ぼくたちはバズることができない(3)
出展者受付は二階の搬入口だったので、俺たちはスロープを上らなければいけなかった。
入り口では出店者証と、厚労省の接触確認アプリの確認。それと額を出しての検温が行われた。
問題なく通過し、水色の出展者証を受け取る。
ブース番号はサ-27。
短歌ジャンルは来場者入り口に程近く、売り上げへの期待が膨らんだ。
はじめて入ったイベントスペースは、想像以上に広く、一番奥の人間が点に見えた。天井も高く、室内とは思えないほどの解放感がある。
暖房も効いていて、俺たちは入るやいなやアウターを脱ぐことになった。この室温なら長居するのには困らなそうだ。
机に貼られたブース番号を頼りに、自分たちのブースへと向かう。
「サー27 三日月軒」。
机の下には印刷所のロゴが入った段ボールが三箱。上にはパイプ椅子が二脚重ねられていた。
同じ机を分け合ったブースは、出展をキャンセルしたようだ。
俺は椅子を下ろして、段ボールを机の上に置き、テープを剥がした。
ふたを開けると、まず目に入ったのは印刷所からのポストカード。四〇部のところを、予備を入れて四八部刷ってくれたらしい。
ありがたいけれど、完売が少し遅くなるなと感じた。
梱包をすべて取り除くと、できたての本が姿を現した。
縦書きで書かれた『いらっしゃいませ三日月軒へ』の横に、ミカヅキが描いた個人商店のイラストが印刷されている。
今まで味わったことのない、つやつやした触感。俺たちが作ったはじめての本。
この場にいる全員に見せて回りたい。高々と掲げて、その存在を誇示したい。
凄いものを作ったという感慨が、全身を満たした。隣のミカヅキも小さくガッツポーズをして喜んでいる。
もはや完売間違いなしだ。売れない方がどうかしている。
本はイーゼルスタンドに立てかけておくと、表紙がよく目立つ。俺たちの本は、パステルカラーの信号機のようだった。
値札に一〇〇〇円と記入する。他のブースよりは割高だったが、こちらも損はしていられない。黒いマジックで力強くゼロを三つ書いた。
ポスターやチラシを設置しているブースも多く、こなれたブースに比べると、俺たちのブースはこざっぱりとしていたが、俺の自信は片時も揺らぐことがなかった。
設営が完了して、スマートフォンでブースを撮影するミカヅキ。ツイッターにあげるらしい。
簡単な説明文とハッシュタグをつけて投稿すると、一分もしないうちに他の出店者からいいねがついたようで、ミカヅキは喜んで画面を俺に見せてくる。
遠く離れたブースで接点はあまりなさそうだったが、心がほだされるようだった。
あらかた準備が終わると、俺たちは椅子に座って開場時間を待つ。
反対側の隣の出展者はもう何回も出店しているベテランのようで、ブースの設営も一人なのに、二人がかりの俺たちより手短に終わらせていた。
挨拶。名刺交換。七尾岬(ななおみさき)なる人物は、白髪も交じった年老いた男だった。
十代の若者から還暦越えの老人まで受け入れる間口の広さ。可視化された現実に、俺は軽いカルチャーショックを受ける。
近い席にいるミカヅキが、出店のコツや経験談をいろいろと教えてもらっている。ルックスとは裏腹に口調が若々しく、趣味は身を潤すという言葉を体現したような男だった。
スマートフォンの時計が一二時を指した。ざわめきにアナウンスが割り込んでくる。
開場の合図だ。
七尾が拍手をしているのにつられて、俺とミカヅキも手を叩く。ドアが開くと、空気が目に見えて引き締まった。
列をなしていた来場者がせせらぎのように流れ始め、出展者と合流して一本の大きな川となる。胸に丸いシールをつけていて、首を振って物色する姿は、餌を探し求めている魚のようだ。
こっちに来い。餌ならいくらでもある。
だが、いくら視線を送っても、貧相な俺たちのブースに足を止める者は少なかった。
目があったら軽く礼をしてみるものの、売り上げに変わることはない。誰もが通り過ぎていく。
魚を待つ気分にも似ていたが、水面下が見えない釣りと違って、ターゲットが目に見えている分、素通りされるのは身に堪えた。
ブンゲイ市場のようなリアルイベントに出店するのは初めてだから、きっと認知がされていないのだろう。
俺たちのフォロワーは宣伝用のアカウントも合わせて、三〇〇にも満たない。その中で日曜日の昼の時間帯が空いていて、モノレールに乗らないとたどり着けない、この会場にまで来る者が果たして何人いるだろうか。
知られていないと、評価の土俵にすら上がることができないのだ。
読めば分かるといって、実際に読んでくれる者がいないように。
一時間が経過した。その間、俺たちの歌集は一冊も売れることがなかった。立ち読みをする者は三人ほどいたものの、その誰もが購入まで至ることはなかった。
礼もせず離れていくたびに、思いっきり横っ面を張りたくなった。
隣の七尾はすでに五冊ほど売り上げている。
一時間という時間は、俺の心を折るには十分だった。
完売することは一〇〇パーセントない。もはや一冊売れるかどうかの勝負に差しかかっている。
