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■モーリス・ルブラン:「怪盗紳士の影に生きた作家の生涯」


序章:時代を超えて


 1941年11月6日、第二次世界大戦下のフランス南部、ペルピニャンのサン・ジャン病院。一人の作家が、76年の生涯を静かに閉じようとしていました。世界的に有名な怪盗紳士アルセーヌ・ルパンの生みの親、モーリス・ルブランです。最期の瞬間、息子クロードから最愛の妹ジョルジェットの訃報が伝えられましたが、彼の意識はすでに遠のいていました。
 この死は、一つの時代の終わりを告げるものでした。純文学作家を志しながら大衆小説によって不朽の名声を得た作家の、光と影が交錯する人生の締めくくりでした。


第1章:文学の街ルーアンにて(1864-1882)

恵まれた出自と文学的環境

 1864年12月11日、フランス北西部の港町ルーアン、フォントネル通り2番地。フランス第二帝政末期のこの日、34歳の船主で商人のエミール・ルブランと、裕福な染色業者の娘マチルド・ブランシュの間に、モーリス・マリー・エミール・ルブランは誕生しました。分娩に立ち会ったのは、後の文豪ギュスターヴ・フローベールの兄、アシル・フローベール医師でした。ルーアンという土地柄、フローベール家とは遠い親戚関係にもあり、これは後のルブランの文学的人生に少なからぬ影響を与えることになります。
 ルブランは、三人兄弟の真ん中として恵まれた環境で育ちました。しかし、その平穏は長くは続きません。1870年12月、普仏戦争の勃発により、わずか6歳の彼はスコットランドへの避難を余儀なくされたのです。この早期の異文化体験は、後の作品における国際的な視野の広さにつながっていくことになります。

少年期の文学的素養

 1871年7月、まだプロシアの占領下にあったルーアンに戻ったルブランは、1873年10月からジャンヌ・ダルク大通りのガストン・パトリ寄宿学校で教育を受け始めます。2年後の1875年には、地元の名門「グラン・リセ」ことコルネイユ高等学校に入学。厳格な校風の中で、彼は優等生として頭角を現し、特に文学と人間心理の分析に強い関心を示しました。
 この時期、10代のルブランは地元の誇る作家たち、特にギュスターヴ・フローベールやギ・ド・モーパッサンと接する機会を得ています。ノルマンディー文学の伝統に直接触れることができた経験は、後の彼の文体に大きな影響を与えました。緻密な心理描写や写実的な描写技法は、この時期に培われた素養に基づくものと考えられています。

早熟な文学的感性

 1879年の夏、ルブランは当時まだ新しい発明品だった自転車を入手します。この体験は後の作品『これぞ翼だ!』(1898年)などに影響を与え、彼の作品に特徴的な「動き」や「自由」の表現につながっていきます。当時の自転車は、新しい時代の象徴として、若い世代の間で熱狂的な支持を集めていました。
 実妹ジョルジェットの回想によれば、この頃のルブランは「神経質なほど感受性が強く、会話の際には時折チックの症状を示していた」とされています。繊細な感性の持ち主であった彼は、1881年に文系バカロレアの第一部試験に「可」の成績で合格。最終学年の「哲学級」では特に人間心理の分析に没頭し、この時期の学びは後の作品群に大きな影響を及ぼすことになります。その探究心は、後のルパン・シリーズにおける複雑な心理描写の土台となっていくのです。

第2章:青年期の迷走と模索(1882-1888)

英国での挫折と兵役

 1882年8月、文系バカロレアの第二部試験と数学・物理・自然科学の試験に「可」の成績で合格したルブランは、父エミールの要望により英語習得のためマンチェスターに渡ります。しかし、この一年間の留学生活は彼にとって苦痛以外の何物でもありませんでした。後の自伝的小説『L'Enthousiasme』では、この時期について「この二年間、私は不幸だった」と率直に述べています。
 1883年、自発的にフランスへ戻ったルブランは、11月5日にルーアン市庁舎で「条件付き兵役」に志願します。1500フランを納入することで5年の兵役期間を1年に短縮できるこの制度を利用し、ヴェルサイユの第11連隊(砲兵)に配属されました。

放蕩と文学的覚醒

 1884年11月の実質的な除隊後、ルブランは二年間の抑圧からの反動のように、遊蕩の日々を送ります。劇場、居酒屋、ビリヤード場を渡り歩き、葉巻と酒に溺れ、時には売春宿にも足を運びました。しかし、この放縦な生活の中にも、後の作家としての素養を育む要素が含まれていました。
 特筆すべきは、この時期の旅行好きです。ラクロワ島への訪問や、自転車での「フランス全土踏破」は、後の作品における場所の描写や空間把握の確かさにつながっています。特に、エトルタへの訪問は後の代表作『奇巌城』の舞台設定に決定的な影響を与えることになります。

