資治通鑑卷一百八十五 唐紀一①
序
以前より編訳の志は持っておりましたが、各LLMの性能の向上によりその作業環境がほぼ整った為、北宋の司馬光が編纂した歴史書、「資治通鑑」唐紀部分の和約に着手したいと思います。
(私という人間は何者か…と問われれば、生業はともかく、「歴史家にしてサイクリスト」と答えるでしょう。主な研究分野は日本史と中国史です…が、更に言うならば「俺は俺だ。それ以外の何者でもない」と言うでしょう)
有体に言って、徳田隆氏による和約本の刊行が進んでおれば何もわざわざ自力で、こんな難儀な作業をしなくて良いと思っていましたが、徳田本の刊行が日本人にもお馴染みの三国時代で止まってしまい、徳田氏の年齢を考慮しても、以降その作業が進むとも思えず、
(しかも、漢紀時点で欠本が生じている)
こうなっては自力でやるしかないな...と覚悟を決めました。
Greg LeMond氏の伝記、「The Comeback」などの翻訳も進めていましたが、こちらは著作権が絡む為に、世に出す訳にもいきません。
ともかく、将来的にデジタル刊行も考えてはいますが…まずは作業場として、ここで公開していきます。作業台として想定しているので、最初から完成版を掲載する訳ではありません。随時、改稿しつつです。
手順としては、まずAIが訳した叩き台を張り付けて、それを自分で手直ししていく感じです。
既に、同じことに挑戦されている先達もおられますが…文体が、自分の求める文体ではないものの、ありがたく参考にさせていただきます。
徳田本には膨大な注釈が付いていますが.…そこまでやると、「それ」だけで私の残りの人生が全て終わるし、かつ私の知識、能力の限界を超えるので、やりません。
(可能な範囲ではやるかもしれません…が、基本やりません。例えば、下記冒頭で「剣履昇殿、贊拜不名」という表現がありますが、中国史を学んでいる人には説明不要で通る表現でしょうが、そうでない人には何のことかわからないでしょう…しかし、いちいち説明はしません。そんな事やっていたらキリがない)
高祖神堯大聖光孝皇帝上之上武德元年(戊寅,公元六一八年)
李淵、剣履昇殿、贊拜不名の特権を得る
春、正月、丁未朔(1日)、隋の恭帝は詔を発し、唐王(李淵)に剣履昇殿、贊拜不名の特権を許した。唐王が長安を平定すると、書簡をもって各地の郡や県に知らせた。
この為、東は商洛から南は巴・蜀に至るまで、郡県の長官や群盗の首領、氐族や羌族の長達は争って子弟を送り、謁見してその傘下に入る事を申し出た。有司はその返事を書き送るが、その数は日に百通にも及んだ。
王世充は東都の兵を得ると、洛北で李密を攻撃して敗走させ、その後鞏北に駐屯した。辛酉の日、世充は諸軍に命じて、それぞれ浮橋を造り洛水を渡り李密を攻撃するよう指示し、「橋が先に完成した者から進軍せよ」と命じた。しかし橋の完成時期がばらばらであったため、統率が取れなかった。
虎賁郎将の王辯が李密の外柵を破り、李密の陣営は混乱し、崩壊寸前に陥ったが、世充はこれを知らず、角笛を鳴らして兵を撤退させた。この機を逃さず、李密は死を恐れぬ兵を率いて反撃し、世充軍は大敗した。
兵たちは浮橋を争って渡ろうとし、溺死者は1万を超えた。王辯も戦死し、世充は辛うじて逃げ延びた。洛北の軍は全滅し、世充は東都にも戻れず、河陽に向かった。この夜、大風と寒雨が吹き荒れ、兵士たちは水に濡れ凍え、道中で凍死する者もまた1万を数えた。
世充は数千人の敗残兵を率いて河陽に到着し、罪を請うて獄に入ることを願い出た。越王侗(煬帝の子)は使者を送り、その罪を赦して東都に召還し、金銀財宝や美女を与えてその心を安んじた。世充は逃散した兵1万人余りを集めると、含嘉城に駐屯し、再び外に出撃しようとなかった。
李密は勝利に乗じて金墉城を占拠し、その城門や櫓を修理し居住した。その鉦鼓の音は東都にも響き渡った。間もなく兵力は30万余に達したので、北邙山に布陣して南は上春門に迫った。乙丑の日、金紫光禄大夫の段達と民部尚書の韋津が兵を率いて迎撃に出た。
段達は李密の兵が多勢であるのを見て恐れ、先に退却した。李密は兵を放ってこれを追撃し、軍は潰走した。韋津は戦死した。このため、偃師、柏谷、および河陽の都尉独孤武都、河内郡丞の柳燮、職方郎の柳続らがそれぞれ属する部隊を率いて李密に降伏した。
竇建徳、朱粲、孟海公、徐円朗らも使者を送り表を奉り、李密に皇帝に即位するように勧めた。また、密の官属である裴仁基らも上書して、位を正すよう請願したが、李密は「東都が平定されていない今、このような議論をすることはできない」と答えた。
