見出し画像

映画『悪は存在しない』にブチギレお気持ち表明マン

ゴールデンウィークに大学の頃からの友達と酒を飲んだ。中でも映画を良く見る友達が映画『悪は存在しない』の話で盛り上がっていた。

濱口竜介監督の映画は直近4本くらい見たことはあって、中には好きでDVDを買ったものもある。だけど、東京では新宿と下北沢でしか上映しておらず、なんだかわざわざそれだけの為に遠くまで見に行くのもなあ、と思っていた。

しかし、それだけ話が盛り上がるなら一見の価値はある映画かと思い、また、どうせ小ぢんまりした作品はDVD化しないだろうから劇場で見ちゃったほうが手っ取り早いかと、休日に下北沢まで足を運んだ。

下北沢に行ったのは殆ど初めてだったが、何やら高低差が多く、服屋が幅を効かせ、綺麗な植物があちこち植えられていて、全体的にお洒落を気取ってる感じが、なんやらけったいで気持ちがわりい。

劇場へ向かおうにも、マップアプリに案内されたのは全体の構造が良くわからん建物で、他の建築物と薄っすら繋がってアクセスが良さそうに見えてるお洒落でオープンな感じが、逆にどこにどの店が入ってんのか判然としない気色悪いクソみたいな感じになっていて、総じて「おもしれー街」だと思った。

劇場はカフェ(コワーキングスペースとしても使える)と一体になっていて、どうやらそのカフェ(コワーキングスペースとしても使える)で飲物を買えば、劇場に持ち込める仕組みになっているらしい。映画のタイトルが『悪は存在しない』と重たそうなので、ポップコーンとか清涼水は片手に持っておきたくて、注文することにした。

オーガニックなメニュー表は見づらくて選択肢は狭く、しょうがないのでリンゴジュース(なんか有機的でシズル感のある正式名称があった気がする)を頼む。レジの奥にポップコーンのカップが見えたので、「ポップコーンてあるんですか?」と聞くと「あれはTシャツですね~」と返される。お洒落パケも大概にしろ! 財布を開けてお金を払おうとするとレジ代わりのipadをクルッと引っくり返して「ウチは現金取り扱ってないんですよ~」という。だったら分かりやすく書いとけよタコ助

透明な小ぶりのカップにどでかい氷がぶち込まれ、綺麗な瓶入りのリンゴジュースが注がれていく。コップ上部にお洒落なゆとりを持たせてある。はあ!?これで770円だあ!?液が100mlしか入ってねえのでは!?挙げ句、プラコップの蓋の在庫が店に無いからと、外へお使いに出された外国人店員を待つことに。ひょえ~~~

劇場内に入ると、なんだか”如何にも”な人間が集まっていて、いや~な感じである。マルクスの伝記映画を見た時よりカジュアル知識層で、fishmansの映画を見た時より金に困ってなさそうで、中国ドキュメンタリー映画を見た時よりキショい好奇心を持ってそうな感じ。

身なりの整った中年夫婦の横に座ると、同劇場で上映予定である映画の予告が流れ始めた。ドキュメンタリー映画らしい。俳優の東出が主役で、狩猟生活を通して現代を見つめ直そうというものらしい。「殺しといて凄い可哀想だなって毎回思う。そんな慈愛の精神もってんだったら殺すなよ。てめえが死ねよって話だしね」とか言って「生きる」とは何か語り始める。

ゲボボボボボボボ🤮🤮🤮🤮🤮🤮🤮🤮

映画が始まる前にこんなに気分が悪くなるとは。京都で映画『言の葉の庭』を見た後、テロップの後にジブリの『風立ちぬ』の予告映像を流された時と同じくらい気持ちわりい。

やっと映画が始まる。冒頭、真上を見上げて森の中を進んでいくカット。

それが尺が長い。体感5分くらいある。井の頭公園で同じようなアングルで写真を撮った事があるが、その時の自分の荒んだ気持を思い出してぐったりした。

主人公が薪を割り始めた。

それも尺が長い。体感5分くらいある。最近思うが、映画って本当にyoutubeより面白いか? 映像について界隈の誰かと話すと、世間じゃその認識で当然だというツラをしてるが、すでにアニメも映画もかなりyoutubeに遅れをとっているんじゃないか? 映画倍速再生にいちいちキレてる場合なのか? 正味そんじょそこらの映画よりyoutubeの方が「情報量/尺」の密度が高い気がしている。ここで言う情報量とはエンタメとか面白がらせようという手数の話だけじゃなくて、社会背景や生活背景の情報という部分でもそうだ。尺に見合うだけの情報が流れてこない。倍速されて当然だ。いい映画は倍速するとなんかぎこちなく感じるものだ。