母の死と人生の転機

 1885年1月27日、敬愛する母ブランシュが41歳という若さで他界します。この出来事は、放蕩の日々を送っていたルブランに大きな転機をもたらしました。遺産相続に伴う親権解除のため、彼は就職を余儀なくされたのです。
 父の伝手により、ルイ・ミルド=ビシャールの機械式梳毛工場に就職することになりますが、これは彼の関心をまったく引かないものでした。この状況からの精神的な逃避として、ルブランは本格的に小説の執筆を始めます。この時期に書かれた習作の多くは出版されることはありませんでしたが、後の創作活動の重要な土台となりました。

第3章:パリ時代の開始(1888-1905)

新天地での出発

 1888年末、ある恋愛スキャンダルもあってルーアンに居づらくなっていたルブランは、パリのモンマルトル、カレ6番地に居を移します。表向きはロー・スクールへの通学を口実としていましたが、実際には文学的成功への夢を追いかけての決断でした。
 生活費は母の遺産から捻出され、1888年12月29日には父から2万フラン、1889年から1890年の間には約7万フランを受け取っています。この経済的な余裕が、彼の文学修業を支えることになります。

結婚と文壇デビュー

 1889年1月10日、ルブランは一歳年下の寡婦マリー・エルネスティーヌ・フランネルと結婚します。同年11月28日には長女マリー・ルイーズが誕生。しかし、この結婚生活は長くは続かず、1895年に離婚することになります。
 この時期、彼は「文芸酒場」として知られていたキャバレー「黒猫」に足繁く通い、多くの文人・芸術家と交流を深めていきます。特にルネ・モロやモーリス・ドネーとの出会いは、後の文学活動に大きな影響を与えることになります。

作家としての苦闘

 1890年3月、リュドヴィック・バシェ美術出版社の「挿絵入り雑誌」に短編「救助」を発表し、商業デビューを果たします。同年11月には自費出版で短編集『Des couples』を刊行しますが、「800フランをかけて1000冊刷ったのに3、40冊しか売れなかった」という惨憺たる結果に終わります。
 しかし、この失敗にもかかわらず、ルブランは創作への情熱を失うことはありませんでした。1892年には著名な作家マルセル・プレヴォーと知り合い、その紹介で「ジル・ブラス」紙のコラムニストとして採用されます。これが、彼の文壇での地位を少しずつ確立していく契機となりました。

第4章:転機と苦悩の時代(1895-1905)

新たな恋と創作の模索

 1895年、マリーとの離婚後、ルブランはマルグリット・ヴォルムセールと出会い、深い関係を築いていきます。しかし、マルグリットには夫エドワール・ウルマンがおり、離婚調停は難航を極めました。この状況は、ルブランの精神的健康に大きな影響を及ぼすことになります。
 マルグリットには息子のクロード・ウルマン(1902-1994)がおり、後に法令によってルブラン姓を名乗ることが認められます。このクロードは、晩年のルブランを支える重要な存在となっていきました。

健康問題と創作の危機

 1899年頃から、ルブランの健康状態は急速に悪化していきます。「ジュルナル・デ・デバ」に掲載された短編小説をまとめた『Les Lèvres jointes』の不振も重なり、彼は深刻な鬱状態に陥ります。1899年10月28日には「消化不良と羸痩のため」兵役を免除され、翌年には「極度の羸痩と慢性胃病のため」完全に兵役義務を解かれる事態となりました。
 しかし、この苦難の時期にも、ルブランは創作への情熱を失うことはありませんでした。ニースやブルゴーニュのプーク=レ=ゾー村での温泉療養中も、執筆を続けていたのです。

文学的模索と実験

 1901年2月、渾身の力作『L'Enthousiasme』をオランドルフ社より刊行します。自伝的要素の強いこの作品に、ルブランは並々ならぬ推敲と努力を重ねましたが、反響は限定的でした。
 この頃から、経済的な理由もあり、それまでの純文学的な創作から、より大衆的な作品へと軸足を移していきます。1901年9月には女性向けファッション誌「Femina」への寄稿を始め、1903年には「ル・プティ・ジュルナル」の付録に中編「シャンボン通りサークルの犯罪」を発表。後にルパン・シリーズの研究者となるジャック・ドゥルワールは、この作品について「その題材はアルセーヌ・ルパンの『犯罪的な』冒険を予感させる」と評しています。

第5章:ルパンの誕生と作家の葛藤(1905-1910)

運命的な出会い

 1905年、ルブランの人生を決定的に変える出会いが訪れます。当時、隆盛を誇っていた雑誌「ル・プティ・ジュルナル」への対抗馬として「Je sais tout」を創刊したピエール・ラフィットが、イギリスの「ストランド・マガジン」におけるシャーロック・ホームズの成功を踏まえ、ルブランに「冒険短編小説」の執筆を依頼したのです。

