一年後の天気の子と私


 私の年齢は三十代です。今、悲しいことに仕事はないですが、本当だったらばりばり働き社会を作っているはずの年代です。バイト先の店長さんとかは、私くらいの年齢のことが多いんじゃないでしょうか。

 さて、そういう私にとっての、天気の子という作品です。あの話を私流に乱暴に意訳すると、大人が作った社会がヒロインと主人公を追い詰めるというものです。劇場で見た私はそう認識しました。

 最終的にはヒロインが救われる代わりに、大人が作った社会が雨で壊れるのです。

 作中では、社会が壊れることは仕方のないことであり、ヒロインを救うのも当たり前のこととして認識できるように表現してあります。新海誠流の映像も、醍醐虎汰朗氏をはじめとした俳優声優陣の演技も全くの及第点、いや、はるかに超えて見事でした。

 きっと作中の主人公たちと、そう年齢の違わない方は夢中になって、東京が沈んでヒロインが救われる話を楽しんだことでしょう。

 ですが、三十代の私にとっては、そこまで手放しにはできませんでした。主人公とともにヒロインのために怒り泣き、立ち向かえるのかといわれると、足がすくみます。

 社会が壊れたときの変化が想像できるからです。ヒロインを救い、雨を止めないという選択で東京という町は大きく変化します。それこそ今のコロナ禍による不景気とはレベルが違うほどの規模で。須賀さんは、沈没後もうまいこと起業して社員を雇って精力的に仕事をしているように見えます。でも、東京という巨大都市には、その他大勢が死ぬほどたくさん居住し、労働しているのです。

 あの後どうなるか、私のない頭で軽くシミュレートしてみましょう。あの様子では、あらかじめ投資されていた東京オリンピックなどは軽く吹き飛んだでしょう。関連雇用は消滅します。三階くらいまでの場所にあった小さい店舗や事務所は軒並み水没したでしょう。中小の工場、いや大規模な工場や倉庫だってみんな水浸しになります。移転しても損害は大きく、果たしてその後の収入で取り戻せるでしょうか。できなければ、倒産、破産。

 雨は穏やかでした。東京が最後の状態になるには三年ほどかかったようです。だから仕方がないとしてみんな離れていくでしょう。人的被害は軽微に違いありません。
 ただ、生きてはいても、強大な雇用の喪失が襲うのです。それはときに両親の自殺や失踪などとなって、東京が沈みさえしなかったら幸せに暮らしていたはずの家族を覆うことでしょう。
 そして生まれるのは何か、主人公と出会えなかった場合のヒロインです。それも、一人や二人ではないでしょう。東京の人口は多いのですから。百人、千人、一万人――ここまで来たら、果たして一人のためにここまでたくさんの人の境遇を変えていいのかという思いが浮かびます。

ごみみたいな大人になった私

 もうちょっと本音をいいましょうか。ここまでは経済を心配するいい大人のふりをしましたが、はっきり言って私は怖いのです。公権力が、警察が、彼らにかかわることで変わる自分の運命と評判が。

 作中で主人公たちの味方をした二人の手には、一カットを使ってきちんと手錠をはめられた絵が描かれています。あれは逮捕されたよ、犯罪者と認識される経歴を持ってしまったよ、ということを意味すると私は思っています。

 重たいんですよ、そのことは。たとえ可憐な少女を守るためだったとはいえ、前歴に逮捕というものがある人が、まともに周囲と付き合えるでしょうか。須賀さんはまだましかもしれません。タブロイド系のライターというか、逮捕だって勲章になるような職業です。でも就職を控えていた夏美さんは――おそらく前科によって、目当ての企業への就活は困難になることでしょう。そのことの埋め合わせはありません。二十代のお姉さんの人生の痛みなんて、ヒロインにも主人公にも想像しようがありません。埋め合わせようもありません。

