見出し画像

huson/husyokuhu/manabi

とあるシナリオコンクールの選評を読んでいる。初めて選評というものを真面目に読んでいるが、審査員側の語気の強さになんだか選評文そのものが面白く思えてしまう。余計な配慮の無い言葉が、このご時世には有り難いものにも思える。

今までに5、6本の脚本を書いたが、まともな批評を受けた記憶が無い。自分の拙さが根本的に悪いと思うのだが、俺はこういう流れにしたら面白くなる、とか、この設定はもう少しケレン味効かせた方がバランスが良いのでは、とかそういう建設的な話をしたいのだが、いつも踏み込んだ話をせず、アソコの掛け合いが面白かったとか、この意味が分からないとか、小さい話で避けられる。思うに、そんな作者の前で不躾に作品を”貶める”事は、特殊な訓練をしてきた人間にしか出来ない芸当なのだろう。

自分で”貶める”と書いたが、作品に何を言おうが”貶める”事にはならないと思っている。「あれはクソだったよな」なんて感想で言葉を留めても、発言者の語彙の足りなさを披露しただけで、別に作品価値が落ちる訳じゃない。作品は作品で、私は私だ。そういう態度でいないと、本当に作品に向き合うなんて出来ないじゃないか。そんな不遜な人間を大事に出来ないなんて、それこそクソだ。



コロナが爆発的感染をしている。自分には直ちに影響は無いのだが、株価が下がるのはマジに辞めて欲しい。

コロナ前から家に溜め込んでいた不織布マスクのストックが切れそうで困っている、という事もある。そんなもん薬局で買えよ、という話なのだが、コロナで滅茶苦茶に値上がりした不織布マスクを買いたくない。なんだか凄く負けた気がするじゃないか。

なんて言いつつ100均で冷感布マスクを買っているので、もう半分負けてるようなもんだ。コロナで不遇な目に合わされている人もいるだろうから若干気が引けるが、どう考えても自分はコロナのお陰で人生救われた側だろうと思う。コロナの出始めくらいはさっさと自分もコロナに罹って死んでしまえないかなと思っていた位には未来の無い道を歩んでいたからだ。それがコロナの流行で途端に色々と道が開けてきた。こうも世間の潮流とズレてしまうのは、どういう人生的なサガなんだろうと思わされる。



アニメ『まなびストレート』を見ている。面白い。昨今のアニメには感じられない”自由さ”を感じている。

個人的な事だが、コンテ演出で入っている平尾さんが好きだ。最近だと『映画大好きポンポさん』なんかを作っている。歪な愛情なのだが、平尾さんの作品が特別好きかと聞かれると別にそうでもなかったりする。でも作品を見ていて、カマしてやろうという熱意を感じるのが、見ていてとても気持ちいい。面白い映像を作ってやろうという態度が清々しくて、見てて気合が入る。『ポンポさん』はやっと世評にもハマる作品になったようで、陰ながら応援しているファンとしては嬉しい限りだ。

Wikipediaで『まなびストレート』をざっと調べていると、面白い記述があった。

業界初の試みとして「まなび部屋」と呼ばれるチーム監督制を採用している。これは、従来一人の監督に委ねられていた権限を、ストーリーディレクターの金月龍之介、 ビジュアルディレクターの小笠原篤、 レイアウトディレクターの高橋タクロヲ、テクニカルディレクターの平尾隆之の4名へと分割、移譲した連合体である。

率直に羨ましいと思った。俺はアニメ業界のこういう所が好きだ。何より『まなびストレート』の題材とこの”チーム監督制”の制作体制がリンクしているのが良い。おジャ魔女やウテナもそうだが、企画初期に制作陣がしっかり対話して作られたアニメには、それ以外で作られたアニメとは一線を画す”何か”を感じる。広がりのある世界観とか、巧妙なドラマ感とか、そういうのもあるが、もっと大きなもっと奇跡的なもっと曖昧な”何か”。何と言えばいいだろうか。「面白い事が嬉しく感じる」あの感じだ。セッション的な映像の出来上がり感とでも言えば良いだろうか。

こう書いていて、この手法にはまだ期待を抱いている自分に気付いた。”自分”というフレームではもう期待するアニメ像を描けなくなっていたが、こういうやり方でならアニメを作りたい。そう思える。

なんだか久々に夢の匂いがして、嬉しくなった。そう思える自分に気付いて、初めて日記を書いていて良かったと思った。

いいなと思ったら応援しよう!

やさしさ原理主義
面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。