戊辰の日、唐王は世子李建成を左元帥、秦公李世民(後の太宗皇帝)を右元帥とし、諸軍10万余を率いて東都を救援するよう命じた。
東都では食料が不足していた。太府卿の元文都らは、城を守る者で公の糧食を消費しない者には進散官の二品官位を与えることを条件にして、呼びかけた。これに応じて商人たちが買い求めた象笏(五品以上の官人が用いる)を手に朝廷に詣でる者が数え切れないほど現れた。
二月、己卯の日、唐王は太常卿の鄭元璹に兵を与えて商洛から出撃させ、南陽を攻略させた。また、左領軍府司馬の馬元規には安陸および荊、襄を攻略させた。
李密は房彦藻と鄭頲を黎陽から東に派遣し、各州県を鎮撫させた。また梁郡太守の楊汪を上柱国・宋州総管に任命し、直筆の手紙を添えた。「かつて雍丘では貴公を追捕し、射鉤で衣袖を切り裂いたこともあったが、今はそのような事は望まぬ」と記した。楊汪も返礼の使者を送ってきたので、李密は楊汪を懐柔するべく懇切に対応した。
房彦藻は書簡をもって竇建徳を誘い、李密に謁見させようとした。建徳は返信で謙遜した礼を尽くし、羅藝が南侵してきたことを口実に、北部を守ると答えた。しかし房彦藻が衛州に戻る途中、賊の首領王徳仁に襲われ殺された。王徳仁は数万の兵を有し、林慮山を拠点として周囲を略奪し、いくつかの州にとって大きな脅威となっていた。
三月、己酉の日、唐王は斉公の李元吉を鎮北将軍・太原道行軍元帥・十五郡の都督とし、必要に応じて適宜行動する権限を与えた。
煬帝、荒淫に耽る
隋の煬帝が江都に至ると、その荒淫ぶりはさらに甚だしくなった。宮中には百余りの部屋が設けられ、それぞれを贅沢に飾り、美女を配置していた。毎日、一部屋毎の美女を主人役にし、そこで宴を催した。江都郡丞の趙元楷が酒や料理の供給を担当し、帝は蕭后や寵姫たちと共にそれらの部屋を巡りながら宴飲を楽しんだ。酒の杯を手放すことはなく、同行する寵姫千余人も常に酔っていた。
しかし、帝は天下が危機に瀕している様子を目にして心中落ち着かず、不安に苛まれていた。朝廷から退くと頭巾と短衣を纏い杖をつきながら歩き回り、台館を隈なく巡った。夜にならなければ止まることはなく、急き立てられるように景色を楽しみ、満足することを恐れるかのようだった。
帝は占いや星占術に詳しく、それに興じていた。また、吳地方の言葉を好み、よく使用した。ある夜、酒を酌み交わしながら天を仰ぎ、蕭后にこう語った。
「世間には朕の弑逆を図る者が多いようだが、朕は天下の主の地位を失うことはない。お前も皇后としての地位を失うことはないだろう。だから、今は共に楽しく酒を飲もうではないか!」
そう言って酒を飲み干し、酔いしれた。
また、鏡を手に取り、自らの姿を映しながら蕭后に語りかけた。
「この立派な首を、誰が斬ることになるのだろうな?」
蕭后が驚いて理由を尋ねると、帝は笑って答えた。
「貴賤や苦楽は、巡り巡るものだ。それがどうだと言うのか!」
煬帝は中原が乱れていることを見て北に戻る気を失い、丹楊に都を移し、江東を拠点としようと考えた。群臣に廷議を命じると、内史侍郎の虞世基らはこれを良策と評価した。一方、右候衛大将軍の李才は強く反対し、車駕を長安に戻すべきだと主張して世基と激しく口論した。そして門下録事の衡水李桐客は「江東は湿気が多く土地が狭い。内に皇帝を奉じ外に三軍を支えるには人民が耐えられず、いずれ混乱するだろう」と言った。このため桐客は御史に朝政を誹謗したとして弾劾された。
この時、公卿たちは皆、煬帝に媚びて「江東の民は陛下の行幸を待望しております。陛下が江東に赴き民を親しく治めるのはまさに大禹の事業です」と述べた。煬帝は丹楊宮の建設を命じ、都を移す準備を始めた。
この頃、江都では食料が尽き、皇帝に付き従う驍果の兵士たちの多くは関中出身者だった。彼らは長い間遠く離れた土地に駐留して故郷を思い、さらに皇帝に西への還幸の意図がないことを知ると、多くが反乱を計画し故郷へ戻ろうとした。郎将の竇賢は部下を率いて西に逃亡したが、皇帝は騎兵を派遣して彼を追わせ斬殺した。その後も逃亡者は止まらず、皇帝を悩ませた。
宇文兄弟、皇帝を弑逆す
