてくれる。僕も、自分の役割を見つけてできることをしている。
どこかで助け合っている。ひとりでやってきたと思っている人ほど、それに気づけていなかったりするんじゃないかなと。こっちを閉めたらあっちの引き出しが飛び出る昔のタンスのように、僕たちは不完全なんだと思う。いや、いいタンスほどそうなるって聞いたことがある。不完全に見える状態こそ完全なのかもしれない。
3点目
「気が利く」で仕事をしてはいけない
ぼくは、気が利くか利かないかと言えば、気が利くことをしたときに「気が利くでしょう?」という雰囲気を醸し出すくらいには気が利かない。誰にも気づかれず痒いところに手が届くような働きはできない。
放課後児童支援員認定資格の研修で尊敬する先生が言っていた。
「気が利くで仕事をしてはいけない」
感染症の予防のために空気の入れ替えをしよう、あの子具合悪そうだから検温しよう、そんな働きを見た時に「さすが気が利くなあ」と言ってしまいそうになる。それは、気が利くからできるのか?違うだろう!と先生は言った。それが僕たちの仕事ですよ、と。気が利くからできる、気が利かないからできないで済ましてはいけない、誰であってもできるようにする。なぜか、それはそれが僕たちの仕事だからです。と。
その通りなのだ。
男性だから細かいところに気が付かないよね、と言われることはよくある。性別は関係ないと思うけど、自分はまあそうかもしれない。けれど、そんな僕でも気がつくように、仕事を全うできるように工夫はできる。人格や性格や愛情というようなブレるものに依ってしまっては、それがなくなった時に全うできなくなる可能性もある。(それが必要ないということではないです)
職業ごとの特性はある。もちろん、保育士も例外ではなく合う人と合わない人は必ずいるだろう。
しかしながら、美しいものを美しいと感じられる人間がというような、感受性や人間性や慈悲深さがというような、不確実な要素を保育士であることの必要条件としてしまうのは危ういのではないかと感じている。
十分条件として、そのなかでも感受性が豊かで慈悲深い人ならその人らしい保育ができるのだろうとは思う。同じように、表情には出さず論理的で冷静な人でもその人らしい保育ができると思っている。
それが、子どもの育ちのことを考えた専門性のあるものであるなら。
あいつは保育士としてダメだよね、という会話になりそうになったら、あの人が保育士をするならこんなところが強みになるんじゃないかなという話ができたらいいなと思う。僕たちの専門性、ストレングス視点はなにも子どもに対して発動させるに限った能力ではないはずだ。
そんな僕が
小学3年生のある日。僕はその時、オオイヌノフグリとその先生に出会って興味関心の扉が開かれ、植物や生物に興味を持った。あの花を見るたびにその美しさに感動する。なんてことはない。
そんなエピソードが続けば美談だろうが、ない。あれから二十余年が過ぎても未だオオイヌの件のフグリを拝んだことはないし、果実がどんな形をしているのかを調べてもいない。
ただ、
同じような青い小さな花たちを見つけるたびに、すこし心がゆるむ。オオイヌノフグリ、その名前の由来はね…と心の中で誰かが話している。それだけでなにか少し幸せな気持ちになるのだ。
それは、その花が美しいからではきっとない。