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旅をする石 ②

 <3>

 話し込んでいる間に夕方になり、食事と風呂を終え、ミチは充てがわれた部屋の布団の上でひっくり返っていた。
 この所、野宿続きであったし、この宿を目指して歩き詰めだったこともあり、随分と疲れが溜まっている。
 身体だけではない。ハクロについて思う事が様々あり、心の方もくたくたであった。
「どうして思い至らなかったんだろう…」
 手がかりは、ずっと目の前にあったのに。もっと早くに思い至っていれば、これほど時間を無駄にせず済んだかもしれないのに。
 焦りゆえか、視野が狭くなっている。
 良くないな、と理性では解っていても、胸の奥がざわついて、本当は今すぐにでも飛び出して行きたくて仕方がなかった。
 それでも、ふかふかした布団の上に身を横たえていると、あっという間に意識が朦朧としてくる。
 が、今晩は安穏と眠れない事が決定していた。
「…テイ、明日じゃ駄目?」
 頭上のひたひたとした気配に、諦めてため息をつく。
 布団の襟元から入り込んだ無数の小さな腕が、ぺたぺたと首筋や胸元の肌の上を這う感覚に、思わず身震いをした。
 氷のように冷たい腕だ。それらはやがて、溶けるように形を崩し、膜となってミチの身体を呑み込んだ。
 全身を氷水に浸しているかの様な身を切られる寒さと冷たさに、ミチは手足を引き付けるとぎゅっと丸くなって歯を鳴らしながら、ただただ布団の中で震えた。

 このお化けは、体温を喰らう。
 ハクロが居なくなり、自分が石を持つようになって最初の晩は、あまりの恐ろしさに泣きそうになったものだった。
 何故こんな恐ろしいものを置いていったのかと、ハクロを恨んだりもした。
 が、その晩、気絶するように意識を失ってから、夢を見た。
 暗く冷たい、水底の夢だった。
 寒くて、冷たくて、寂しくて、胸の奥が千切れそうだった。
 泣きながら目が覚めると夜は明けていて、くの字に折った身体の隙間には、ころりと饅頭のように丸まったテイがいた。
 そっと触れると、うっすらと温く、こぽこぽと小さな水音が手の平に響いた。
 そして唐突に思い出したのだ。ずっと昔に、これと似たようなモノに助けられた事があったのを。捧げ物として暴れ川に突き落とされた時、水の中で自分を包んで守ってくれたものがあった事を。
 上も下も分からず濁流に揉みくちゃにされながら、それでも冷たくて柔らかい何かが、自分を包んでくれており、その間ずっと、耳元でこぽこぽと優しい水音がしていたのだった。

ー兄弟ト違ウ…
ー兄弟デハナイ…
ー可哀ソウ…
ー可哀ソウニ…

ー誰カ、誰カ…

ー嗚呼、来タヨ…
ー誰カ来タ…

ーモウ…
ーダイジョウブ…

 自分を守っていたものは、そうして散り散りに溶けて、濁った水の中へと消えていった。
 その直後、ミチはハクロに拾われたのだった。
 ああ、テイも同じなのか。
 自分や彼らと同じように、水の中に沈められた者達の、成れの果てなのか。
 ミチは暖かな布団の中でテイを抱え、また一しきり泣いたのだった。

 そんな事があって、取り敢えず、ミチはテイの食事を受け入れた。
 勿論、毎回辛いと思うし、億劫でもあったが、仕方がないと割り切っていた。
 腹が減って辛い気持ちは、自分もかつての経験で、よく知っていたから。
 そういえば、ハクロのテイについての書き置きであるが、ごく基本的なことしか書いておらず、正直な所、心から役に立ったと思う事は殆どなかった。
 普段から懐に入れて温めておくだとか、天気の良い暖かい日にはなるべく日に当ててやるなど、理由は知らずとも、いつもハクロがやっているのを見て心得ている事ばかりだった。
 何故かテイは野宿の際には頑なに食事をしようとしないのだが、そんな日が続くとやはり著しく腹が減るらしく、宿に泊まった初日の晩は散々な目に合うことなどは、事前にちゃんと知らせておいて欲しかった。

 と、取り留めもない思考が愚痴っぽくなったところで、ふと寒さが和らいでいる事に気づく。
 テイはするすると肌の上を滑って、ミチの身体のくぼみで丸くなろうとしている最中だった。
「もういいのか?」
 道中を急いだせいで野宿が続いており、随分と機嫌を損ねていたから、少なくとも明け方までは寝られないものと思っていたが…
「温泉効果かな…」
 ハクロがこの湯治場を贔屓にしていた理由が、少し分かった気がした。