虎賁郎将の司馬德戡は皇帝の寵愛を受けており、驍果の兵を率いて東城に駐屯していた。しかし德戡は親しい虎賁郎将の元禮と直閣の裴虔通に相談し、「驍果の兵士たちは皆、逃亡を望んでいるが、私がこれを報告すれば先に罪を問われる恐れがある。だが、何も言わなければ、事が発覚した後で我々一族が滅ぼされるのも免れないだろう。どうすればよいだろうか。また、聞くところによれば、関内はすでに陥落し、李孝常が華陰で反乱を起こし、皇帝はその兄弟二人を捕らえ、殺そうとしている。我々の家族も西にいるが、このような懸念を抱かずにいられるだろうか」と言った。二人は恐れ、「その通りだ。ではどうすればよいだろうか」と答えた。德戡は「もし驍果が逃亡するのならば、いっそのこと彼らと共に去るべきだ」と提案し、二人も「それがよい」と同意した。
その後、彼らは仲間を次々と誘い、内史舍人の元敏、虎牙郎将の趙行樞、鷹揚郎将の孟秉、符璽郎の李覆、牛方裕、直長の許弘仁、薛世良、城門郎の唐奉義、医正の張愷、勳士の楊士覽らがこれに加わり、日夜結束を固め、広座で堂々と反乱計画を語り合った。これを恐れる者は誰もいなかった。
ある日、官吏が蕭后に「外では皆が反乱を企んでいます」と告げると、蕭后は「奏上するがよい」と答えた。官吏が皇帝に報告すると、皇帝は激怒し、妄言を吐くなと言わんばかりにその官吏を斬った。その後、別の者が再び蕭后に同様の報告をすると、蕭后は「天下がこうなってしまった以上、もう救う手立てはない。何も言わずにおくがよい。陛下を徒に悩ませるだけだ」と言い、それ以降、誰もこの件を口にする者はいなくなった。
趙行樞は将作少監の宇文智及と親しく、さらに楊士覽は智及の甥であった。趙行樞と楊士覽は計画を智及に告げると、智及は大いに喜んだ。德戡らは三月望日(15日)を決行日として西方へ逃亡する計画を立てたが、智及は「主上は道を失っているが、まだ権威は有効だ。卿らが逃亡すれば、竇賢のように死を招くのみである。しかし今や隋は実質的に滅び、各地で英雄が蜂起している。反乱を共にする者はすでに数万人に及ぶ。我々も大事を成し、この機会に帝王の事業を起こすべきだ」と説得した。德戡らはこれを認めた。
趙行樞と薛世良は、智及の兄で右屯衛将軍の許公化及を主とすることを提案し、結束が固まった後に化及に知らせた。化及は生来臆病で、この話を聞くと顔色を変えて汗を流したが、やがて従うこととなった。
德戡は許弘仁と張愷を備身府に送り、知己に「皇帝は驍果が反乱を企てていると聞き、毒酒を用意して宴席で全員を毒殺し、南人だけを残そうとしている」と伝えさせた。驍果の兵たちは皆恐れ、互いにこの話を広めたため、反乱の計画は一層急がれることとなった。
乙卯の日、德戡は驍果の軍吏をすべて召集し、自らの計画を告げると、皆「将軍の命に従うのみ」と答えた。この日、風は荒れ、昼間から暗雲が垂れ込めていた。午後、德戡は御厩の馬を盗み、密かに兵器を整えた。その夜、元禮と裴虔通が直閣の守りにあたり、唐奉義が城門の閉鎖を担当したが、虔通と内通していたため、すべての門は鍵を下ろされることはなかった。
深夜三更に、德戡は東城で兵を集め数万人を得ると、火を掲げて城外の味方と連絡を取り合った。皇帝は火を見て外の騒ぎを聞き、「何事か」と尋ねた。虔通は「草坊が火事となり、外の者が消火に努めているだけです」と答えた。この時、内と外は隔絶しており、皇帝はこれを信じた。
一方、智及と孟秉は城外で千余人を集め、候衛虎賁の馮普楽を脅して兵を分け、街路を守らせた。燕王倓は異変を察知し、夜中に芳林門側の水窓を通って玄武門へ入り、「急に風邪を発し、命が危ぶまれるので、皇帝に面会を求めたい」と偽って謁見を求めたが、虔通らはこれを皇帝に知らせず、燕王を捕らえて牢に入れた。
丙辰の日、夜が明ける前に德戡は虔通に兵を与え、城門の衛士を交代させた。虔通は門を出て数百の騎兵を率いて成象殿へ向かったが、宿衛者たちが「賊がいる」と声を上げたため、虔通は戻り、城門を閉じて東門だけを開放し、宿衛者たちを殿外に追い出した。追い出された宿衛者たちは皆武器を捨てて逃げた。
右屯衛将軍の独孤盛は虔通に対し「何者の兵か、あまりに異常だ」と問いただした。虔通は「事は既に決した。将軍には関係ない。自重して動かないことだ」と答えた。盛は大声で罵り、「老賊め、何を言うか!」と言い放ったが、鎧を着る暇もなく、部下十数人とともに抵抗した末、乱兵によって殺害された。独孤盛は独孤楷の弟であった。
反乱当日の晩、徳戡は宮廷の馬を盗み出し、武器を整えて東城に兵士を集めた。元礼と裴虔通は宮殿内の警備を担当し、城門を開放した。夜中になると、徳戡は数万の兵を集め、城外と連携して火を上げた。帝は火と騒ぎを見て何事かと尋ねたが、裴虔通は「草屋が燃えたので外の者たちが消火しているだけです」と偽った。帝はこれを信じ、何も手を打たなかった。反乱軍は独孤開遠を捕らえたが、その忠義に感じ入り後に釈放した。
