【徒然日記】論理や言葉に拘る人ほど… 2014/04/23
論理や言葉に拘る人は、すごく頭でっかちで、論理が全てと思っていて、感性とか言葉にできないものを軽視してると周りから思われがち…
実際、僕自身もそういう風に言われることが多いし…
でも、僕は全く逆だと思うけどなぁ…。論理や言葉に拘って大切にしてる人ほど、その限界をすごく感じているし、直接言語化することが、どれだけ情報が減衰させるか知ってる。。。
世の中、論理や理屈では説明つかない混沌と矛盾だらけだし、言葉にした方がよいもの/言葉すると意味が著しく減衰するもの•変わるもの/物語などで間接的に伝えた方が伝わりやすいも/言葉にしない方がいいもの…そーゆーものが本当にぐっちゃに入り混じってる。
全ての事象や感情は、その場、その時、その環境で起こっており、発信側、受け手、体調、機嫌、環境、音、空気、気温、雰囲気、時代、関係性、経験、過去、状況、時間、、、あらゆる無限のものが影響して発生している。
言葉は、それを本当に限られた切り口で限られた情報だけ抜きとって表現するもの。当たり前だけど、正確に表現できるわけがない。しいていえばこんな感じという程度。でも拘る人は諦めない。少しでも1mmでも誰かに起きた事、考えた事、感じ事を正確に伝えようと必死だからこそ、表現に拘るのだと思う。そんなの伝えらるわけがないと諦めるのは簡単。。。
これが数学や音楽や絵や写真だと頭でっかちだと言われない…それがすごく不思議。ただ表現手段が違うだけなのに…。僕は音楽の美しさも数学的な美しさも、絵も写真も、言語や論理の美しさも、同じにしか見えないけどなぁ…。
言語や論理を含むあらゆる表現は、それ自身は本質ではなく、手段でしかない。それは表現に拘る人ほど苦労してる分、きっと痛感していると思う。
ただ本質じゃないから、どーでもよいかというと、そうではない。現象や感情を上手く捉えたり、自分が何を考えているかを理解したり、アウトプットとして形にし、他の人に伝えたり、コミュニケーションに利用したり、、、表現とは、そういうことを支える強力なツールであり、フレームワークだ。
人は自由度が高すぎると、逆に何も出来なくなってしまう生き物だ。だからこそ、フレームワークという枠(制限)を使うことで、物事を捉えたり、思考を整理したり、アウトプットしたりできる。言語というツールがなければ、人は思考すらできない。
論理や言葉に拘る人は、頭でっかちなわけではなく、論理が全てと思っているわけではなく、感性とか言葉にできないものを軽視してるわけではなく、実は全く逆で、あくまで論理や言葉は手段で、大切にしているのは感性とか言葉にできない本質。本質が大事だと思っているからこそ、それを捉えようと、理解しようと、表現しようと必死だし、拘るんじゃないかなと思う。