INTELLIGENCE episode Ⅰ
2000年2月14日。前日からの大雪で真っ白に染まったJR富山駅前ロータリーに、一台の黒塗りのセダンがダークスーツに身を包んだ四人の男達を乗せて停車していた。
男達は日本語ではない何語かを話し数分後、運転席に一人を残して三人の男達が車から降りていった。白い息を吐きながら、観光客や富山駅周辺に勤務する通行人とすれ違う。
三人の男達は周囲に警戒の目を配りながら、予め決めてあったそれぞれの配置についた。
たった一人の日本人を拉致拘束し、その者が所持している筈のある機密文書を手に入れる為入念な下調べをし、完璧な計画を立て、今日の実行に至ったのである。
「朴、準備はいいな?」
三人の中で一番改札口に近い場所で手帳を開きながら携帯電話を耳にあて、仕事中を装っている金邪趙(キム・ジャチョル)が聞いた。
「いつでもいい。」
朴は短く答えた。
PM1時35分、JR京都駅0番線ホームから出発したサンダーバード(雷鳥)が到着すると、数名のビジネスマンや観光客が降り、ロータリー側の改札口に向かう。
京都出張を無事に終えた株式会社ユニバーサルテックジャパン開発室長である梶井重政も、部下の雨音香織と戸塚浩司と共にロータリー側の改札口に向かった。
「戸塚君、雨音君、まだ時間もあるし寒いから蕎麦でも食べていくかい? 冷たい駅弁だけじゃ物足りないだろう。」
「はぁ。」
戸塚はそれほど腹は空いてなかったが、せっかくの上司の気遣いに生返事を返してしまったことを少し後悔し、同僚の雨音香織の顔をちらりと見て、視線で"君はどうする?"と訴えかけた。
雨音香織は"梶井室長が食べようと言ってるのは、改札口横にある立ち食い蕎麦でしょ?ちょっとそれは勘弁。駅ビルのレストランかカフェに入りたいわ。"
と言わんばかりに表情に否定の色を濃くさせて、戸塚の顔をじっと見つめた。
「梶井室長、まだ時間もありますんで、そこのホテルのラウンジか駅ビルのレストラン街でゆっくりされてはいかがでしょう?」
戸塚は梶井の顔色をうかがいながら、自分はどちらでもいいのにと思いながらも雨音の希望と形の上での上司への気遣いを両立させる為、そのように提案した。
「そうだね、寒いしゆっくり暖まるとしよう。」
梶井達三人は改札口を出ると、左側のホテルや駅ビルがある方へ進もうとした。
「俺、ちょっと煙草買ってきます。」
戸塚はそう言って、二人から離れて直ぐ近くの売店に行き、マルボロのボックスを二つ買って二人の元へ戻ろうと振り向いた時だった。
梶井の右前方から歩いてきた背の高いスーツ姿の男が、梶井のブリーフケースを手刀で落とし、そのまま梶井の右腕を後ろ手にして引き寄せ拘束した。
そして梶井の右後方から現れた別の男が、梶井のブリーフケースを素早く持ち上げようとした時、その男の腕に衝撃と共に激痛が走ったのである。
ブリーフケースを持ち上げた方の肘に、男の左背後にいた雨音香織が蹴りを入れ、膝立ちになった男の背後を取り左手を締め上げながら男の頭に銃を突きつけた。
「Don't move!」
雨音香織は銃を突きつけている男にではなく、梶井を拉致した金邪趙の眼を見ながら言ったのである。
金邪趙は動きを止めたが、何も言わなかった。
非常に落ち着いた表情で目の前で起きた状況を冷静に受け止めている様子である。
雨音香織の方がさらに続けた。
「ウンジギジアンゴー、ニッリッヴィジシ」
韓国語とロシア語で"動かないで"ともう一度言い、相手が韓国系ロシア人の国際テロリストだと把握していることを金邪趙に伝えたのである。
「俺のことを知ってるのか?日本語で大丈夫だ。」
金邪趙はゆっくりと静かに、流暢な日本語で答た。
煙草を買い終えて振り向いた戸塚浩司は煙草を買う前と、買った後に見た光景の違いに状況がよく飲み込めず、呆然と立ち尽くしているかのように見えた。
雨音香織に捕らえられている男"ウブフラスカヤ・コシャンスキー"は、自分の肘に蹴りを入れすぐさま後ろ手にとった体術と、一瞬見えた突きつけられた銃がサプレッサー付きであった為、只の日本の刑事ではないと判断し抵抗するのをやめたのである。