これに先立ち、帝は精悍な官奴数百人を選び出し、玄武門に配備して「給使」と称し、緊急事態に備えさせていた。彼らを厚遇し、さらには宮女を賜るほどであった。しかし、この日、司宮の魏氏は帝から深く信頼されていた地位を利用し、反乱側と内通していた。魏氏は偽の詔を発して、給使全員を城外に出るよう命じたため、急な事態の中で玄武門の守備には一人も残っていなかった。
德戡らは兵を率いて玄武門から侵入した。皇帝は反乱の知らせを聞き、服を着替えて西閣へと逃げた。裴虔通と元礼は兵を進めて左閣を押し破り、魏氏が門を開けると永巷(後宮の廊下)へと入った。そして「陛下はどこにいるか?」と尋ねると、一人の美人が現れて指し示した。
校尉の令狐行達が刀を抜き、そのまま進み、皇帝が窓のそばに隠れているのを見つけた。皇帝は行達に向かって「お前は朕を弑す気か?」と問うた。行達は答えて、「臣にそのような意図はございません。ただ陛下に京師に還御いただきたいだけです」と言い、皇帝を西閣から追い立てた。
裴虔通は、皇帝が晋王だった頃に親しく仕えていた者であった。皇帝は彼を見ると、「卿は私の敵ではないはずだ!一体何の恨みがあって反乱を起こしたのか?」と問うた。虔通は答えて、「臣は反乱を起こしたのではありません。ただ将士たちが故郷に戻りたがっており、陛下を京師にお送りしたいだけです」と述べた。
皇帝は「朕もまさに帰りたいと思っていた。しかし、上流から米穀を積んだ船がまだ到着していなかったのだ。今、そなたたちと一緒に帰るとしよう!」と言った。虔通はそれを聞き、兵を配置して皇帝を守ることにした。
夜が明けると、孟秉は武装騎兵を率いて許化及を迎えに行った。化及は震えが止まらず、言葉を発することもできなかった。誰かが彼を訪ねると、ただ頭を垂れ、鞍に手を置いて罪を詫びるばかりであった。化及が城門に到着すると、司馬德戡が迎えに出て挨拶し、朝堂に案内した。そして彼を「丞相」と称した。
裴虔通は皇帝に向かって言った。「百官はすべて朝堂に集まっています。陛下が直接出向いて慰労する必要があります。」そして、皇帝に従騎を進めて強引にそれに乗るよう促した。皇帝はその鞍や手綱が傷んでいるのを嫌い、新しいものに交換させてから乗った。虔通は手綱を握り、刀を腰に挟みながら宮門を出た。賊徒たちは歓声を上げ、地を揺るがすほどの騒ぎとなった。
その時、化及は大声で言った。「刀など持って外に出る必要があるのか?早くそれを元の場所に戻せ。」皇帝が尋ねた。「世基はどこにいるのか?」すると、賊徒の一人である馬文舉が答えた。「すでに首を刎ねました!」
皇帝は引き戻され寝殿に至ると、裴虔通と司馬德戡らが白刃を抜いて立ち並んだ。皇帝は嘆息して言った。「朕は何の罪があってこのような目に遭うのか?」文舉が答えて言った。「陛下は宗廟を顧みず、巡幸を繰り返して止まず、外では戦争に明け暮れ、内では奢りと淫らな生活を極めてきました。そのため、壮年の男性たちは戦場で命を落とし、若い女性たちは無惨にも死地に追いやられました。人々は生業を失い、盗賊が蜂起する有様です。それなのに、阿諛追従する者たちを重用し、間違いを飾り立て、忠告を退けてきました。どうして自分に罪がないと言えるのですか!」
皇帝は答えて言った。「朕は確かに天下の万民を裏切った。しかし、お前たちには官職や恩賞を与えてきたではないか。それでもこんなことをするとは!今日の事態、一体誰が首謀者なのか?」司馬德戡は答えた。「天下が同じ怨みを抱いております。誰か一人が首謀者という訳ではありません!」
化及はさらに封德彝に皇帝の罪状を列挙させた。皇帝は彼を見て言った。「卿は士人ではないか。それでもこんなことをするのか!」封德彝は恥じ入って退いた。
皇帝の愛子、十二歳の趙王杲は皇帝の側で泣き叫び、悲痛の余り号泣していた。それを見た裴虔通が彼を斬り、その血が皇帝の衣服に飛び散った。
賊たちは皇帝を殺害しようとしたが、皇帝は言った。「天子が死ぬ時には作法がある。どうして刃を加えようとするのか!毒酒を持って来い!」しかし、文舉らは許さず、令狐行達に皇帝を地面に押しつけて座らせた。皇帝は自ら練巾を解いて行達に手渡し、それで縊死させられた。
元々皇帝は自らの死を予期しており、毒薬を常に携行していた。そして寵姫たちに向かって「もし賊が来たら、お前たちは先にこれを飲むのだ。その後で朕が飲む」と言っていた。しかし乱が起きた時に毒薬を探したが、側近たちが皆逃げ散り、結局手に入れることはできなかった。
