INTELLIGENCE episode Ⅱ
《送信者:外事一課=真庭 享 行確対象者=蔡俊傑(通名=高梁俊英)に関するレポート 受信者:外事一課=釘宮 圭一》
警備局外事一課に所属する釘宮圭一は、同じく外事一課に所属する真庭享によるある行確対象者に関するレポートを赤坂にあるホテルニューオータニのラウンジでコーヒーを飲みながら読んでいた。
まだまだ蒸し暑い気候はこの先も暫くは続きそうだが、ホテル内の空調は勿論のこと、ラウンジの巨大なガラス窓から眺めるニューオータニの美しい日本庭園が東京の現在の気候を少し忘れさせてくれていた。
釘宮はこのニューオータニにて、ある人物と会う約束をしていた。
その前に、部下から送られてきたレポートに目を通しておきたくなったのだが、ある意味に於いては想定の範囲を大幅に超える内容に読んだことを少し後悔していた次第である。
釘宮はオプティシアンロイドの黒縁のスクエアフレームの眼鏡を指で少しずらしながら、果たして使えるのだろうか?と声には出さずに頭の中で呟いた。
ラウンジに面した通路の方に待ち合わせている者の気配を感じ、そちらに目を向けると先方もどうやら此方を視認したようだ。
ゆっくりと釘宮に近づくと、向かいのソファーに深く腰掛ける。
ウェイターが来ると、アイスコーヒーをオーダーした。
「外はまだまだ暑いね。」
「すみません。お呼びだてしまして。」
「かまわんよ。君に呼び出されて断る奴なんて、余程の怖いもの知らずか、只の馬鹿だ。」
「いえいえ、そんな…。」
「まぁ、君にはさんざん世話になったからな。感謝しとるよ。」
「今回は何の相談かな?わしに出来ることかの。」
「勿論署長にしか出来ない事です。」
「今我々外事一課は、この国の国防というものをintelligence及び、counter intelligenceの観点から来るべき二十一世紀に向けて大幅に変えようと試みています。」
「最早、東西冷戦も遠い過去の話になり、これからは益々隣国即ちロシア中国は勿論のこと、北や韓国、東南アジア各国、中東各国を相手にした諜報・防諜合戦が勝負を分けることになります。」
「オウムの地下鉄サリン事件などはカルト教団による国内テロ事案でしたが、これから先何時あのようなテロ事案が海外テロリスト主導によって起こってもおかしくはありません。」
「国ごとに、一課や二課だと対応する部署を分けている場合ではありません。CIAやMI-6などは世界中の主要国及び主要都市に拠点を置き日々"攻め"の諜報活動を行っております。」
「そうだな…。ましてやFBIやMI-5が国内をしっかり視た上でのことだからな。(1990年代では米国のFBIは現代のようなCIA的な活動実績があまりなく、国内での活動が主であったとされている。) 日本国内ではせいぜい我々新宿署と警視庁捜査一課ぐらいなもんだ。」
「署長もご承知の通り、警察組織も決して一枚岩ではありません。」
「これこれ、いくら釘宮君でも滅多なことを言うもんじゃないよ。ここはホテルのラウンジだ、誰が聴いているかわからんよ…。」
「ご心配恐れ入ります。ただ、個室にしなかったのは署長についていた追尾者を切る為と、盗聴を避ける為です。通常都内の有名ホテルには一課の者も二課の者もおりますが、ほぼ一課の人間になるスケジュールに合わせて今日という日を選びました。先程のウェイターも、エントランスでラウンジを案内したベルボーイも、ロビーの通路で会釈をしたクラークも全て数ヵ月、場合によっては数年前から潜り込ませている一課のagentです。」
「さすがは釘宮君だな、用意周到じゃ。」
「恐縮です。」
「それはそうと、本題は何なのかな?」
「前置きが長くなりました。」
「実は、先日の西新宿駅近くの中国エステのオーナーと中国人女性の失踪事件、新宿署と本庁は殺人事件として捜査方針と捜査範囲を改めて動くという情報が入って参りました。」
「うむ…。相変わらず筒抜けじゃな。」
「我々の専門分野ですので…。」
「確かに初動は殺人の疑いがあったものの、帳場は失踪事件として立ったからな。」