俺は過ぎ行く者たちを、かすかににらむような目つきで見つめていた。
立ち読みして戻された本を、アルコールティッシュで拭いているミカヅキの笑顔にも、ハリがなくなってきたように感じられる。マッチ売りの少女も、こんな表情をしていたのだろうか。
さらに三〇分ほど経った。交代で昼食を摂ろうとミカヅキが財布を持って、席を立とうとしたそのときだった。
メガネをかけた男が俺たちのブースへと近づいてきたのだ。
羽織っているパーカーはよれよれで、冴えているとは言い難い。
「あの、ミカヅキさんはどちらの方でしょうか?」
言葉は俺に向けられてはいなかった。ミカヅキが小さく手を上げながら、「私ですが」と答えている。
その言葉を聞いた瞬間、男の顔がパッと明るくなった。笑顔があまりにも格好悪くて、ゾッとする。
「そうなんですか! 俺、ミカヅキさんの短歌好きなんです! 『平凡な 日だけどケーキを 買ってくる 君の姿に 頬を緩める』だったり、『コーヒーを 一緒に飲める 関係に なったらいいね 静かな部屋で』だったり、生活感があるんですけど、どこかロマンチックな雰囲気に惹かれていて! 今日もいろいろ買いたい本はあるんですけど、真っ先にここに来ました!」
男の熱量はぬるい会場からは明らかに浮いていた。何人かの視線が俺たちに向けられているのを感じる。ミカヅキでさえ少し引いていたくらいだ。
この男には社交性というものがないのだろうか。
距離の詰め方が下手で、普段からあまり人と話していないことが窺える。
「ああ、ありがとうございます」
そう答えるミカヅキの声はとても慎重だった。はじめてのファンを目の当たりにして、かえって喜びを表現できていないのかもしれない。
男はズボンのポケットから財布を取り出し、時間を置かずにこう言う。
「こちらの『ぬるま湯よりもちょっとは熱い』一冊いただけますか」
呼ばれたのは、ミカヅキの歌集のタイトルだった。
はじめて人から作品名を言われたミカヅキは、喜ぶというよりも慌てふためいている。「本当にいいんですか?」なんて口走ってしまうほどだ。
男はいいんですと言うように頷いている。
俺は完全に蚊帳の外、いない物として扱われていた。
「あの、一〇〇〇円になります」
言葉通りに、男は一〇〇〇円札をミカヅキに渡す。少し破れかかっていたが、ミカヅキには気にならないらしい。
アルコールティッシュで歌集を拭くその横顔は、俺の会社ではお目にかかれないほど、生きがいに満ちていた。
「お買い上げいただき、ありがとうございました!」
「こちらこそ、出展してくださってありがとうございます。大事に読ませていただきますね」
裸の歌集を手にしたまま、男は俺たちのもとから離れていく。最後に少しだけその目が俺の方に向けられた。
何の感情もこもっていない、道端の小石を見るような目だった。
中途半端に触れるくらいなら、無視してくれたらよかったのに。
お前みたいなのがいるから、ブンゲイ市場の知名度が上がらないんだと口には出さないが、感じた。
ふと隣から、小さい拍手が聞こえる。七尾がミカヅキにわずかばかりの祝福を送っていたのだ。
「おめでとうございます」という言葉にミカヅキは、恥ずかしそうに礼をして返す。
俺も小さい拍手を送った。心の底では祝福する気持ちは一ミクロンほどしかなかったが、それでもミカヅキは満面の笑みを俺に向けていた。
マスクに隠れて見えないが、笑っている口元を想像すると、喜ばしいことのはずなのに、俺の心はささくれ立つ。
たった一冊の差が、谷のように遠く感じた。
一冊売れて、ミカヅキは自信を取り戻したのか、椅子に座りなおしても、背筋が目に見えて伸びていた。
通り過ぎる者たちを見る目にも、怨嗟は少しも含まれていない。俺にはそれを真似することはできなかった。
ネガティブなオーラが放たれていると知っていても、無理して取り繕う気力はすでに残されていなかった。
二時を回って、来場者がつけるシールにもいくつかのカラーバリエーションが出てきたころ、俺たちは交代で三〇分ほどの休憩を取ることになった。
ミカヅキに勧められて、まず俺が先に席を立つ。トイレを済ませて、昼食を買おうと一階にあるコンビニに赴いた。
入ってすぐレジにできている長蛇の列に気づく。出展者証を貼った人間も少なくない。俺は数分待たされた後、おにぎりを二つと辛味チキンを買った。
屋外に出て適当なベンチに腰を下ろして、食べる。
賑やかに話しながら、会場に向かっていく女ども。俺はいったい何をしているんだろう。
スマートフォンをしばらく見た後、思い出したように会場に戻る。今日の目的の一つである松原の新作歌集を、まだ買っていないことに気がついた。
松原のブースはサー2。入り口をくぐると真っ先に目に入るブースだ。
人がひっきりなしにいて、俺たちのブースからでもその盛況ぶりは垣間見えた。
会場に戻ると、ブースの前には二人の男がいて、松原と何やら親しげに話していた。俺は後ろに立ち、早くどけよと視線に込める。