蕭皇后は宮女たちとともに漆塗りの寝台板を剥がして小さな棺を作り、趙王杲と共に西院の流珠堂に埋葬した。
煬帝は巡幸のたびに常に蜀王楊秀を連れて行き、驍果営に囚人として置いていた(かつて罪を問われ庶人に落とされていた)。宇文化及が煬帝を弑した後、楊秀を立てようと考えたが、群臣の反対により実現せず、楊秀とその七人の息子を殺害した。また、斉王楊暕とその二人の息子、燕王楊倓を殺し、隋の宗室や外戚も、老若を問わず皆殺害された。ただし秦王楊浩だけは、普段から宇文化及と親しい関係にあり、策を施して命を保つことができた。
斉王楊暕は煬帝からの寵愛を失っており、いつも互いに猜疑心を抱いていた。煬帝は反乱の報を聞くと、蕭皇后に「まさか阿孩(楊暕の小字)の仕業ではないだろうな?」と言った。宇文化及は部下を派遣して楊暕の邸宅に向かわせて誅殺した。楊暕はこれを煬帝の命令と思い、「どうか少し待ってくれ!私は国を裏切ったことなどない!」と言ったが、賊は彼を街中に引きずり出し、斬首した。楊暕は自分を殺した者が誰かを終始知らぬまま、父子ともども死ぬまで事情を理解することはなかった。
さらに、内史侍郎の虞世基、御史大夫の裴蘊、左翊衛大将軍の来護児、秘書監の袁充、右翊衛将軍の宇文協、千牛の宇文皛、梁公の蕭鉅らとその子も殺された。蕭鉅は蕭琮(後梁の後主)の甥にあたる人物である。
反乱の兆しが見えたとき、江陽郡の長官である張恵紹が急ぎ裴蘊に報告した。そして、恵紹とともに密謀し、偽の詔を作成して郭下(宮城周辺)の兵を動員し、宇文化及ら反乱軍を討ち、煬帝を救出するため門を攻撃しようと計画を立てた。議論がまとまり、これを虞世基に伝えたが、世基は反乱の報告が事実であることを疑い、この計画を押し止めて許可しなかった。そのうちに反乱が勃発し、裴蘊は嘆いて言った。「播郎(虞世基の字)に相談したばかりに、大事を誤った!」
虞世基の親族たちは彼の息子である虞熙に言った。「大事は既に決した。我々はお前を助けて南へ逃げさせたい。ここで死しても無益だ」虞熙は答えた。「父を捨てて君主に背くようなことをして、生きる場所などどこにあるというのですか?父上の心情を思うと、ここで決別する覚悟を固めました!」虞世基の弟である虞世南は、兄を抱きしめて泣き叫び、自分の命を兄の代わりに差し出そうとしたが、宇文化及はそれを許さなかった。
黄門侍郎の裴矩は、必ず反乱が起きると予見し、下僕に至るまで厚遇した。また、精鋭兵である驍果たちに妻を娶らせる策を立てた。そのため、反乱が勃発したとき、賊たちは「裴黄門に罪はない」と言った。宇文化及が到着したとき、裴矩は馬首にひれ伏して迎え入れたため、命を救われた。また、宇文化及は蘇威が朝政に関与していなかったことを理由に、彼も死を免れる事が出来た。蘇威は名声が高く、化及と面会する際には礼を尽くされ、特別な待遇を受けた。
百官たちは朝堂に集まり祝賀を述べたが、給事郎の許善心だけは参加しなかった。これを知った許弘仁が急いで許善心のもとに行き、「天子は既に崩じ、宇文将軍が政務を執ることになった。すべての文武の官吏が集まっている。天の道理と人事は世代交代の理によるもの。叔父上は何故それを拒み、こんな態度を取るのですか?」と説得した。しかし、許善心は怒り、断固として出向かなかった。弘仁は涙ながらに馬に乗って立ち去った。
宇文化及は人を派遣して許善心を自宅から捕らえ、朝堂に連行させたが、一度は釈放した。しかし、許善心は媚びへつらうことなく毅然と振る舞い、そのまま立ち去ったため、宇文化及は激怒して「この男は非常に生意気だ!」と言い、再び捕らえさせて殺害した。許善心の母である范氏は92歳だったが、息子の棺を撫でながら泣くことなく、「国難に殉じた息子を持つことができて、私は幸せです!」と言った。そして以後は食事を断ち、十数日後に息を引き取った。
唐王(李淵)が関中に入ったとき、張季珣の弟である張仲琰が上洛県令として民衆を率いて抗戦を試みたが、部下が彼を殺して降伏した。宇文化及の反乱では、張仲琰の弟である張琮が千牛左右の官職に就いていたが、宇文化及に殺され、兄弟三人は国難に殉じた。この忠節を見た当時の人々は、翻って自らの至らざるを恥じたという。
宇文化及は自ら大丞相と称し、国政全般を掌握した。そして皇后の命と称して秦王楊浩を新たな皇帝に擁立したが、別宮に住まわせ、詔を出し勅書に署名することだけを求め、兵を使って監視させた。化及は弟の宇文智及を左僕射に、宇文士及を内史令に、裴矩を右僕射に任命した。