ルパンの創造と成功

 1905年7月15日、「Je sais tout」第6号に発表された「アルセーヌ・ルパンの逮捕」は、予想を超える反響を呼びました。しかし当初、ルブランはルパンの続編を書くことに強い抵抗を示しています。「強盗は投獄されているんですよ」というルブランに対し、ラフィットは「脱獄させろ」と応じ、「続けろよ。フランスのコナン・ドイルになれるんだ」と説得を重ねました。
 「大衆」小説作家に転じることを嫌がるルブランの宿泊先を、ラフィットはほぼ毎日訪れ、「文学的な小説を書くだけでいい」と繰り返し頼み込みました。結果、経済的な理由もあり、ルブランは続編を書くことを決意。この決断が、彼の人生を大きく変えることになります。

ホームズとの邂逅

 1906年6月、「Je sais tout」にシャーロック・ホームズを登場させた「遅れてやってきたシャーロック・ホームズ」を発表。しかし、これはコナン・ドイルからの抗議を招き、以後、ホームズの名は「ハーロック・ショルメス」に変更されることになります。この出来事は、ルブランとドイルの作家としての立場の類似性を象徴するものでもありました。両者とも、大衆小説での成功に複雑な思いを抱えていたのです。

第6章:名声の確立と内なる闘い(1907-1920)

商業的成功と社会的認知

 1907年6月10日、ルパン最初の書籍『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』が出版されます。初版は2200部という控えめな部数でしたが、版を重ねるごとに人気は高まっていきました。ラフィットへの献辞には「君は、自分では決して挑戦しようと思わなかった道に僕を導いてくれました」という、複雑な思いが込められていました。
 1908年1月17日、文芸家協会における功績により、レジオン・ド・ヌールのシュバリエ章を受章。同年の『ルパン対ホームズ』の出版も大きな反響を呼び、ルブランの社会的地位は確固たるものとなっていきます。

戯曲への挑戦と葛藤

 1908年秋、演劇作家フランシス・クロワッセとの共作で戯曲「ルパンの冒険」を執筆。この四幕物の舞台は10月28日の最終リハーサルから爆発的な人気を博し、長期公演となりました。しかし、この成功の陰で、ルブランの内なる葛藤は深まっていきます。
 「ルパンが私の影なのではなく、私がルパンの影なのだ」という有名な言葉は、この時期に発せられたものです。1910年の『813』では、ついにルパンを自殺させるという極端な選択をします。これは、コナン・ドイルがホームズをライヘンバッハの滝に落としたのと同様、創造主による主人公への一種の反逆でした。

ジャンルの多様化

 この時期、ルブランは意識的にルパン以外の作品も手がけていきます。歴史小説『国境』(1911年)、モーパッサンの影響を受けた短編集『ピンクの貝殻模様のドレス』(1911年)などを発表。特に注目すべきは、SF的要素を含む作品群の執筆です。 
 『三つの眼』(1919年)では金星人とのファーストコンタクトを描き、『棺桶島』(1919年)では放射性物質「神の石」をめぐる壮大な物語を展開。『ノー・マンズ・ランド』(1920年)に至っては、未来社会を舞台にした大胆な想像力を見せています。これらの作品は、ルブランの創作の幅広さを示すと同時に、純文学作家としての野心の表れでもありました。

プライベートの充実

 1906年1月31日、長年の恋人マルグリットとようやく正式な結婚が実現。新居はクルヴォー通り8番地のアパルトマンの6階でした。1918年には、エトルタに木骨造りのアングロノルマン様式の家(後のクロ・ルパン)を購入。この地で19の長編小説と39の短編小説を執筆することになります。
 この時期のルブランは、若い頃の急進的社会主義者としての立場から、より穏健なブルジョワ的価値観へと移行していきました。第一次世界大戦の経験は、彼の政治的・社会的な見方に大きな影響を与えたと考えられています。

第7章:円熟期から晩年へ(1920-1941)

ルパンとの和解

 1920年、『アルセーヌ・ルパンの帰還』でルパンを復活させたルブランは、徐々に自身の作家としての立場を受容していきます。「ルパンとの出会いは事故のようなものだった。しかし、それは幸運な事故だったのかも知れない」という言葉には、長年の葛藤を経て到達した境地が表れています。
 この時期、ルブランは新しい試みとして探偵ジム・バーネットを主人公とする作品群を発表します。しかし、後にバーネットの正体がルパンであることが明かされる展開は、ルパンという存在の持つ強大な磁力を象徴するものでもありました。