以前にyoutubeで薪割りの動画を見たことがあったが、最近は斧でも色々と工夫がされてあって、丸太の状態から一撃で四分割にできたりするものもあったりする。薪割り一つでも色々と工夫する余地はある。そういった工夫をせずにどっかの映画監督みたいに趣味的にちんたら薪を割っているのを見て、ああこの主人公の生活は殆ど趣味的なもんで、工夫するつもりも無ければそもそも生活改善するつもりもない人間なんだなあ。などとだらだら考えれるくらいの暇があった。

以下、映画内容。

映画『悪は存在しない』あらすじ

長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧(大美賀均)とその娘・花(西川玲)の暮らしは、水を汲み、薪を割るような、自然に囲まれた慎ましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場を作る計画が持ち上がる。コロナ禍のあおりを受けた芸能事務所が政府からの補助金を得て計画したものだったが、森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。

きちいて。なあきついよコレ。インテリ自然主義さんよ。

俺は広島の片田舎の出身で、北海道のガチ田舎出身の人とこの映画を見たわけだけど、映画館出た直後、二人共声を揃えて自然描写キモすぎの感想が出た。街で育つと自然に対してこういう認識になっちまうのか?きっとこの映画を高評価してるやつは、そこらへんの描写の無意識的な偏りに全く気づいて無いんじゃないか?

劇中で描写されてた、東京の調子の良い開発者たちと田舎の自然に寄り添って生きる人たちの対比感。東京の人間はやけに生臭く描写する割に、田舎の人間はみんなやたら聖人ぶった描写をする。特に田舎の人たちの描写の仕方が真摯に撮ってますって感じだから余計気色悪い。海外ドラマの描くウソおもしろ日本、みたいな感じで、都会の人が描くウソおもしろ田舎、って感じだったら何も思わないどころか面白いまであったが。

そもそも田舎の人間に対して、「自然と折り合いつけて生きていて偉い」と思うこと自体がカスの思考だということをしっかり認識してもらいたい。

折り合ってなんかねえんだよ。闘争しとんじゃ間抜け。生きるか死ぬかで必死に利益を貪って生きとんじゃ。

プロレスラーに「頑張って芝居してて偉い」とか芸人に「ネタ覚えれて偉い」とか言うか? 自然は当然そこにあるもので、油断すれば繁茂して無限に侵食するもので、対抗しないと自分が死んでそれでただ終わりってだけ。
それだけ。それだけだから当然のように適度に自然を破壊する。

その当然さをわざわざ持ち上げてる事のキショさ加減。それをよく考えた方がいい。その当然さを持ち上げることが、結果何を指向しているのか、それをよく考えたほうがいい。

その指向は結果、自然保護に繋がってるのか?人間理解は深まったか?観客は楽しい時間を過ごせたか?核心的もしくは革新的な自己表現はできたのか?

「当然さをわざわざ持ち上げる、それを人に見せつける」この仕草はSNSでも良く見る。情報社会の病気だと思っている。それは結論、スタンス表明のセックスアピールにしかなってないんじゃないか? それが自覚できてるか? 自覚した上で選択しているか? それを飲み込む覚悟はあんのか?

描写の無意識的な偏りを見る度俺はそう思う。東出映画の予告でゲボ吐きそうになった気持ちがこれでちっとは分かってくれると嬉しい。

映画は衝撃のラストを迎える。

主人公の娘が、手負いの鹿に近づく。
東京の男が危ないから止めようと近づくが、主人公が東京の男の首を締め上げて失神させる。
手負いの鹿が娘を襲う。
主人公、失神した娘を抱えて走る。

率直な感想は「ど~~~っでもいい~~~ッッ」だった。

確かに驚いた。その状況解決の選択肢は頭になかった。だけど、それが何なんだ? 知るか。適当に嘆いて喘いで死んどけっつーんだ。

いや、わかる。この手の謎とか衝撃的演出とか、に対してグルグル頭回して、どうにかこうにか道徳的倫理的規範、個人的性質の歪み、物語の方向性を当て込んで、正解らしい何かを見つける作業の気持ちよさ。俺めっちゃ分かりますよ? それで20代すり潰したようなもんだもん。

だからゴミ。総じてゴミ。そのゴミさ加減が分かんない内は、気色悪い無自覚セックスアピールの何の変化も持たらさないクソのインテリお勉強野郎なんだよ。

正直言って、その類の「理解」に価値があると全く思わない。批評家として食っていくなら、表現としての価値というなら別だけど。

ともかく、あのラストはこのお話は寓話的なものです。という事しか伝わっては来なかった。もちろん俺の中での解釈はあるが、それも即物的な見方で共有する価値も無い事だ。上記で書いた事の方がずっと俺の中では価値がある。