松原が気がついたようで、男どもに会話を終わらせるよう促していた。
男どもが引くと、机の上には本が一冊も置かれていなかった。
このご時世だ。立ち読み用の本を設置していないのだろう。
ずいぶん余裕だなと感じながら、俺は松原に話しかけた。
「あの、『ウールの心臓』ってまだありますか」
松原の新作歌集のタイトルを口にしてみる。一人で出店している松原は、俺に浮かない表情を見せてきた。
それだけで次の言葉が、俺には予想がついてしまう。
「すいません、多めに持ってはきたんですけど、さっき売れたので完売してしまって」
やはりだ。まだ時間は半分ほど余っているというのに、足下の段ボールは一つを残して、既に全部潰されている。
バズを経験しているだけで、ここまで違うものなのか。
広い会場が急激に狭く感じた。ざわめきが灰色一色になった。
「でしたら、『透明人形』や『君カリカチュア』は……」
「すいません、そちらも売り切れてしまったんですよ。もっと多く刷ってくればよかったですね」
既刊も完売したと言う松原の口は、はにかんでいた。
微笑むことで申し訳なさを表せると思っているのだろうか。一冊も売れていない俺にすらも。
強者の余裕がぶすぶすと俺の胸を刺す。穏やかな目で直視することは俺にはできなかった。
松原は俺の右胸の位置にある長方形のシールに気づいたらしい。うなだれている俺を気にして、掬い上げるような声をかけてくる。
「もしかして出展者の方ですか?」
声で答えることはできずに、頷くしかなかった。声を発したら、惨めな俺を見られてしまうと思った。
「どちらで出展なさってるんですか」
「サー27で、三日月軒というサークル名で出展してます」
もしかしたら用意できなかったお詫びに俺たちの歌集を買ってくれるというのか。いや、むしろ反省しているのなら、そうするのが道理というものだ。
松原が同情するような目を向けてくれるから、期待は膨らむ。
「そうなんですか。僕はもう帰ってしまいますけど、頑張ってくださいね」
嫌味かコイツ。
ただ座っているだけで、何を頑張れというのだ。
だが、俺ももう二〇代後半なので、口には出すことはしない。敷布以外何も置かれていない机を叩きたくもなったが、それもしない。
「もう帰ってしまうんですか?」
「はい。持ってきた分は全部売れましたし、知り合いにも挨拶はできたので、もういいかなと。もともと三時半から別の予定がありましたし、三時にはここを上がる予定だったんですよね」
「あ、そうなんですか」という俺の答えには、もはや何の感情もこもっていなかった。
ただ優越感を誇示されただけ。
このやり取りは必要だったのかという疑問が俺の頭をかすめる。
しばらく何も言えない俺を横目に、松原は市松模様の敷布を畳み始めている。
何様だコイツ。もうお前の短歌には、いいねもリツイートもしてやらねえ。
心の中で吐き捨てる。そんなことをしてもコイツには、痛くもかゆくもないだろうけれど。
会社でパソコンに向かって言うように、俺は「お疲れ様でした」と口にし、自分のブースへと戻っていった。
途中にいる人間が全員、木偶の坊のように見えた。
ミカヅキが俺を見かけて立ち上がっている。口が開いていて、顔は興奮を隠しきれていなかった。
「ケンさん! さっき、また本が売れました! しかも、二冊もです! 一冊は私とケンさんの合作で、もう一冊はケンさんの単独歌集です! これで三冊全部が一冊ずつ売れましたね!」
他の奴らからしてみれば、自分の本が売れたということは、天にも昇る心地なのだろう。俺だって、一時間ほど前だったら人目もはばからずに、ガッツポーズをしていたに違いない。
だけれど、喜ばしい報告も、ささくれ立った俺の心を慰めるまでには至らなかった。
シンプルな相槌だけが口から出る。
パイプ椅子に浅く腰かけて、思いっきり背もたれに寄りかかった。
「あれ? ケンさん、嬉しくないんですか?」
嬉しいことは嬉しい。
ただ、俺がいないタイミングで来ることないだろ。
自分で手渡さないと、本当に売れた実感は得られない。幽霊相手に商売をしているようだ。
「その買っていった奴はどんな奴だった?」
「たぶんですけど、ケンさんと同じくらいの年の男性でしたね。胸にCって書かれたシールをつけてました」
Cということは、一三時から一四時の間に入ってきた奴か。
それだけの手掛かりで、この会場から俺の歌集を買った人間を見つけるのは、不可能だろう。もう帰路についてしまっている可能性だってある。
何よりその時の俺は、心を砕かれて、隅から隅まで回る余裕はこれっぽっちもなかった。
腑抜けたように座る俺をミカヅキは、いったんは心配してみていたものの、「じゃあ、私休憩行ってきますね」と言い、軽やかな足取りでブースを離れていった。
一人残された俺は、売れ残りの不細工な人形みたいだった。
通り過ぎる人間を見る視線にも、憎しみが混ざる。何度も「ふざけんな」と呟きかけた。
俺が店番をした三〇分間、本は一冊も売れることはなかった。