乙卯の日、秦公であった李世民を趙公に格上げした。
戊辰の日、隋の恭帝は詔を発して、十郡を唐国に加え、さらに唐王を相国に任じて国政を全面的に委ねた。そして唐国に丞相以下の官職を設けさせ、九錫の礼を加えた。
これを受けた唐王は、側近に対して次のように述べた。
「これはただ、阿諛追従する者たちの仕業にすぎない。私が国家の大権を握っている中で自ら恩賞を受けるなど、どうして許されるだろうか?もし魏や晋の例に倣うとしても、彼らは虚飾に満ちた礼をもって天を欺き人を惑わしただけだ。実際には五覇(春秋五覇の事)にも及ばないのに、名声だけは三王(夏の禹、商の湯王・周の武王)を凌ごうとする。私は常々これを批判しており、密かに恥ずかしく思っているのだ。」
ある者が言った。
「歴代王朝が行ってきたことを廃止するわけにはいきません。」
これに対し唐王は答えた。
「堯や舜、湯や武といった聖王たちは、それぞれの時代の状況に応じて異なる方法を取ったが、何事も誠実さをもって天に従い、人心に応えたものである。しかし、夏や商の末期に唐虞の禅譲を真似る必要があるとは聞いたことがない。もし陛下(恭帝)がこのことを理解していたならば、きっとこんなことを承知しなかっただろう。仮に陛下が理解していなかったとしても、私自身が権威を高めて形式的な謙譲を演じるのは、私の一貫した信念に反する行いである。」
ただし、丞相の称号を相国府に改め、九錫は全て返還させた。
宇文化及は左武衛将軍の陳稜を江都太守に任じ、留守役を統括させた。壬申の日には、内外に戒厳令を発し、「長安に戻る」と称した。皇后と六宮はすべて旧来の形式に従い御宮に居住し、陣営の前には別途帳殿を設け、化及はその中で政務を執った。護衛の部隊や組織は、あたかも皇帝の儀仗に匹敵する規模であった。
さらに、江都の住民の船やいかだを強奪し、彭城の水路を使って西へ向かうこととした。折衝郎将の沈光が勇猛果敢であることから、彼を禁内の守備に当たらせた。
顕福宮に至った時、虎賁郎将の麦孟才と虎牙郎の銭傑は沈光と密議して言った。
「我々は先帝から大いなる恩を受けた身でありながら、今や仇に膝を屈して従い、その指揮を受けるとは、何の面目があってこの世に生きていられるだろうか!必ず化及を討つべきだ。たとえ命を落としても悔いはない!」
沈光は涙を流して答えた。
「それこそが将軍に望むことです!」
麦孟才はかつての恩義ある仲間を集め、率いる数千人とともに、夜明けに出発する予定の時を狙って化及を襲撃する計画を立てた。しかし計画が漏れ、化及は夜中に腹心を連れて陣営を脱出し、司馬徳戡らに討伐を命じた。
沈光は陣営内の騒ぎを聞き、計画が露見したことを悟った。そして急ぎ化及の陣営を襲撃するが、すでに空で何も得られず、そこで内史侍郎の元敏に出くわし、彼を非難してから斬った。
司馬徳戡は兵を率いて沈光たちを包囲し、沈光を討ち、彼の部下数百人もすべて戦死した。降伏する者は一人もおらず、麦孟才もまた命を落とした。麦孟才は、かつて「鉄杖」と呼ばれた勇士の息子であった。
一方、武康の沈法興は代々名門として知られ、一族が数千家も連なっていた。沈法興は呉興太守を務めていたが、宇文化及が隋煬帝を弑逆したとの報を受けて挙兵し、「化及討伐」を掲げた。烏程に至るまでの間に精鋭兵六万を集め、余杭、毘陵、丹楊を次々と攻略し、すべてを降伏させた。こうして江南地方の十郡を占領し、江南道大総管を自称し、皇帝の命を受けた形式で百官を設置した。
東国公の竇抗は唐王(李淵)の妃の兄であった。煬帝は竇抗をして長城を巡察するために靈武に派遣したが、竇抗は唐王が関中を平定したと聞くと、癸酉の日に靈武や鹽川などの数郡を率いて降伏した。
夏4月、稽胡(北の騎馬民族)が富平を襲撃した。これに対し、将軍王師仁が稽胡を攻撃し、これを撃破した。また、稽胡の別動隊5万余人が宜春を襲撃したため、相国府の咨議参軍である竇軌が兵を率いて討伐に向かった。黄欽山で稽胡と戦闘が起きたが、稽胡は高所を利用して火を放ち、官軍は一時退却を余儀なくされた。
竇軌は部将14人を斬首し、小隊の将校を抜擢して代わりとし、再び兵を整えて戦闘を続行した。竇軌は自ら数百の騎兵を率いて軍の後方に陣取り、次のように命じた。
「鼓が鳴ったにもかかわらず前進しない者があれば、後ろから斬り捨てる!」
その後、鼓を鳴らすと将兵たちは争って敵に突撃し、稽胡の弓矢もこれを阻むことができなかった。ついに稽胡を大敗させ、男女2万人を捕虜とした。
