断片 酒の毒
昨日は酒を飲んでしまった。これはだいたい三週間ぶりのこと、禁酒をしているはずが、もういたたまれなくなって飲みになった。ウイスキーをロックで、やがてストレートで。アホな飲み方をしていたんですけれども、今日になって様子がおかしい。脳の様子がおかしい。働きがニブい。もやがかかっているような曖昧さ。どうしたことだろうか。血管が切れたか。こうやって頭の働きに害があるのなら、確かに酒の毒というのはあるのだろう。恐ろしいことである。酒をやめてビタミンを摂っていると神経細胞は成長しやすくなります、とは主治医の話。酒なんか飲むもんじゃねえな。
なんとなれば銭の話である。世の中はカネばかりじゃないとはいうが、ほとんどのことはカネである。これは別に意見とか主義主張のことではなくて、おそらくのところ、世の中ほぼカネというのは間違いのない、原理や根本のとこなんじゃねえのというささやかな発見だ。人はメシを食います。メシには値段がついています。従ってその値段のぶんのカネを出してメシを食います。ここだ。メシを食わねば人は死ぬというのに、そこにカネがついて回ってくるのだ。じゃあカネって直接に日々の生存、命に関わるじゃん。いま納得している。そんなの単純にね、カネは大事とか、素朴なお話なんですけれどもね。
こういう断片も八万字ほど書いてきたみたいなんですけれども、まあけっこうな分量、原稿用紙換算で何枚だろうか。字数で把握することに慣れてないのである。だいたい四枚くらいを毎度書いてたはずで、それが五十回オーバーだから二百枚以上になってるのか。すげえな。何やってんだろうな。この情熱を小説に向ければよかったんじゃないのかしら。訓練になるんだったらこれでもいいんだけどもさ。文章修行だ。日々やっていることはうまくなります、の原則。だったらやっぱり小説を日々やってたほうがよかったんじゃねえかなあ。この気楽な書きものをやるのはとても楽しいことなんで、なかなかやめられないんだわ。つい書いちゃうんだわ。趣味は雑文を書くことですと。
マリア・レッドベリのスクリャービンを聴いている。ピアノ曲のボックス。なぜこれを選んで買ったのかは覚えておらず、数年前から手もとにあるが、ipod touchに入れてけっこう聴き込んではいる。スクリャービンは難解なところもあるんだけれども、それでもわからないというわけじゃなく、きれいねえ、と思って聴いていられるこの不思議。いや、やっぱりわからないのか、わからないけどきれい。だがそれも否。きれいだということがわかっているのではないか。美のための、美を表すための音楽があるのだろうことは確かなので、スクリャービンもその種のものなのかね。たおやかにして幽玄なこの響きよ。
欲しい本というのはいつでも出てきますね。こう、襲われるようにして出会う。ときには新聞なんかの広告からわっと飛び出してくるように襲われる。読めと。買って読めと迫られる。仕方なくアマゾンでタイトルを検索し、ほしいものリストに入れる。ネットをやっていても襲われる。ネットなんかやってるんじゃないよと。買って読めと。また検索してほしいものリストへ入れる。そうやって膨れ上がっていく、いつ買うとも、いつ読むともしれないなんらかの集合、なんとかしなくてはいけません。だいたい手持ちの未読の本というのが山ほどあるのだ。そっちからやっていくべきよなあ。個人的な必読書、まだ道のり長く。