240805 なんかの吐露

全てを狂わせるのは人間関係だと思っている。

面倒なタスクをやっている時も、嫌だなあと思いつつそんなに胃液が上がってくるような感覚はない。長い間苦しんでいたゼミの発表も、今思えば先生に勘当されるんじゃないかとか先輩や同級生に呆れられるんじゃないかとか、結構人間絡みの悩みだったような気がする。

思い返してみれば、人間関係に脳が支配されている時の脳はネガティブな意味だけど活発でサイケデリックだった。
精神が安定していて自分のことに目が向けられている時、ユニークを志向していても脳はポジティブに淡色で、結局当たり障りない色がそのままにして配置されている。

タスクは早くそして丁寧にやればやるほどいいってことは自明で、それ以外に正解がないから、脳は一方向へ向かう。自分自身を悪者にして全てが上手くいく。
人間関係はそうもいかず、自他の間で責任が揺れる。

それはおそらく中途半端だからである。自分が大事なら他人は徹底排除、他人が大事なら自分を徹底排除。半端だからいろんな色が明滅して歪みが生じる。歪みが胃液を持ち上げて胸のあたりでかき混ぜられる。

中途半端な人間を抜け出したい。もっと言うなら、自分だけに目を向けられる人間になりたい。でも、自分が中途半端な人間だから自分はギリ大学生の器に収まっているし、中途半端じゃなかったら成長はなかった。中途半端だからグラデーションを理解できる(気がする)し、喜怒哀楽の全てで生を実感する。狂った人間は極端だけど、極端ゆえに動きがない。ダダはそうやって衰退した。

でも、中途半端な自分はもうそろそろいらないと思うんだけど、如何だろうか?グラデーションを理解できる、のターンはある程度回収できたと思う。そろそろ中途半端な自分でいることで得られる学びと苦痛の比率がおかしなことになってきている。今回結構学びが得れたと思うから、もう苦痛から逃れさせてほしい。選びたい道を選べない人間の構造が、恨めしい。そろそろ狂った自分になりたい。けれど、そうなれないのは、もしかしたら中途半端な自分の内部の可視化がまだぜんぜん未完だからなのかなと思っている。

ぐちゃぐちゃに悩む自分の内部を可視化することができたら、それが芸術家って言えるんだろうなあと思う。
n-bunaさんはよく不安定な時に曲をつくったと言われていたが、不安定な時は思考が複雑で難しいことを考えていて、唯一無二の芸術が生まれやすい。しかもそれは、唯一無二かつ共感を誘うもの。カテゴライズはできるが、見たことないもの。

多分、それができないから私は今芸大にいない。それができてしまうと芸術家としてしか生きられなくなるんだろうなと思っている。健やかな時も病める時も自分を芸術に落とし込まなければ気が済まない。そしてそれが病める時のみになった時、自分のアイデンティティは病める時の自分に宿るようになる。よく社会不適合者が性格診断で芸術家と言われたりするけれど、実は芸術に向いている人が社会不適合者になるのではないかと思っている。てか、社会不適合者というとまるで劣っているかのような口ぶりだが、芸術家って自分の内部の可視化という点において逆にスペシャリストなんじゃないかと思っている。社会に適合する人々は、自分の内面を正しく可視化できていない人なのではないか。

だとしたら、自分の内面を可視化しなければならないと思っている私が向かう先は、芸術家なのだろうか。

うーん何言ってるかわからなくなってきた。雰囲気でずっとつらつらと流れで文章を書いている。実際のところ私が芸術に向いているのかどうかは分からない。病気の時に部屋が鮮やかすぎてめまいがした事はあるが、体を横にしていても世界が縦に見えたことはない。ちょくちょくそういう固定観念を破壊するような人間になりたいと思って、ネタツイとかができる人間を羨ましいと思ったりするわけだけど、どっちの生き方がいいんだろうな。

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