最後に役者の「棒読み感」について触れておこうと思う。

初めて濱口作品を見た時、このけったいな喋り方はなんだ? と思った。初めて濱口作品を見た、殆ど全ての人が意識的に気づく違和感だろうと思う。

ここで、『ハッピーアワー』以来、濱口が用いている「本読み」の方法に触れておこう。濱口は、「ニュアンスを込めず、抑揚を排して」テクストを繰り返し読む「本読み」のリハーサルを行うことで知られている(詳しくは以下を参照。濱口竜介「『ハッピーアワー』の方法」、濱口竜介・野原位・高橋知由『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年)。感情を一切込めず何度も繰り返し読むことで、テクストを身体の中に落とし込んでいくこと。ジャン・ルノワールが用いた「イタリア式本読み」に着想を得たこの方法は、『ドライブ・マイ・カー』(2021)の題材ともなり、いまや「濱口メソッド」として知られているだろう。ただし、感情やニュアンスを排するのは、あくまでリハサールでの話であって、本番においては、感情とニュアンスが解禁される。自身の身体にテクストを落とし込んだ俳優たちは、本番では相互に反応し合い、テクストは俳優たちの「からだに固有のニュアンス」を帯びて自由に発展していく。「本読み」は、紋切り型でない、俳優どうしの相互作用をとらえるための方法であるのだ。パンフレットでの小坂竜士の証言を読むと、『悪は存在しない』でも同様の方法がとられたことが窺える。実際、小坂と渋谷のかけあいはそうしたメソッドの成果であるだろう。

https://www.nobodymag.com/journal/archives/2024/0526_1252.php

上記を読めば分かるが、あの棒読みは監督がその特殊な稽古を役者にさせた上で出てきた、間接的な演技指導の結果である。

また上記を読めば分かるが、これはとてもインテリが大好きそうな文学的裏付けと歴史がある。

今まで4作品ほど濱口作品を見てきたが、『ドライブ・マイ・カー』を見た時に、この演技指導についてちょっと思う所があった。というのも、この演技指導は、指導の初期的な狙いとは別に、どんな結果(演出的効果)を招いているのだろうかという部分だ。

いい点で言えば、セリフが訥々と話されるので耳に入りやすい。湿度の高いセリフに関しては、普通の芝居よりも二人の距離感が近いように感じる効果がある。話している時の動きの芝居を抑える効果があり、会話劇として人に届きやすい。とかだろうか。

疑問なのは、役者の自意識を殺して役者がハねる事を間接的に抑えてる部分が無いか? という事で。それってもしかすると凄い同調圧力的なコントロールで、脚本重視な監督のエゴな部分が反映されたやり方じゃないのかと思う。

さらに言うと、棒読みを意識させる事に過剰に囚われてしまった人と全く囚われない人の個人差が結構激しくて、芝居の温度がばらつくという事もある。見てれば分かるが、子供やかなり年を召した爺婆はその練習が効きにくくて普通にいつもの温度で芝居できている。一方ある程度責任ある役柄であったり真面目そうな人ほど練習時の記憶に囚われ、意味不明なイントネーションになったりする。

結論、これって一種の洗脳なのではないか?と思っている。別に監督の作品だから洗脳でもなんでも好きにすりゃいいが、その一種抑圧された演者を見ている観客(俺)は、あんまり気分は良くないぞ、という事は言いたい。声を大にして言いたい。見てて気分良くないぞ!?

こういう感想文を書くと権威主義的なヤツが、「いやいやそれは失敗じゃなくてそういう”演出”でしょ」と言ってくる事がある。その他人の”愚昧”を深読みして”悪意”と捉える心の有り様がインテリ仕草なんだよ。調べたらそういう認識偏向性のカタカナ病名出てくるから、調べてテメエの病状と向き合えよゴミが。

糞みたいな映画を映画館で見るたびに、俺はどうしてこの映画に1800円も払ったんだと思う。実質700円ぐらいの価値しかなかった。見なきゃ買う事もなかった770円の極小リンゴジュースの事も頭をよぎるし、劇場内がエアコンで冷え冷えなのも苦痛だし、隣のオバさんがコートを振りかぶって羽織ろうとして袖が遠心力で俺の肩にバシーンと当ててくんのも糞だった。顔面に中指突き立てときゃ良かった。

もしこの感想文があまりに言い過ぎで的外れで気違いじみてて不愉快と思うなら、まず俺に1800+770-700=1870の1870円を払って欲しい。そうしたら俺もこの悪文を消すことを考える。屁理屈じゃなくて行動で示せ。

俺が可哀想だと思ってくれるなら、これまたお布施くれ。


おわり

面白かった人、ありがとう。面白くなかった人、ごめんなさい。