世子建成らが東都(洛陽)に到着し、芒華苑に陣を敷いた。東都側は城門を閉ざして出撃せず、使者を派遣して説得を試みたが、応じなかった。李密が軍を出して争ったが、小規模な戦闘の後、双方が引き下がった。
城内には内応を試みる者が多かったが、趙公李世民(唐王の次子)は次のように述べた。
「我々は関中を平定したばかりで基盤はまだ固まっていない。遠征軍が東都を占領したとしても、これを守り続けることはできない。」
そのため、攻撃を中止した。戊寅の日に軍を引き返す途中、李世民は次のように予測した。
「城内の者たちは我々が退却するのを見て、必ず追撃してくるだろう。」
そこで、三王陵に三つの伏兵を配置して待ち伏せをした。案の定、段達が万余人を率いて追撃してきたところを伏兵で攻撃し、これを撃破した。李世民は追撃して東都の城下まで迫り、4,000余りの首級を上げた。
その後、新安と宜陽に二郡を設置し、行軍総管の史萬寶や盛彥師に兵を率いさせて宜陽に駐屯させ、呂紹宗や任瑰に兵を率いさせて新安に駐屯させた上で帰還した。
初め、五原通守の張長遜は中原の大乱を見て郡を挙げて突厥に帰属し、突厥は彼を割利特勒に任命した。一方、郝瑗は薛舉に対して次のように進言した。
「梁師都や突厥と連携し、長安を奪取しましょう。」
薛舉はこれに従い、突厥の莫賀咄設(啟民可汗の子)と共に侵攻を計画した。唐王は都水監の宇文歆を派遣して莫賀咄設を説得し、利害を詳しく説明して出兵を止めさせた。さらに、張長遜を唐に帰順させ、五原を唐の領土に戻すよう交渉した。莫賀咄設はこれを受け入れた。
その結果、已卯の日に武都、宕渠、五原などの郡がすべて唐に降伏し、唐王は張長遜を五原太守に任命した。また、張長遜は詔書を偽造して莫賀咄設に送り、その陰謀を見抜いていることを示した。これにより、莫賀咄設は薛舉や梁師都の使者を拒絶した。
戊戌の日に世子建成らは長安に帰還した。
東都では各種の命令も四門の外では通用せず、人々は右顧左眄し、朝議郎の段世弘らは西師(李建成の東征軍)に内応しようと謀った。しかし西師はすでに撤退しており、彼らは人を派遣して李密を招き、己亥の夜に迎え入れることを約束した。しかし、この計画は発覚し、越王は王世充に命じて段世弘らを討伐させ、誅殺した。李密は城内の状況がすでに鎮まったと聞き、そのまま撤退した。
宇文化及は十数万の兵を率い、六宮を占拠し、自ら煬帝のように贅沢な生活を送っていた。彼は帳中で南面して座し、上申する者があれば沈黙して答えず、下牙(近侍の者)を通じて啓状を取り寄せ、唐奉義、牛方裕、薛世良、張愷らと共に審議を行った。少主である浩は尚書省に送られ、十数人の衛士に守らせ、令史に命じて彼の画敕を取りに行かせた。百官は再び朝参することがなかった。
彭城に至ったとき、水路が通じなかったため、再び民衆の車両や牛を奪い、二千両を得て、宮女や珍宝を運んだ。また、武器や甲冑は全て兵士に運ばせたが、道が遠く過酷であったため、兵士たちは次第に不満を抱くようになった。
司馬徳戡は密かに趙行樞に語って言った。
「君は大いに私を誤らせた! 今、乱を収めるには必ず優れた賢者に頼るべきだ。宇文化及は愚昧で暗愚、側には小人ばかりで、事態は必ず失敗するだろう。どうすればよいのか?」
趙行樞は答えた。
「我々にかかっている。これを廃するのは容易だ!」
当初、宇文化及が政権を握ったとき、司馬徳戡に温国公の爵位を授け、光禄大夫を加えた。しかし、彼が精鋭を率いることを理由に、内心ではこれを警戒していた。数日後、宇文化及は諸将を任命して兵士を分配し、表向きには昇進を示すために司馬徳戡を礼部尚書としたが、実際には彼の兵権を奪った。このため、司馬徳戡は憤慨し、得た報酬をすべて智及に賄賂として送った。智及がこれを支持し、彼を後軍の指揮官とするよう取り計らった。
これにより、司馬徳戡と趙行樞は李本、尹正卿、宇文導師らと共に、後軍を用いて宇文化及を襲撃し、彼を殺害した後、司馬徳戡を新たな主として立てる計画を練った。そして、孟海公(曹州に拠る)に人を派遣し、外部からの支援を求めようとした。しかし計画は遅れ、孟海公からの返答を待っている間に発覚した。
許弘仁と張愷がこの計画を知り、宇文化及に報告した。宇文化及は宇文士及を派遣し、遊猟を装って後軍へ向かわせた。司馬徳戡は計画が漏れていることに気づかず、陣営を出て彼を迎え、これを機に捕らえられた。
宇文化及は彼を責めて言った。