サプレッサー付きということは、銃を撃ち、仕留め、周囲に気付かれないことを前提にした銃である。
"こいつは女であっても、何の躊躇いも無くトリガーを弾く。"
コシャンスキーの表情からも、金邪趙はその事を理解した。
「少姐(シャオジエ)、そいつを撃っても構わない。だが、もし撃ったらこいつの喉をかき切って、お前も殺してそこにあるブリーフケースは俺が頂く。」
金邪趙は、見知らぬ若い女性に道を訊ねるかのような柔らかい口調でそう言った。
雨音香織の表情は変わらないが、雨音香織の腋の下を幾筋かの冷たい汗が流れた。
いつの間にか、金邪趙の手には鋭利な刃物のような物が握られている。
「あなたがその男を殺さない限り何もしないわ。その代わり、何かした瞬間あなた方二人を必ず撃つわ
。」
雨音とコシャンスキーの後方を通行人に紛れて歩いてくる男がいた。
そして、その男の後を気配も無くついてくる男がいる。
コシャンスキーを取り押さえている雨音に静かに近寄り、雨音の左脇腹に蹴りを入れようとした朴鄭南(パク・チョンナム)は、全く気配も無く背後をとられた男に軸足を払われバランスを失って右肩から落ち、右側頭部を通路に強打した。
「うぅ…。」
朴鄭南は、"一体何が起きたのだ?"と考えることも出来ぬまま、工作員としての能力を失う状況に陥った。
朴鄭南の動きを封じた男は、朴の腰にある中国製トカレフを改良したヘイシンを抜きコートの内ポケットにしまった。
「"K"その男を捕まえたまま、少しずつ後ろに下がって行け。」
雨音にそう言いながら、男は金邪趙の頭部にSIG(シグザウエル)P226の照準を合わせた。
「フッ、昼間から物騒だな。日本のIntelligenceは特殊部隊が持つような銃を普段から持ち歩いてるのかい?」
やはり流暢な日本語でそう言うと、その直後に梶井の背後から雨音に向けて金邪趙は銃を撃ったのである。
梶井を盾にしたような格好なので、朴の動きを封じた男も金邪趙を撃つことが出来ない。
金邪趙が撃った弾丸は雨音の右肩の三角筋に近い箇所を吹き飛ばし、雨音は右肩を失ったような衝撃に耐えながら銃を持った右腕を地面につき身体を支えた。
コシャンスキーは締め上げられていた左腕を身体の回転を利用しながら雨音の左脇腹を三発殴り、そのままマウントをとった態勢になって頭部への打撃を試みたが、雨音が頭を大きく振ってかわしたのでコシャンスキーが前のめりになったところを雨音の膝が二発、コシャンスキーの下っ腹と股間に命中した。
コシャンスキーの短い呻き声と共に雨音のマウントに態勢が逆転したのである。
雨音は間髪入れず、左拳でコシャンスキーの顔面を地面に叩きつける様に殴打した。
数発殴打された後、コシャンスキーは完全に意識を失い、雨音の左拳と地面の間で頭部が何度かバウンドした後は表情を無くしてぐったりしたのである。
この間に、つい先程までは俯瞰で見ると三組の人間を頂点とした三角形の真ん中辺りにあった梶井のブリーフケースは梶井の身体を盾にみたてた金邪趙が手にしていた。
金邪趙に向けられたSIG P226の銃口は、一瞬たりとも金邪趙から逸れてはいない。
朴鄭南とウブフラスカヤ・コシャンスキーの二人を戦闘能力として失ってまだ尚、金邪趙の優勢は変わらないとSIG P226を構えた男と、右腕が使い物にならない雨音は冷静に判断していたのである。
金邪趙が発砲してから、まだ一分と経っていない。
警察に通報があったとして、捜査員が到着するのは凡そ二分後。
金邪趙はそこも考えて梶井本人にブリーフケースを持たせ、背後からいつでも二人を撃つことが出来るという状態でロータリーに待機させていた車に梶井と共に乗り込み、猛スピードで大雪の舞う富山駅前を後にした。
このJR富山駅で白昼堂々起きた事件の直後、駆けつけた制服警官や捜査員に自分と雨音香織の身分を告げ、この事件はspecial assignmentの事案だと報告し富山県警に事件処理を要請したのは、警備局外事二課所属の深沼輝明(元在英日本国大使館一等書記官)である。
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