 次に目が覚めると、すでに日は高く、障子窓の外は眩しいくらいに明るかった。
 テイはとっくに、石の中に戻っている。
 慌てて階下に下り、裏手の井戸端で顔を洗っていると、声が掛かった。
「おそようごぜぇやす。酷い寝癖ですねぇ、坊ちゃん」
 慌てて髪を撫で付けるミチを見て、下足番のサクゾウが、からからと笑った。
 ミチはミチで、恥ずかしさで顔が真っ赤である。二度寝して寝坊など何年ぶりだろう。
「坊ちゃんはやめて下さい… 起こしてくれればちゃんと朝食に出たのに…」
「女将が起こさないようにと仲居に声を掛けていましたよ。いや、よぅく眠れたようで何よりです。昨日は随分と、青い顔をなさっておいでだったから」
 うんうん、と目を細めてサクゾウが頷く。
「そう、でしたでしょうか…」
 ミチが自分の顔を撫ぜた。
「ご心配をおかけしたみたいです」
「なぁに。身支度が整ったら、厨においでなさい。飯はちゃぁんと用意してあるから心配しなくて良し。さぁ、あたしは庭掃除の続きだ」
 箒を片手にすたすたと去っていくサクゾウを見送って、ミチは部屋に戻った。
 支度を整えて厨に出向くと、女将が自ら、板の間に膳の用意をしてくれていた。
「ミチさん、おはようございます。座敷でなくてあいすみませんが、こちらでお願いできますか。あちらはそろそろ昼食の支度が始まりますので」
「いえ、とんでもない。お手間をおかけしてすみません」
「どうぞお気になさらず。よく眠れましたか」
「おかげさまで… だいぶ寝過ごしました」
 ミチが遠慮がちに、頭をかきつつ笑う。
 促されて膳の前に座ると、良い香りの湯気が、ふわりと顔を包んだ。
 ほかほかの丼飯に、滑子の入った味噌汁、お浸しに香の物。これだけでも一食としては十分なのに、焼きのりと玉子、川魚の塩焼きまで付いている、豪勢な食事だった。
 思わず女将の方を見るが、ただただにこにこと微笑んでいる女将に「早くおあがりなさい」と言われると、それ以上は何も言えなかった。
 ミチは手を合わせると深々と頭を下げた。
「いただきます」
 丼の飯に箸で窪みを作り、玉子を割り入れ、醤油を垂らして混ぜると、口の中に掻き込んだ。
 うまい。
 顔を綻ばせ、無言のまま休みなく箸を動かすミチを見て、女将が感慨深げに目を細める。
 幼い頃は食が細くて、随分と心配したものだったが… そう心の中でひとりごちながら、熱々の焙じ茶を煎れる。
「ごちそうさまでした」
 膳を平らげたミチは、満足げな表情で、食後に出された茶を啜った。
「ミチさん、昨日のお話ですけれど」
「あっ、はい」
 女将の声に、慌てて居住いを正す。
「昨晩の内に伝手を頼んで、干上がった湖の噂を知る者がいないか、聞き込みをして貰っております。この町は故あって、諸方より人や物が集まる場所ですので、一両日中にも何か分かるでしょう」
 ミチが目を丸くする。
「ご心配には及びません。そういった事を得手とする者を使っておりますので、万が一にも不手際はございませんよ」
「いや、えっと…」
 女将が、ふふと笑う。
「面食らいましたか? 事情を知らないミチさんですから、聞きたい事は山程あるでしょう。でもどうぞ、今はそのまま呑み込んで下さい」
 優しく丁寧ではあるが、有無を言わせぬ口調であった。
「そうですね、タダより高いものは無いと言いますし、もし無償がご不安との事でしたら、煙草を少し卸していただけませんか。以前はハクロさんから仕入れたものをお客様に供しておりましたが、ご存知の通りお見限りでしたので… 当宿の上得意であるさるお大尽が随分とあの煙草をお気に入りで、お見えになられる度、手に入らない事を溢しておいでなのです。以前ハクロさんにお聞きした話では、ミチさんもお手伝いで作っておられたとか」
 煙草は昔も今もミチの商いの主力だ。在庫も常に、それなりの持ち合わせがある。
「そんな事で良いのですか? こちらとしてはお安いご用ですが」
「それはよかった。もし宜しければ、今後とも定期的に卸して下さると助かるのですが」
 勿論です、とミチが請け負う。
「何だか俺ばかり得な気がしますが」
「いいえ、お客様が喜ばれて当宿を今後もご贔屓下されば、私にとっても利のある事です」
 きっぱりとそう言って微笑む女将は、いつもとはまた別の、商人の顔をしていた。