「公とは力を合わせて天下を定め、危難を共に乗り越えた。いま事が成就し、富貴を共に守りたいと願っていたのに、どうして反逆を企てたのか?」
司馬徳戡は答えた。
「もとは暗君を殺したのは、その淫虐に苦しんだからだ。そなたを推戴したが、そなたの行いはそれ以上に酷い。やむを得ず反旗を翻したのだ。」
宇文化及は彼を縊り殺し、その一派十数人を処刑した。孟海公は宇文化及の強さを恐れ、兵を率いて牛や酒を用意して彼を迎えた。
辛丑の日、李密の将である井陘の王君廓は、兵を率いて投降してきた。王君廓はもとは群盗であり、数千人の兵を有し、賊の首領である韋宝や鄧豹とともに虞郷に集結していた。唐王と李密の双方が使者を送り招いたが、韋宝と鄧豹は唐王に従おうとした。しかし王君廓は偽って同調するふりをし、油断に乗じて奇襲をかけ、これを破って物資を奪い、李密のもとに逃げ込んだ。だが、李密は彼を厚遇せず、再び唐王に投降した。唐王はこれを受け入れ、彼を上柱国に任命し、河内太守に任命した。
蕭銑、梁の皇帝に即位
蕭銑は皇帝の位につき、百官を設置し、梁の朝廷の慣例に倣った。彼は従父の蕭琮を「孝靖皇帝」と追諡し、祖父の蕭巖を「河間忠烈王」、父の蕭璿を「文憲王」と追尊した。また、董景珍ら7人の功臣を王に封じた。さらに宋王楊道生を派遣して南郡(煬帝が荊州を改名した地域)を攻撃させ、これを攻略すると、都を江陵に移し、陵墓や廟を修復した。
また岑文本を中書侍郎として招聘し、文書業務を任せるとともに、国家の機密事項を委ねた。一方で、魯王張繡を嶺南に派遣して勢力を拡大しようとしたが、隋の将軍である張鎮周や王仁壽らがこれを防いだ。しかし煬帝の暗殺を聞いたこれらの将軍たちは、蕭銑に降伏した。欽州の刺史寧長真も鬱林や始安の地を蕭銑に献じた。
一方、漢陽太守の馮盎は、蒼梧、高涼、珠崖、番禺の地を林士弘に従わせた。蕭銑と林士弘はそれぞれ交趾太守の丘和を招き入れようとしたが、丘和はこれに応じなかった。蕭銑は寧長真を嶺南軍の指揮官として派遣し、海道から丘和を攻撃させた。丘和は出撃してこれを迎え撃とうとしたが、司法書佐の高士廉が説得して言った。
「寧長真の兵力は多いが、遠くから来ているため持久戦には耐えられない。城内の精鋭部隊で十分対応可能だ。どうして相手に怯えて屈服する必要があるのか?」
丘和はこれに従い、高士廉(高士廉は北斉の清川王岳の子・勱の子)を軍司馬に任命し、水陸両軍を率いて反撃した。これにより寧長真の軍を撃破し、長真は辛うじて逃げ延びたが、その部隊はすべて捕虜となった。その後、江都から勇士たちが到着し、煬帝の暗殺の報を得ると、これも蕭銑に従った。
始安郡の副官である李襲志は、梁の名臣・遷哲の孫である。隋末期に家財を投じて兵士を募り、3,000人を集めて郡城を守った。蕭銑、林士弘、曹武徹らが次々と攻撃してきたが、いずれも失敗した。煬帝が暗殺されたと聞いた襲志は、官吏や住民を率いて三日間喪に服した。ある者が襲志に言った。
「貴公は中州の名家の出身であり、長く辺境の地を治めて、漢族も異民族も心服しています。今、隋室は皇帝を失い、天下は混乱しています。貴公の威徳をもって嶺南を治めれば、漢の南越王趙佗のように天下を治めることも夢ではありません。」
襲志はこれに激怒して言った。
「我が家系は代々忠誠を尽くしてきた。たとえ江都が陥落したとしても、皇室はまだ存続している。狂妄で帝位を僭称した趙佗のような者を、どうして真似する必要があるのか!」
襲志はその発言者を処刑しようとしたため、誰も口を挟むことができなくなった。彼は二年間城を守ったが、外部からの援軍がないままついに城は陥落し、蕭銑に捕らえられた。蕭銑は襲志を工部尚書に任命し、桂州総管を兼任させた。
この時点で、東は九江から西は三峡、南は交趾、北は漢川に至る広大な地域が蕭銑の支配下にあり、精鋭兵士は40万以上を数えた。
煬帝が宇文兄弟に弑逆された報が長安に届くと、唐王(李淵)はこれを聞いて激しく嘆き悲しみ、次のように言った。
「私は北面して隋に仕えた身でありながら、その道を失い、煬帝を救うことができなかった。どうして哀しみを忘れることができようか!」
5月、山南撫慰使の馬元規が冠軍で反乱者の朱粲を討ち、これを撃破した。
王徳仁は以前、房彥澡を殺害したが、李密は徐世勣を派遣してこれを討伐した。王徳仁の軍は破れ、徳仁は敗走して、甲寅の日、武安の通守である袁子幹と共に長安の朝廷に降伏した。
朝廷(この時点ではまだ名目上は隋朝だが、唐王李淵が事実上の主権者)は王徳仁を鄴郡の太守に任命した。