ジャーナリズムが「シラケ」と「アソビ」の世代というレッテルをふり回すようになって久しいが、このレッテルは現在も大勢において通用すると言えるだろう。そのことは決して憂うべき筋合いのものではない。「明るい豊かな未来」を築くためにひたすら「真理探究の道」に励んでみたり、企業社会のモラルに自己を同一化させて「奮励努力」してみたり、或いはまた「革命の大義」とやらに目覚めて「盲目なる大衆」を領導せんとしてみたりするよりは、シラケることによってそうした既成の文脈一切から身を引き離し、一度すべてを相対化してみる方がずっといい。繰り返すが、僕はこうした時代の感性を信じている。
その上であえて言うのだが、ここで「批評家」になってしまうと言うのはいただけない。<道>を歩むのをやめたからといって<通>にならねばならぬという法はあるまい。自らは安全な「大所高所」に身を置いて、酒の肴に下界の事どもを論うという態度には、知のダイナミズムなど求むべくもない。要は、自ら「溺れる世」の只中をうろつき、危険に身をさらしつつ、しかも、批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深く関わり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、今更いうまでもない。簡単に言ってしまえば、シラケつつノリ、ノリつつシラケること、これである。