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十字架とは

最近、神学校で行われた教団理事会に来られていた女性の先生から、「顔変わったね!」と言われた。
一年修了時、春の中高生キャンプの練習をさせていただいた教会の牧師夫人の方であった。

「どう変わったかって言えないけど、あの時より、素敵!」と。

あまり、神学校に来てから顔が変わったという実感がなかったため、不思議な感覚があった。

しかし、数日後、同じ言葉を違う人から、かけられた。

講壇交換で来られていた先生で、6年前は神学生として月一回メッセージに来てくださっていた方である。

ちょくちょく会っている方であるが、「6年前と、そして最近と比べて、さらに表情が、そしてピアノも良くなった」と言って下さった。

ピアノに関しては以前の記事にも書いたが、(1番下参照)
「霊性が良く、主の臨在を感じる奏楽」と言ってくださり、主の臨在を持ち運ぶ奏楽を神様が与えてくださっていることに、感謝と喜びが溢れた。

表情がなぜ変わって、よくなっているのか、わからないが、ただ、その先生と話す中で、「ちゃんと神学校の大道を辿れてるんじゃない?」と。

「三年いても、通らず卒業する人もいる。
ちゃんと、通ってる。大丈夫」と声をかけていただいた。

私が最近感じること、それは、、
『十字架とは、神様が非常に良かったといってくださった状態に戻る場所。』である。

罪、傷、自我、、要らないものを十字架に持っていく。
時には痛みを伴うが、十字架で安息し、憩い、癒され、解放され、自由にされる、という恵みが待っている。

持っていくというと、簡単によいしょ!という感覚を与えてしまうが、そんなすぐに持っていけるものでもない。

持っていこうとすると、肉の性質が働いて、妨げてくるし、罪や傷、自我自体に気づいていないから、十字架に持っていくことさえできない。

ただ、自分の力で持っていくのではなく、神様に全体重かけて、寄りすがるのである。

持っていくというより、そのままの姿で十字架のもとに行き、安息する、という方が正しいのかもしれない。

そうしか、私たちはできないのである。
自分で自分を救うことは、私たち人間は誰もできない。

イエス様にしか解決はないのである。
イエス様の十字架は、この私のためなのである。
この神様と共に過ごすことがどれほど幸せか。

先ほどの先生が
「きっと、解放されていっているから、表情も良くなってるんやと思うよ」と。

十字架のもとで、もっと"神様が非常に良かった"と言われた姿へと変えられていきたい。

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