見出し画像

中原中也に関するYouTube動画をみて理解した事、感想など

前書き


私のnoteでは、思考した事の整理、問題提起、日々生活のログ、新しい経験、味わった多種多様な他者のコンテンツについての感想、読書のまとめ、または入っているコミニティーの関連レポートなどについて書き連ねています。

今回のnote概要

中原中也に関するYouTubeを見て、気になったところの抜粋や感想などを書き連ねる

視聴したYouTube動画

気になったところの抜粋、

・1つめの動画

明治時代は中学でラクダイしたのか…

タダイズムの影響で彼の詩意味がよくわからなかったが、そもそも意味がなかったということなのか

感想

新しい詩の形を模索していたが、常に子供時代の孤独感がつねに詩に反映した詩人らしい…

語句理解


宮沢賢治や坂口安吾もかぶれたのか…
1910年から流行った運動か

明治期の中学(旧制中学)勉強遅れるとラクダイしてしまう確率が大幅に増えるらしい、、旧制中学校は今の進学塾みたいなものなのか


旧制中学、大手学習予備校みたいな感じか…→当時のインテリ層の代表である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円ほどなのに、東京の市立中学の入学年次における学費は直接経費だけでも146円19銭もあった。このため、せっかく入学できても中途退学を余儀なくされる者は入学者の1/3にも達した[14]。

日中戦争による戦時景気で一般の人々でも中学に進学できるようになった。それでも、旧制中等教育学校への進学率は13%前後に過ぎず、特に、中学入学者についてみると進学率は8%くらいだった。農村からの進学者は地主の子弟が主で、村で1人か2人くらいしかいなかった。農村の二男三男は小学校6年卒あるいは高等小学校2年卒で町工場へ出稼ぎに出るのが当たり前だった[17]。

反面、旧制中学校に比べ高等女学校の設置数は多く、女子の方が普通中等教育を受けるだけの門戸は広かった。社会進出が制限されていた女子の進学をわざわざ制限する必要性がない上に、いわゆる「良妻賢母」教育は社会の要望に合致していたからだと思われる。

・2つめの動画

感想

朝の歌は、自己肯定の歌であり、絶望感としっかり対峙した自分を励ます詩だったのか→

 
天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙(すき)を 洩(も)れ入(い)る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽(ぐんがく)の憶(おも)い
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂の香(か)に 朝は悩まし
  うしないし さまざまのゆめ、
森竝(もりなみ)は 風に鳴るかな

ひろごりて たいらかの空、
  土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。

3つ目の動画

理解/感想

中也メンヘラであり、新しい言葉を模索していたのか

四つ目の動画

理解/感想

息子が死に絶望を感じ精神を病み、そのあと結核にかかり死んだのか…彼は言葉ができる前の世界を目指したみたいだった。感じろの世界を。

最後に


ここまで読んでくださってありがとうございました😊
私の今回のNote記事がよかったら、いいね👍/フォロー/サポート/オススメなどしていってください。

このラインより上のエリアが無料で表示されます。
シェア

ここから先は

0字

¥ 100

後で返信します。