 では、大人になってしまった私はどうするのでしょうか。見捨てるのでしょうか。ヒロインの陽菜には人柱として東京のために消えてもらう。あるいは、そもそも助けようとしないで放置する。

 前者なら陽菜は消滅してしまいますね。後者なら、たぶん、年齢を偽ってやってたアルバイトも簡単ではなくなり、やがてあの女衒みたいなバ〇ラの広告に応募し、歯止めが利かなくなっていくでしょう。

 そして私は、たぶん自分の報われなかった青春のために、彼女を買いに行くと思います。お金がいるし、仕事もやめられないことに付け込むんです。彼女は自分が十代であることをばらさないでしょう。炎上した岡村さんの発言みたいですね。もっとも、ずうっとお金もないし、なんか汚い感じがして私自身そういうお店やサービスを利用したことは、一度もないですけど。

 私は、そんなゴミみたいな大人になりました。そして、そんな大人が少なくない数、この世に居るであろうことを見越して、新海誠はあれほど過激な、世界を壊す話を作り上げたのでしょう。

 だから私には天気の子に関する詳しい感想なんか言えません。汚い大人になってしまったんですから。

 目をきらきらさせて若い人が見ているのに交じって、ぼんやりと天気の子を見ていた中年の自分はなんだったんだろう。あれから一年。私はまだ、うだつがあがらないままです。

セカイ系が必要なわけ

 昨年、天気の子が作られた当時は、一年後の今東京オリンピックはあるはずで、インバウンドは絶頂になるはずで、東京は巨大な開発がされるはずで、とにかく景気はいいはずでした。

 大人が作った世の中は、それだけ大人にとっていいことずくめのものだったはずなのです。でもそれは作中で壊れます。誰にもどうしようもない天の気の変化によって。主人公とヒロインと周囲の人々という、ごくごく狭い人々の感情と行動によって、セカイが壊れていくのです。
 
 ここに、私は新海誠の強いメッセージを感じます。『汚い大人が喜んでるだけの社会がもつわけねえだろ、若者は気が付いてるんだ』という強いメッセージを。雇用と経済繁栄の中心である東京を、まさにぶっ壊す話でした。

 さて、一年後の今。洪水が原因ではありませんが、東京オリンピックは、延期の泥沼へとはまり込みました。八月現在、くだんのウイルスに対しては、ワクチン開発の報せも現れ、明るい兆しも見えつつあります。しかし果たして、一年以内の流行終息と開催が行われたからといって、投資が回収できるほどのものかどうかは不明瞭です。また、そのあとこの国をどうしていくのかも混迷を極めているように感じます。

 いい加減、私のような大人は異世界転生している場合ではないのかも知れません。現実をどうにかするには、地道に取り組むほかないのです。もはや自殺して転生するしか、幸せも救いも存在しないような、くそみたいな現実と向き合うしか。

 さもないと、天気の子は若い人が現実にするでしょう。世代的には若者に近い人がやっているという、アポ電をはじめとした人を人と思わないような犯罪について、現実から逃げまくる大人にとうとうブチ切れて世界を壊し始めたのかな、と私は密かに思っています。

 自分はいろんなことから、逃げすぎてきたんだな、と思えます。
 たとえ、それしかなかったんだとしても、そのことの責任はのしかかるのですね。

 天気の子という作品は、私を殴りつけ、大人であることに引きずり戻してきます。

 余談ですが、この作品については、三十代や二十代後半くらいの、まだまだ現役で新海誠を追いかけていいはずのユーザーによる感想が、いまいち盛り上がっていない気がしています。それは、上記のような理由なのかなと推察しています。

 大人はちゃんとしろ、と突き付けてくるアニメが、大人にとって面白いはずがありません。

 新海氏は、若者のためにアニメを作っているのでしょう。そして、それでいいのです。アニメは、お金を持った大人を楽しませるための商品ではない、はずなのだから。

 苦く、重く、そして大切に、彼の作品を受け止めていこうと思います。

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