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イジメとミジメ、ともすりゃマジメ

巷でいじめられる人にも原因がある、という話を見た。元の動画は見てもいないのでその悶着に触れることはしないが、自分も薄っすら同じような事を考えた事があり、久々にそれについて正面から取り扱う人間が出てきたのを見て少し嬉しくなった。例え言葉の端々で過ちを犯そうと、積極的に責任を取る覚悟から出た言葉には誠実さの欠片を見たような気がして、俺は好きだ。

この5年10年くらいの風潮だが「いじめ」について「いじめてる側の完全な悪」だと断罪的な意見を放言しているのが目につく。それはもはや有名無名関係なくありとあらゆる所で言われるようになった。その個別的状況の些末も、その関係性の背景も関係なく「いじめ」は悪いことだと誰しもが簡単に決めつけている。

善悪判断は風潮化すればするほど怪しくなってくるもので、最近ではいじめ関連の話は好感度稼ぎの文言に変化しはじめているように思う。しょうもない事で「昔いじめられてました」とキャラ付けする人間が出始めたり、「イジりも相手が不快に思えばいじめ」だなんて無茶な断罪話が出てきたり。「いじめ=悪」の分かりやすい図式にかこつけて、いじめ関連の話には脳みそが死んでる胡散臭い人間が大量に湧いて出てくるようになってきた。自分にはそれが気持ち悪くてしょうがなかった。

自分は昔いじめられていた事もあるようだし、もっと言えばいじめていた事もあるようだ。”ようだ”というのは、それをしていた、されていた頃、自分にはそれが「いじめ」に当たるという認識が全く無かったからだ。

小学生の頃、特に低学年の頃は自分は割と暴力的な人間だったと思う。暴力的と言っても弱いものいじめが好きとかいう類ではなくて、悪戯好きだったり、喧嘩っぱやいタイプの暴力的な感じで、卑怯だと思った事にすぐ腹を立てタイマンの喧嘩をふっかけていた記憶がある。

子供の喧嘩の面白い所だが、喧嘩に勝ってしまって相手を泣かせたり反撃不能の状態にさせた瞬間に、最終的には悪者にされてしまうという事がある。より暴力的に”見えた”人間が悪いのだ。そのせいで、喧嘩が強かった自分はその諍いが例えどんなきっかけであろうと、最終的には周囲の大人たちに謝らされていた。そんな事ばかり繰り返していると、傍から見れば腕っぷしに物を言わせる人間のように思われるようになるのも当然で、ある時仲間はずれを受けるようになった。

当時腕っぷしと正義感だけにステータスを割り振っていた脳筋人間だった為に、何か揉め事が起きても周りに一切説明も根回しもしなかった。なんならそれが格好良いとさえ思っていた。協調性よりも信念が重要だと思っていたクチである。だからこそ周囲のその態度の変わりように、その信念の無さに俺はめちゃくちゃにガッカリして外で遊ぶのを辞め、それから一年程一人図書館に通うようになった。ある程度の冷却期間を経ると「また外で遊ぼうよ」と声を掛けられるようになるのだが、「てめえはどの口で物言ってんだ」と全く釈然としないまま、その不条理な事態を飲み込んだ。

仲間はずれを受けた俺が”不快”だったから、これは現代で言うと「いじめ」に当たる現象と呼んでも差し支えないように思う。でも個人視点では「下らない人間関係を切って、読書文化に耽っていた」だけの時期でしかなく「いじめ」に当たらないと思っている。

他にも細かく物を隠されたり捨てられたり、暴力を受けた事もあったが、その度に一番不愉快な態度を取る人間を執拗に攻撃して気狂いに振る舞うか、無関係な人間を巻き込んで八つ当たりする事でわざと問題を大きくさせて、応酬を成立させないようにしていた覚えがある。

それは、自分が「被害者」というレッテルを貼られたまま悶着を終わらせたくなかったからだった。政治的根回しが不得意な自分が「被害者」側に回ると、必然泣き寝入りをするしかないのは何となく予感していたのだと思う。そうなるくらいなら幾らでもキチガイを演じて暴れ回るし、ピエロをやって笑わせるし、変態呼ばわりに恍惚する。それでドン引きされても嘲笑われても関係ない。むしろ嬉しかった覚えさえある。そんな反応は自分の方に"主体性"がある事の証明だったからだ。

今思えばそんな変テコでプライドの高い人間は、嗜虐性を持った人間の反感を買いがちなのである種「虐められて当然」なのだけれど、そもそもマウントを取っただけの見返りが薄く、マウントのとりやすさも無いならば「いじめ」の関係に嵌る事もない。自分の場合はそういう事で不幸な関係に陥る事は無かった。(結果、ある種の不幸な人間は出来てしまっている気もするが…)


「いじめ」は人と人との関係性の一形態にすぎない。社会システムのマジョリティに則って反論できない相手を選び「いじめ」を執拗に糾弾するその姿は、「いじめ」の構造まったくそのままだ。それは皮肉と言うべきか滑稽と言うべきか。簡単に言えばアホ丸出しだと思う。

そもそも生物なんてものはむごい物なのだ。それは知能指数がどうとかの話と関係がない。アシナガバチは育成不全の自分の子供を食い殺すし、チンパンジーは他集団の子供の肉を食うし、イルカだって同種間のいじめ行動をして仲間を殺す。縄張り争い、組織形成調整、繁殖競争、「いじめ」をやる価値というのはそもそも生物に組み込まれていて、その排斥衝動は誰しもが潜在的に持っているものなのだ。

「いじめ」が生物由来の現象ならば、「いじめる人間」も生物由来の行動をしているだけで、「いじめられる側の原因性」も生物学的に当然あって、それは残酷な現実として受け止めるべきだろうと思う。「いじめ」を極悪化させて「いじめる人間」を社会的に排斥するのも、「いじめられる人間」の社交性欠如から目を背けるのも、対症療法的すぎて実際の「いじめ」が起こる根本原因を抑止改善させるようには思えない。

そんな対症療法では結局「いじめた人間」は犯罪者扱いされ、「社交性欠如した人間」は使えないヤツ扱いされ、「いじめ」構造をより社会的に陰湿にボカす事にしかならないんじゃないかと思っている。しかし、そうして問題を先延ばしにして見て見ぬ振りを繰り返す事になっていくのは止めようもない事というのも現実で、それは結局見て見ぬ振りをする人間が一番の多数派だからという話に帰着する。

それが、そういう流れが厳然たる社会的事実としてある。それを知った上でどうするのか、どうスタンスを取るのかは、やっぱり個人の自由だ。

その上で、無知蒙昧に多数派に乗っかって感情的に言葉を投げつける人間がいるとするなら、俺はそいつを徹底的にいじめたい。

面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。