二〇二四年ベイベー
おはようございます。
いましも西暦二〇二四年ですか。かつて数多くのSF作品がこのへんの時代を描いたことでしょう。SFをたどると現代で使われているテクノロジーがけっこう出てくると聞く。たとえば音声で遠くの人とやりとりする。四角形の画面に映像が映る。それらは電話とテレビという形で実現された。音声と映像で話すならネット通話である。わりと最近のところでは(それでも数十年前だろうが)筒井康隆がタブレット端末というものを予見していた。おもしろいもんで。AIなら『フランケンシュタイン』があるし、ロボットなら『われはロボット』だろうし。はじめにアイディアがあったのだ。ついでに核戦争なら『博士の異常な愛情』か。
そういうアイディアとかネタとかは欲しいものであって、さて何か書こうというときに書きたいものがないと困る。といって上記のようなSFを書けるわけではないので、何か日常と非日常のあわいみたいなもんをやるとかね、それがあたくしのできることかと。どこかに住む誰かの人生のいくらかの切り抜きというか。純文学やらエンタメやらありますけど、特段事件もない日常を書いててもオーケー、という側面は純文学にはある。ただしそれでもストーリーや人物やできごとにおいて、なんらかの形で刺激があったり新しかったりおもしろかったりしなければならんので、結句ほしいアイディアとはその手の何か、刺激、新しさ、おもしろさのことだった。
誰がいったか知らんのだけど、「チェーホフ以降、作家は書くことがないなどといってはならない」みたいなね、格言がございましょう。うろ覚えなんだけど。あたくしチェーホフ全集を持っているがまだ手つかずであって、果たしてあの作家はどれくらい日常からネタを見つけたものか、その視力のほどは未読ゆえわからんとこではあるけども。ちなみにチェーホフの作品はカート・ヴォネガットの授業で扱われたことがあるらしい。何も起こらないじゃないですか、と文句をいった学生に対して、ヴォネガットはその平和な小説の中にあるいくつものおもしろさ、美しさ、意匠があると指摘して答えたらしい。こうなると読者の感受性の問題も出てくるようだ。
作家の話のついでにヘンリー・ダーガーのことを。ヴィヴィアン・ガールズというキャラクターたちを孤独に書き続けて、そのものすごい枚数の原稿が死後発見されたというちょっとレアケースなダーガー先生ですけど。読んでみたいんだけどやたらと高いのだった。この人のは読めるか読めないか分かれるでしょう。たぶん評価も割れる。おもしろいのかな。買おうかな。
まとまらなくなってきた。二〇二四年これからまだまだ。よろしこ。