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【小説】ロックバンドが止まらない(161)
「そっか。恵末ちゃんがそんなに悩んでるなんて知らなかったな。なんかごめんね。そうとも知らず気軽に誘っちゃって」
「いや、なんで瀬奈ちゃんが謝るの? 私だって瀬奈ちゃんや神原君と話したかったんだし、謝ることなんて全然ないよ」
「そう? でも、私たちに話しても、恵末ちゃんの悩みや苦悩はなくなったわけじゃないんでしょ……?」
「まあ、そりゃね。開き直って自分たちのやりたいようにやろうと思っても、それでお金をもらってる以上、聴いてくれる人がいないと難しいものがあるし。もちろんそんなことはないんだけど、でもまだ今ほど認知されてないときの方が、気軽にライブできたのになって思っちゃうときは、正直あるよ」
まだあまり売れていなかったときの方がよかった。それは神原には世迷い言にも聞こえたけれど、そう思ってしまうくらい平井は、今の状況にプレッシャーを感じているのだろう。
売れるということは望む望まないに関わらず、ファンの期待や会社の事情など、様々なものを背負ってしまうということだ。
それを平井が負担に感じていることは、神原にもある程度は理解できる。神原だって、ふとした瞬間にその重圧を感じてしまうときは確かにあるのだ。
「……でもさ、お前は音楽が好きなんだろ? これからもバンドを続けていきたいとは、思ってるんだよな?」
「もちろんだよ。いくらプレッシャーを感じてるとはいえ、曲ができたときの喜びはやっぱり今でも大きいし、ライブ中も、色々抱えているものをいったん忘れて、純粋に演奏が楽しいなと感じられる瞬間は、今でも確かにあるから」
「そっか。だったら続けた方がいいと、俺は思うけどな。もちろん楽しいだけじゃないのは当たり前だけど、楽しいと感じられる瞬間がまだあるなら、それを簡単に手放してほしくはないって思う」
「ありがと。でも、大丈夫だよ。私たち三人とも、バンドをやめる気はまったくないから。好きでたまらない音楽をこれからも続けていきたいって、心から思ってる。まずは今度リリースされるアルバムからね。頭振り絞って作った分、また良いアルバムになったって思ってるから、神原君や瀬奈ちゃんたちにも、早く聴いてほしいよ」
「うん、聴く。リリースされたその日に、買って聴くよ」
「ありがと。それからアルバムが出た後にはツアーもあるから。横浜とかファイナルの東京とかもあるから、よかったらまた来てくれると嬉しいな」
「うん、行くよ。絶対予定空けて行く。ね、泰斗君?」
「あ、ああ。なるべく行けるようにしとくよ」
「ありがと。でも、今はまずスプリットツアーの後半戦、頑張らないとね。全員で良いライブにして、来てくれたお客さんに満足して帰ってもらわないと」
そう言う平井の表情はかすかに上向いていて、自分たちと話したことで、多少なりとも気分が軽くなったのかなと、神原は思う。
何か問題が解決したわけでも、平井が抱えているプレッシャーがなくなったわけでもない。それでも、今の自分たちは目の前の活動を一つ一つ全力で取り組んでいくしかないのだ。
そのことを再確認できて、神原たちも「ああ、そうだな」とか「うん、頑張ろうね」と、前向きな返事ができる。平井も小さく頷いて、再びドリンクに口をつける。
少しずつ更けていく夜の中で、神原たちは次のライブも成功させることを約束し合っていた。
観客の話し声が、客入れのBGMとともに聴こえてくる。それはフロアと楽屋が離れている分、大きな音量ではなかったけれど、それでも神原たちの緊張を強めるのには十分だった。少し話してみても、神原の気は少しも紛れない。
今日の名古屋でのライブは、前回のスプリットツアーよりも一回り大きいライブハウスでの開催だけれど、それでも土曜日ということもあって、チケットは前売り券の段階で完売している。何度か名古屋でライブをしている神原たちでも、このライブハウスは初めてだったから、新鮮な緊張を感じる。
自分たちのファンやリスナーは必ずいると分かっていても、そうではない観客の方が数としては多いだろう。初めて立つステージはたとえそれがどこであっても、神原にはドキドキするもので、今までの経験も一度リセットされているかのようだ。
それでも、開演時間は着実に迫ってきていて、神原たちはライブが始まる一〇分ほど前に「スタンバイお願いします」と、スタッフから呼びかけられる。「頑張れよ」「楽しんできてね」と中美や平井たちから声をかけられながら、神原たちは楽屋を後にして舞台袖へと向かった。
舞台袖に到着すると、千人近く入るフロアがほとんど満員になっていることが、神原には見なくても察せられる。もちろん緊張が止むことはないが、どこか楽しくなってくるようでもある。