「うん…?まさか、捜査を中止しろとでも言うのかね?」
「それなら、本庁の人間に言うのが筋なんじゃないかな?」
「いえいえ、その逆です。」
「どういうことだ…?」
「捜査一課長や管理官をはじめ捜査陣の皆さんには、凶悪な殺人犯による殺人事件として大いに力をふるって頂きたいと思います。」
「さすがは日本の刑事警察です。いや、さすが新宿署と捜査一課と申しておきましょう。歌舞伎町から突然姿を消した中国人二人を只の失踪事件として扱う程、歌舞伎町を"シマ"にしている刑事達の眼は甘くありませんね。」
「買い被らんでくれ、何が言いたいんだ釘宮君…。」
「言葉の通りです。犯人逮捕に全力をあげてください。」
「ただ…。」
署長と呼ばれている男のアイスコーヒーのグラスを持つ手が微妙に震えている。
喉が渇いているのか、残っていたアイスコーヒーを一気に飲み干した。
「犯人を捕まえることは恐らく出来ません。」
"恐らく"とつけてはいるが、釘宮の話し方には自信が見てとれた。
「どういうことかね?」
「我々は中国エステのオーナーである男と中国人従業員である女が殺害されたことも、またその二名を殺害したと思われる"殺し屋"なる人物の素性についても把握しております。」
「何だと?」
「そして、これからある広域暴力団の組長以下全員がこの"殺し屋"なる人物によって恐らく跡形もなく消されます。」
「なんと…。」
快適な空調である筈のホテルのラウンジで、署長と呼ばれている男はだいぶ後退した額に浮いた汗をハンカチで拭った。
「その広域暴力団とは先程の中国エステのケツモチの組ですので、捜査員全員が直ぐに中国人二名の失踪事件との関連を疑う筈ですが、やはりここでも犯人に辿り着くことは出来ないのです。」
「さすがに歌舞伎町のヤクザが組ごと消滅してはただ事で済む筈がありません。」
「そこで署長にお願いがあるのです。」
「私にどうしろと言うんだね…。」
周囲を窺い、自然と声が小さくなる。
「捜査の進展状況に合わせ、適当な頃合いを見計らって我々が"犯人"に辿り着けるよう"道筋"を用意します。署長は捜査員全員がその"道筋"に沿って捜査が進展していくよう、やんわりと導いて下さい。大丈夫です、捜一の課長や管理官が好みそうな"筋"を用意しておきます。」
「そっ、そんなことが…。」
「その犯人というのは、まさか…。」
「さすが署長、筋読みは衰えてませんね。此方からはっきりしたことは申し上げられませんが、ご想像にお任せします。」
「それからこれからする話は、今お話した事案とは全く別の話としてお聞き下さい。」
釘宮は深く腰掛けていたソファーから少し身を乗り出すと、眼鏡を触り低く静かだが良く通る声で話し始めた。
「ある事件がきっかけで精神を患った台湾人男性のダブル(二重スパイ)がいます。恐らくこの男がいかなる凶悪犯罪を犯そうとも精神鑑定は免れません。この男には故郷に重度の障害をかかえた妹がいて、我々外事一課も法の許す範囲内でかなり手厚い援助をして参りました。」
「署長、頃合いを見計らって私に連絡を下さい。手筈は整えます。」
「釘宮君、君は…。」
「署長へのお願いは以上です。署長は"筋"の通り捜査員を導いて下さるだけで結構です。よろしくお願い致します。」
「釘宮君、君は一体何を企んでいるのだ…。」
「本日はお暑い中を有り難うございました。」
釘宮はそう言うとウェイターを呼び、慣れた感じでチェックを済ませた。
二人が居るテーブルにフロントの直ぐ傍にある花屋から花束が届く。
「署長、もうすぐ奥様のお誕生日でしたね。よろしくお伝え下さい。あと、今年は石心亭の方にお席を御用意させて頂いてます。奥様、娘様と三人でごゆっくりお過ごし下さい。」
「…。」
署長と呼ばれている男は釘宮からは一生逃れられないのだと、この時改めて悟ったのである。
「いつもすまないね…。有り難う。」
釘宮はラウンジを出ると、赤坂見附方面出入口に向かう通路を歩き出した。
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