文学的評価の確立

 1930年代に入ると、それまで大衆小説家として見られがちだったルブランへの評価に変化が現れます。『ラ・レピュブリック』紙のフレデリック・ルフェーヴルは、彼を「今日の偉大な冒険作家のひとりである」と評し、「同時に純然たる小説家、正真正銭の作家である」と高く評価しました。
 この時期のルブランは、恋愛小説『裸婦の絵』『青い芝生のスキャンダル』なども執筆。さらに1935年には『赤い数珠』の舞台化『闇の中の男』が大成功を収めるなど、多彩な創作活動を展開しています。

文学的遺産の形成

 ルブランの創作活動は、後世の文学に大きな影響を与えました。まず特筆すべきは、キャラクター造形における革新性です。アルセーヌ・ルパンという紳士泥棒の設定は、当時としては画期的なものでした。それまでの文学作品において、泥棒は基本的に否定的な存在として描かれてきました。しかし、ルブランは高い教養と洗練された作法を持ち、時に正義のために働く魅力的な「悪役」を創造することで、新しいヒーロー像を確立したのです。
 また、ルブランの功績として見逃せないのが、ジャンルの境界を積極的に越境した点です。推理小説の枠組みの中に、ファンタジー的要素やSF的な展開を大胆に取り入れました。例えば『三日月島』における放射性物質「神の石」や、『緑の瞳の娘』に登場する若返りの泉など、現実離れした要素を巧みにストーリーに織り込んでいます。この手法は、後の大衆文学に大きな影響を与えることになります。
文体面での貢献も重要です。フローベールから受け継いだ緻密な描写力と、モーパッサンの影響を受けた鋭い心理描写を基盤としながら、そこに軽妙洒脱なユーモアを加えることで、独自の文体を確立しました。この高度な文学性と読みやすさを両立させた文体は、後世の作家たちに大きな影響を与えています。

最後の日々

 1939年、ナチス・ドイツとの戦争が迫る中、ルブランは愛着のあったエトルタのクロ・ルパンを離れることを余儀なくされます。南仏のペルピニャンに避難した彼は、そこで最後の作品『アルセーヌ・ルパンの数十億』(1939年)を執筆します。
 やがて1941年11月6日、肺うっ血を一因として、彼は76年の生涯を閉じました。その死の直前、最愛の妹ジョルジェットの訃報が息子クロードから伝えられましたが、すでに意識は遠のいていたといいます。

終章:不滅の遺産

現代に続く影響力

 ルブランの影響力は、彼の死後も様々な形で継承され、発展を続けています。特に注目すべきは、アルセーヌ・ルパンというキャラクターが持つ普遍的な魅力が、時代や文化の違いを超えて受け継がれている点です。1967年に日本で誕生した「ルパン三世」は、原作の設定や雰囲気を現代的に解釈し直すことで、新たな魅力を生み出すことに成功しました。さらに2021年にNetflixで制作されたドラマ「ルパン」は、現代のパリを舞台に、ルパンの物語から影響を受けた主人公の活躍を描き、世界的な反響を呼びました。
 また、ルブランの作品が持つ文学的価値は、現代の研究者たちによって再評価され続けています。特に、彼の作品に見られるジャンル横断的な特徴は、現代文学における「ハイブリッド性」の先駆けとして注目されています。推理小説とファンタジー、冒険小説とSFといったジャンルの融合は、現代の作家たちにも大きな示唆を与えています。
 さらに、ルブランの作品は観光資源としても重要な価値を持っています。エトルタに残る「ルパンの隠れ家」は、年間を通じて多くの観光客を集める文学記念館となっています。特に『奇巌城』の舞台となった岸壁に設置された暗号の展示は、文学と観光の融合という新しい可能性を示すものとなっています。モンパルナス墓地にある彼の墓所も、文学愛好家の重要な巡礼地となっています。
 このように、ルブランの遺産は単なる文学的影響にとどまらず、大衆文化や観光業にまで及ぶ広範な影響を及ぼしています。彼が確立した「知的な娯楽」というコンセプトは、今日のエンターテインメントにも大きな示唆を与え続けているのです。純文学と大衆文学の架け橋となったルブランの功績は、現代においてますますその価値を高めていると言えるでしょう。モーリス・ルブランの遺産は、今日も様々な形で生き続けています。

エピローグ:二つの文学の架け橋として

 モーリス・ルブランの生涯は、「純文学」と「大衆文学」という二項対立を超えて、真に優れた文学とは何かを問いかけています。当初は純文学作家を志しながら、結果として大衆小説によって不朽の名声を得た彼の軌跡は、文学における価値の本質を考えさせるものです。
 ルブランが遺した最大の功績は、高度な文学性と大衆的な娯楽性を両立させた点にあります。彼の作品は、時代や国境を超えて読者を魅了し続け、今なお新たな解釈と創造を生み出す源泉となっているのです。その意味で、モーリス・ルブランは、20世紀フランス文学における最も重要な架け橋の一つとなったと言えるでしょう。彼の人生と作品は、文学における真の価値とは何かを、私たちに問い続けているのです。


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