受け止める
「◯◯ってまず何でも受け止める人よな」と、最近友人に言われた。
これはよくぞ自分の核心を突いてくれたなと思ったので記事にする。以前に書いたものと同じ内容を含むかもしれないが悪しからず。
“受け止める”という行為について、自分の人生観が深く関係していると考える。
それが何かというと、”影響”についての考え方。”因果”と言ってもいいかもしれない。
簡単に言えば、「鶏が先か、卵が先か」というような話で、冒頭に書いた友人の台詞を受けて、自分は日常の中で逐一「これってAだからBなのか、それともBだからAなのかな」と、因果をこねくり回して思考していることに気がついてハッとさせられた。そういう癖なんだろう。
バタフライ・エフェクトというものをご存知だろうか。
「些細な出来事が、最終的には予想だにしなかった大きな出来事につながる」というもの。「風が吹けば桶屋が儲かる」なることわざもその一例。
バタフライ・エフェクトについて知ったのは中学1年生くらいの頃だったと思うが、自分にとってはこれがものすごく衝撃的で、革新的な考えだった。この世界における原因と結果は、一問一答で答えられるような単純なものではないのだと知ったのだ。
実際、この時ちょろっと知っただけのこの知識が、今の自分のロジックを形成する基盤になっているというのだから、これ自体がバタフライ・エフェクトである。
ちなみにこれについて歌った、UVERworldの「一滴の影響」という歌がある。本当に心にくる曲なので聴いたことない方はぜひ。
こうして物事の”因果”に関するセンサーが敏感になった少年はさらに考えを進める。
「もしかして未来が過去を創ってるんじゃね?」
過去から未来が創られるのではなく、既に決まっているとある一つの結末にたどり着くために過去が創り出されているとしたら。これが自分が思い至った究極の人生観であり、”何でも受け止める”ことのベースである。
「君に会うために生まれてきたんだよ」なんて臭い台詞のひとつやふたつ聞いたことがあるかもしれないが、割と正しいかもしれない。
この仮説を基に考えると、人生のすべてが肯定される。
これまで傷つけた人、そのせいで離れ離れになった人、謝りたい人。たくさんあるそういう過去は、今ようやく出会えたあの人に同じことを繰り返すことなく大切にするために、避けて通れない過去だったかもしれない。
出逢い、離別、成功、失敗。人生で起こるすべての出来事は結果ではなくあくまで過程なのであって、結末はずっと向こうにある。そして、その過去のいずれも否定されるべきものではない。
人生は選択の繰り返しで、選択をするたびに「生まれるもの」と「失われるもの」がある。われわれは何か失敗をすると、こうなるはずだったと、失われた理想にばかり目を向けて、その瞬間にどこかに生まれた花には目もくれない。
些細な出来事が大きな出来事につながるような人生。いつかの後悔も苦しみも、自分を嫌いな自分も、どんな一瞬でも否定してしまえば、大切な思い出もろとも人生すべての否定になってしまう。人生のすべてが受け止められて然るべきだ。
いつか来る結末、その瞬間のための人生。優しくなっていく理由も賢くなっていく理由も、きっとそこにある。
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