ピンクの大地を駆けてゆけ。
それは確か私が中学生の頃だった。ある日長年通い続けていた近所の絵画教室で先生が分厚い画集を本棚から取り出し見せてくれた。
美術学科のある中学校へ進学した私のために先生が絵画教室でも油絵のイロハを熱心に教えてくれていた頃、参考になるようにと様々な画集に触れさせてくれたのであった。
若干12歳の私はデッサンや水彩の心得はあるものの、美術史の知識などほぼ皆無に近いものであった。ダヴィンチやゴッホ、知っていてもダリ程度が限界だっただろう。
「こういう絵とか、どう。綺麗じゃない?」
そんな風なことを言いながら、先生は気軽にぱらっと画集を開いた。
頭を金槌で殴られたような衝撃と上等な香水を嗅ぐような恍惚が同時に襲ってきた。
"呼び声" 1892年 ポール・ゴーギャン
画集の中にいくつもの、視線を奪って離さない、"ピンク色の地面"の絵がそこには在った。
その日から、私は美術という文化及びその行動にとても心を躍らせた。「美術の学校に行く」という新たな生活の始まりに希望を抱きつつも、学校である以上はアカデミックな技巧を習得するしかないという半ば諦めのようなものを感じていたが為に、美術史に名を刻む画匠の描く、なぜか鮮やかなピンクの地面。あり得ないという感情が嬉しく痛感であった。
それを目にしてから、自身で勝手に従うを得ないと感じていた芸術の拘束がゆるりと外れ、若き私はこれだと言わんばかりに無我夢中で色彩の暴挙に出た。
正直、ゴーギャンの描くタヒチの地面がこのような色なのかは判らないし、関連する書籍に目を通しても様々な説がある。当たり前だがタヒチの地面はこのような色ではない。
だがどうだろう、ゴーギャン本人のタヒチへの羨望や情熱が我が身にも染み渡り、タヒチの風景が写真で見るよりもずっと高彩度である気がしてならない。そうなれば青空はより青さを増し、木も花もずっと鮮やかな色で生命力をギンギンと見せびらかしてくる。なんだか地面がオレンジやピンクでも決して不自然ではないように思えてくるのだ。
ただ描かれる人物の肌は忠実に小麦色であることであることにもきっと理由があるはずなのだが、どのような事情にせよ鮮やかな風景と体温を感じられるような深みのある肌はどちらも相乗して美しい。
"美味しい水" 1894年 ポール・ゴーギャン
"海辺の騎手たち" 1902年 ポール・ゴーギャン
芸術の在る意味について問うとキリがないが、気づけばそれを志して20年も経ってしまった。当時の12歳の自分が今ここに自分の名前が付いた・自分が代表の芸術会社が存在すると考えられただろうか(反語)。
教会及び寺院の信仰対象である偶像や生活の記録として芸術家が職人として手仕事をしていた長き時代を経て、ゴーギャンが活躍するその少し前…18-19世紀に本格的に絵画や彫刻が"芸術作品"として花を開きます。人類の文化的生活が続く限りこの花が枯れることはありません。
そして日々暮らす無機質なグレーで敷き詰められた東京の土地もピンクの大地に近づいてゆくよう想いを込めた私のnote第一弾。最初に書くなら芸術というものに狂い始めた時のことをと思い、回想し認(したた)めました。
そういえば文章が苦手だから芸術をやっているようなものなのですが……折角なので続きます。
加藤芸術合同会社 代表
加藤 翠
以下、見苦しい補足。
ゴーギャンの作品を見返すとまだタヒチに足を踏み入れていない中期ブルターニュ滞在期に既に上記のような彩度の高い作品が少しずつ増え、フランスの風景にもピンクを取り入れているが……すみません。自分の都合のいいように解釈しています。今回は完全にあくまで自分のなかできっかけとなった作品として触れています。
詳しく知りたい方は是非関連書籍を読んでください。