今日もまた大勢の観客の前で、ライブができる。それは神原にとっては、何回感じても決して減らない喜びだった。
園田たちの表情を見ても、期待と緊張が混在していることが見受けられる。それはいつものライブ前の様子と変わりなくて、神原にも特別なことをする必要はない、ただステージに出て演奏をすればいいという気にさせていた。
開演時間を回って少しすると、フロアの照明は落とされ、ステージだけが照らされる。小さく起こったどよめきは、自分たちへの、今日のライブ全体への期待の表現だろう。
流れ始めた登場SEにも観客は手拍子で乗ってくれていて、神原たちのテンションはより高められていく。
登場SEがサビに差しかかったタイミングで登場した神原たちへ向けられた拍手は、ちゃんと人数分の大きさを伴っていて、観客全員が自分たちを歓迎しているような印象さえ、神原は受けた。一目見ただけでもフロアは最後列まで人で埋まっていて、その広さ以上の密度を感じる。
今日は自分たちがトップバッターだ。だから、ライブ全体を勢いづけるような、観客の印象に残るライブをしたい。
その思いを胸に抱いて、登場SEが止んで一瞬静寂が下りたライブハウスの中で、神原たちは一斉に第一音を鳴らし出した。
息が上がる。三〇分しか演奏していないとは思えないほど、疲労を色濃く感じる。それでも、一斉に演奏を閉じて、ライブを終えた神原たちには、観客から大きな拍手が送られていた。それは「惜しげもない」という言葉を神原に想起させるほどで、自分たちのライブがうまくいったことの証明になっていた。
一つ前の仙台でのライブから数日間が空いたこともあって、神原たちは前半の二つのライブとは少し異なるセットリストで、今日のライブに向かっていた。ライブが始まったときには、まだ様子を見かねている観客も多かったのだが、それでも曲を追うごとにリズムに乗ってくれる観客は増えていて、終盤には多くの観客がサビで手を振り上げてくれるほどだった。
神原たちにも、数日間が空いたことで多少なりともリフレッシュできたのか、着実で小気味よく確かな熱がこもった演奏ができた実感がある。フロアの雰囲気を暖め、観客の印象に残るライブができたようで、神原はステージを降りた瞬間にガッツポーズをしたくなったほどだ。
園田たちの表情にも、手ごたえが滲んでいる。今持てる力を発揮できたことに、神原たちの間には清々しい空気が漂っていた。
自分たちの出番を無事に終えた神原たちが楽屋に戻ると、そこには次にライブを行うスノーモービルの三人がいて、スタッフに呼ばれる瞬間を今か今かと待っていた。入った瞬間に、緊張からかひりつくような空気を神原は感じてしまって、安堵や手ごたえを表情に出すことは憚られる。
それでも、二階の関係者席から神原たちのライブを見ていた三人は、口々に「ライブ、良かったぜ」という言葉をかけてくれて、神原たちも素直に「ありがとな」と答えられる。
だけれど、三人の表情からは硬さが取れていなくて、会話もあっさりと終わってしまった。神原たちが抱くライブが終わった開放感と、中美たちが抱えるライブに向けての緊張感は、水と油といったように相いれない。神原はライブを終えて少しくつろぎたかったのだが、それも口数が少なくなっている三人と同じ空間にいると、ためらわれた。
自分たちの出番を迎えて、スタッフに「スタンバイお願いします」と声をかけられたスノーモービルの三人が楽屋を後にすると、神原はようやく自然に息を吐くことができた。自分たちだけになって、園田たちとも砕けた調子で言葉を交わすことができる。
そして、束の間身体を休めてから、神原たちも中美たちのライブを見るために、二階の関係者席へと向かった。平井たちにも前向きな言葉でライブの感想を伝えられて、神原が感じる手ごたえもより確固たるものになる。
ふと視線を一階に向けると、ほとんど満員に入っているフロアがステージの上よりもよく見えた。空気は少し緩んでいるものの、それでも神原たちのライブで生まれた熱はまだ冷めていない。
きっとスノーモービルの三人も、まったくのフラットな状態からスタートするよりも、いくらかライブがしやすいと感じることだろう。自分たちがトップバッターとしての役割を十分に果たせたことは、神原にも誇らしく感じられた。
そのまま七人で少し話していると、概ね予定されていた時間通りに転換時のBGMは止み、フロアの照明は再び落とされた。流れ出した中美たちの登場SEに、観客は手拍子で応えている。神原も隣にいる園田や平井と同じように、自然と手を叩く。
スノーモービルのライブもうまくいってほしい。今までの三組でのライブの経験から、神原はそう素直に感じられるようになっていた。