 一両日中と言っていた女将だったが、その日の夕刻には、ミチは客間で二つ折りの半紙を受け取っていた。
 開くと、手書きの簡易な地図である。
 ここよりずっと東の山間部に印が付けてあり、その脇に村の名前が書き添えてあった。
「もしかして、ここが…」
「ハクロさんに直接関係があるかの確証はありません。ですが、その村で干上がった湖の噂を聞いたという証言がありました。そこに噂が届く範囲に目的の場所があるか、もしくは新たな手がかりが、何か得られるかも知れません。念のためハクロさんを見かけた者がいないかも探っておりますが、こちらは今のところ空振りです。もう少し時間をかければ何か出てくるかもしれませんが…」
 女将が言葉を切る。
 言葉の続きは何となく察しがついた。ミチ自身ハクロを探しながら、あまりの痕跡のなさに、思っていた事でもあったから。
「…随分と丁寧に、ご自身の消息を隠しておられる感じがいたします」
「そうですか…」
 ミチが溜息をつく。
「きっと俺に、探して欲しくないんでしょうね」
 ミチは丁寧に半紙を折り畳んで袂に仕舞うと、深く頭を下げた。
「何とお礼を言って良いか… ただ、今は先を急ぎたいので、明日早朝には出ようと思います。必ず、改めてお礼に伺います」
 女将がじっとミチを見つめる。
「随分と急いておられるのですね。老婆心を申し上げれば、もうしばらくはこちらで情報を集められる事をお勧めしたいところですけれど… 何か心配事でも?」
 ミチが目を伏せる。
「…あの人、今までにも書き置きだけで数日ふらっと居なくなることがあって、猫みたいだなって思っていたんですけど… 思えばここ何年かずっと妙な咳をしていて、本人は歳のせいだとか風邪を引いただけとか言ってましたし、杞憂なら良いんですけど… いや、ほらあの人、大事な所すぐすっ飛ばすっていうか、言葉足らずで全く信用ならんというか… あはは…」
 どうにか明るく言い繕おうとするミチに、女将がそっと笑みを向ける。
「分かりました、もう何も言いません。では明日早朝のご出立ということでこちらも支度を整えます。それから…」
 言い置いた女将が、にっこりと笑う。
「この先の路銀も当面は必要でしょうから、此度の宿代はツケという事にしておきましょうね」
「えっ」
 ついと、別の紙が目の前に出される。
「勿論、うんと勉強させて頂いておりますよ」
 その差し出された証文の金額を見て、ミチが力なく笑う。
 覚悟はしていたが、二泊の値段としてはかなりの高額である。
「必ず、またお顔を見せにいらっしゃい」
 女将がまた、にっこりと微笑んだ。

 翌朝早く、暗い内から旅支度を終えて階下へ降りると、早朝にも関わらず、いつも通りに隙なく着物を着こなした女将が待っていた。
「女将さん、おはようございます。これ… 頼まれていた煙草です」
 ミチが大きめの紙の包みを手渡す。
 受け取って開くと、中には色とりどりの和紙の小袋が詰まっていた。
「まぁ、かわいらしい」
 女将が顔を綻ばせる。
「色ごとに量と刻み方を変えてあります。詳細はこちらの書き付けに。葉の仕入れ先はハクロと同じなので以前とそう変わらないとは思いますが、お客さんの好みで色々選べる方が良いかと思って。こちらの束は紙巻きです」
 ミチの説明を聞きながら、女将が小袋の一つを開けると、中から油紙に丁寧に包まれた刻み煙草が出てくる。その包みを更に開くと、煙草の葉の甘い香りが鼻先をくすぐった。
「ハクロさんの薫陶の賜物でしょうか、お仕事が丁寧ですね。それにとても良い香り。これならお客様にもご満足いただけるでしょう。小袋入りの可愛らしさがご婦人にも喜ばれそうですし、お土産にするにも良い塩梅です」
「気に入っていただけて良かった」
 ミチの顔が綻ぶ。
 少し待つように言い置いて、帳場へ入った女将が、算盤を手に戻ってくる。美しい手捌きで何度かぱちぱちと玉を弾くと、ミチの方へと向けた。
「この位でいかがですか」
「えっ、いや、多すぎですよ」
 ミチが目を丸くして手を振るのを、女将が目顔で制す。
「きれいに整えて頂いたので少し色は付けましたが、確かなお品であると、この目で確認した上で値段を付けました。ちゃんと当宿にも利の出る価格です。勿論、お取引はミチさんがご納得いただければ、ですが」
 女将は終始、笑顔を崩さないが、ミチにはそれが逆に怖い。
「町場には町場の、当宿のような所にはその場所なりの、相場がございます。あまり遠慮ばかりしていると、買い叩かれてしまいますよ」
「…肝に銘じます」
 女将がふふふ、と楽しそうに笑った。
 まだまだ駆け出しのミチに、商売を教えるのが面白い、といった風情である。
 煙草の代金と、竹皮包みの握り飯を手渡されたミチが、頭を下げる。
「本当に、お世話になりました」
「道中、お気を付けて」
「はい」
 踵を返そうとしたミチが、ふと女将の方を振り向いた。
「あの、一つ伺ってもいいですか」
「構いませんよ」
「どうして、こんなに親切にして下さるんですか」
「…理由がないと、いけませんか?」
 女将が苦笑する。
「そうですね、正直に申し上げれば、ミチさんがハクロさんのお身内だから、です。あの方には大変なご恩があります… 不義理はできません。でも此度ミチさんとは、昔とは違う新しいご縁を結べたと思っておりますよ」
 とその時、玄関先に朝日が差して、女将の影を奥の衝立にはっきりと落とした。
 そこに映る、三角に尖った大きな耳と、三本の太い尾…
「!?」
「えぇ…もう随分と昔の事です。下手を打って猟師罠にかかり、あわやの所をハクロさんに助けて頂いた事がありましてね」
 女将はそう言って、唇の前に人差し指を立てると、婉然と微笑んだ。
「どうぞ、ご内密に」


< ③ に つづく >