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3.11あの日、、、

「東日本大震災」から10年が経過しました。
亡くなられた方々や行方不明者の方々に追悼の意を評します。


震災当時、宮城県出身の僕は中学2年生でした。
当時のことについて少し書かせていただきます。

3月11日。あの日は金曜日だったと思う。次の日は確か3年生の卒業式で、その準備をしていた。
僕は、校門付近から体育館に向かって暖房用の灯油を運んでいた気がします。寒くて雪が降っていました。
突然、建物の軋む音とともにコンクリートの地面が波打ち始めました。地面が割け、ここに挟まったら死ぬのかもと思いながら急いで体育館に向かって走りました。
調べたところ6分間近く揺れていたみたいです。
「30年以内に宮城県沖地震が起きる。」という広告などをしばしば目にしていたため、とうとう来たか。と思いました。
体育館では、天井から電球が落ちてきたり、ガラスが割れたり、椅子が倒れたり、泣き声があちこちから聞こえたりと我を失うような状況でした。
その後、校庭に移動し、夕方頃には武道場に移動し、寒い中、みんなで集まり暖をとっていました。強い余震の度に、恐怖と不安で悲鳴が聞こえていました。もちろんパニック状態になっている人もいました。
親が迎えに来なければ、帰ることはできませんでした。(確かそうだった気が、、、)
私の両親はなかなか現れず、嫌な不安もよぎりました。待機している生徒が残り数人になったころくらいに迎えにきてくれました。
先生方も、家や家族が不安だったと思いますが最後まで生徒を守ろうと必死になって行動してくれていた気がします。
父親は名古屋の方に出張で、母は街中の美容室に行っていたみたいでした。シャンプー中に地震が起きて、シャンプーを流さないまま10kmほどの距離を歩いて迎えにきてくれました。その前に弟の迎えにも行っていたのかな。弟は学校が休みで家に一人だったという記憶もあるが、、、なかなか明確には思い出せません。
沿岸部ではなかったため津波による被害はありませんでした。
その日の夜は、冷蔵庫にあったものを食べた気がします。

その日から1週間近くガス・電気・水道が止まっていました。
公園に水をもらいにいき、コンビニやスーパーに数時間並んで家族の1日分の食材を買いました。コンビニやスーパーで10分何円で携帯を充電したり。コンビニの食品などを安く売っているところもあれば、オーナーらしき人が自分の車に食材などをたらふく積んでドアを開けないようにしてどこかに出て行ったり。自販機が壊されていたり、生きるための闇も見ました。

震災発生日の夜か、次の日のお昼くらいだったか忘れたがラジオで衝撃的なニュースが流れてきたのを覚えている。
「閖上地区の海岸に人と見られる遺体が200〜300人ほど打ち上げられいる」
という内容だった。これは被害の一部に過ぎないが、とても衝撃的でした。
そのニュースを聞くまで津波がくるという考えすらなかった。目の前のことを受け入れるのに必死だったのだろう。日にひに、被害の大きさを知ることになった。

水や電気など、使えるのが当たり前になっていたものが失われた時、その有り難さに初めて気づきました。
インフラが復旧し始めた頃から、ボランティアに参加するようになりました。人の役に立ちたいというのが一番だが、単純に時間を持て余していたというのも参加する理由の一つでした。中学生ということもあり、難しい作業や現場には行けませんでした。しかし、タンスを立てたり、物を移動させたり、ゴミを回収したり、それで人の役に立てるだけで十分でした。ボランティアから帰って親に作業内容を報告し褒められることが嬉しかった。

正直に言うと、宮城県出身の僕でも今日という日が来ないと震災のことを思い出すことが少なくなってきた。なんとなく、「震災どうだった?」と聞かれてもあまり自分からベラベラ話すこともなく、暗い雰囲気になってしまうな〜と考えてしまうのです。「いや〜当時は大変でしたね。」一言どまり。しかし、経験者が話せることを話して、地震の恐ろしさや、甚大な被害を伝えていかないと忘れられてしまう日が来てしまうのかな。という不安も感じるようになりました。
さまざまな地を渡り歩いているが、宮城に笑顔が溢れる「ゲストハウス」を作りたいと言う思いが強くなってきました。
海があり、山があり、四季も感じられ、街があり、本当に住みやすい県だと感じます。

まとめ方が分からないのですが、震災当時のことを初めて細かく思い返し、人に伝えたような気がします。定かではない情報もあるかもしれませんが、僕の記憶上では正しいはずです。
当時の雰囲気をなんとなくわかってもらい、被害に遭われた方々やいまも苦しんでいる方々に祈りを捧げていただけたら幸いです。

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