TEDDY BEAR PROJECT
1999’-2005’AND2008’
2008年4月編集 edit by April 2008’
Kiss(Japanese Gospel) lyrics: Tsuyoshi Nagabuchi,
Truth on the back side at horrible throw into the fire 真実の裏側で惨たらしく焼き捨てられ
Love was behind Bud’ secretly and abominable 愛が身仏の前で ひそやかに忌まわしく
I’ll could be passion on fire even if dying 我 情念の炎に死なん
As lonesome for falling sleep 孤独気に眠りに落ちても
Figure was pity life was slip away 姿哀れみ 命落としても
My justice at love river flow by awful 私の正義は 愛の河を凄まじく流れ
Just now Goddess’s uterus dwells in 今 女神の子宮に宿る
Rave and Rang Ten thousand star’s racing through under galaxy
猛りよどめく幾千万の星 駆け巡る銀河の下
By no means stand tall with victory 決して勝ち誇りそびえ立つ
Don’t be afraid in evil mind 邪悪に恐れてはいけない
Please never give up at living for you 諦めないで生きるのだ
Everything’ take away from me I’ve got for thee 全て私から奪って構わないから
Now we’d kissed to your eyelid 今 君の瞼に口づけた
Bluely white moon’ sank below 青白い月沈めば
Soon after there are come pitiful heart やがて苦おしき心に
Morning light throw to everyone’ 何人にも朝の光
Society be fiction Society void to me 世を偽り 世に捨てられ
Far off and acquaintance far-off-place 遥か見知らぬ 異国で
Brake down lives have played at there swallow tragedy life
行き倒れ 餌食になりとて 飲み込め無言の悲劇の人生など
Together Small only play only play ささやかに ただ ただ 祈れ
はじめに
■ 親愛なる 皆様・・・
1999年私達はタイ国チェンマイ県とパヤオ県を訪問しました. ミレニアムを迎えた世界は,日本とタイでは大きな格差がありました.それらはAIDSに焦点を遭わせて見つめることを目的としました.
その時,私達はタイ北部に於いてカウンターパートを探すことと,特に死にそうなAIDS発症患者と逢わなければなりませんでした.
日本では、1998年免疫機能障害者は身体障害者認定を受けています.HAARTもありました.
一方,タイ国では2000年時点ARTは存在しなかったのです. またタイ政府による社会保障や生活保護など存在しません.
それらは継続的な支援を目的とするため, あげる ことではなく 助け逢う give and take を目指しました. 収入増進プログラムという道を選んだのです.
詳細はこのドキュメントが中で説明していますが,2000年~2002年はパヤオ県とチェンマイ県の一部の女性達,コミュニティーに縫製技術を教育しました.
2002年~2004年は課題が増え,行わなければならない作業は多岐にわたりました. 縫製技術移転 日本商品販売 タイ国内販売 タイ国AIDS状況詳細調査 患者勉強会
調査/研究 などです.
タイ国では2002年~2003年頃,大きな転換期を迎えました.
まず,高額なART薬をタイ保健省は特許を外すため,カクテル薬を一剤に纏めてしまうという 素晴らしい発想のもとART薬を作り上げたのでした.
(日本の方々の為に・・・この一剤GPO-virは多くの命を救いましたが,発売当初,副作用が強く「頬が扱けて死神になる」「顔がお化けになる」など患者達は,美を取るか命をとるか,かなり悩んでいました.)
また,裁判において命の平等を勝ち取ったのです. 我々のプロジェクトも2003年を境に微妙な変化を見せましたが,変わらないものもあり続けます, それは、弱者(PHA 貧困層)は生活費の半分が必要なART代金に今も(2008年現在)困っているということです.
今では,一年に一回程度現地を訪問し,利潤を手渡すこと/現地確認を行っています.
この報告書を公表することは, 始まり かも しれません・・・
敬具 御机下様
テディベア参加者 一同
政治/経済 Souse 在タイ日本国大使館
http://www.th.emb-japan.go.jp/
気候 熱帯モンスーン気候(雨期:6月〜10月、乾期11月〜5月)
当Projectに於いてThai北部・東北部が該当地域であったが,ChiangMai県市内その近郊Phayao県は1月〜3月は日本にも類似した秋 初冬が存在している.特に山間部は非常に冷え込みが厳しくまさしく冬を迎える特殊性を持ち合わせる.しかしながらバンコクでも秋を少しだけ感じられる.
(面積 51.4万平方キロ(日本の約1.4倍)
人口 約6,282万人(うちバンコク約570万人)
民族 大多数がタイ族(うち南部4県はマレー系民族が大多数)
宗教 大多数が仏教徒(上座部仏教)。憲法で信仰の自由を規定 日本人において仏教と聞くと日本と同様な感覚を覚えるが,この上座部というルーツは全くかけ離れた(日本の大乗仏教と比較し)流儀であり誤解は避けたい.
言語 タイ語 Thai北部の山間地帯で今もなお伝統を受け継ぎ生活している少数民族においては,その限りではない.独自の言語とThai言語においても‘なまり’がある.
教育 6.3.3.4制(義務教育は小学校6年間及び中学校3年間) 近年において教育制度は確立されたが30-40代の中間年代層には小学校のみの教育しか受けていない市民が多数存在しており,またその上の高齢者に於いて識字率は低い.Project参加者に於いても識字不可能な参加者が存在していた.
2008年加筆分
タイ国のHIV薬剤関係の最新の動きが記載されたログと共に・・
タイ政府は2006年11月29日,HIV/エイズの主要治療薬であるエファビレンツへのアクセスを改善するため,強制実施権を発動すると初めて発表した.国境なき医師団(MSF)は,この重要な動きを歓迎するとともに、他の必須医薬品の製造についても同様の強制実施権を発動するようタイ政府に要請する.
世界保健機関(WHO)がHIV/エイズ治療薬として推奨するエファビレンツは、タイ国内では現在、特許で保護され独占的状態にあるため、供給量が少なく安価にならない。特許を保有するメルク社がタイで設定している同薬の価格は1ヵ月あたり1500バーツ(約4700円)であり、これはインドのジェネリック薬メーカーの設定価格である1ヵ月あたり800バーツ(約2500円)のほぼ2倍である。さらに、メルク社はタイで同薬を供給できないことがこれまで何回もあった。
タイで活動するMSFのデビッド・ウィルソン医師はこう述べる。「メルク社のエファビレンツ供給は信頼できず、治療の中断を引き起こし、中には次善の策である2剤併用療法に切り替えることを余儀なくされた病院もあります。」
今回の強制実施権はエファビレンツの輸入と国内生産に適用される。タイは公営の医薬品製造事業体である政府製薬機構(GPO)を通じて、ジェネリック版エファビレンツの独自生産能力の開発を進めており、国内生産は来年から始まる見込みである。同時に、強制実施権により、ジェネリック版エファビレンツをインドから輸入できるようになる。その結果、同薬のコストはこれまでの半分に低下するとともに、安定した供給を確保するための調達手段の拡大につながる。
推計によると、タイでは現在、少なくとも1万2千人がエファビレンツを必要としているが、薬価と供給量の問題から、実際に同薬を服用している患者の数はこれよりかなり少ないと見られる。
■ジェネリック薬生産は、タイにおける共通HIV/エイズ治療プログラムの要になっている。ジェネリック薬の生産開始以前、タイにおける標準的なHIV/エイズ治療費は、患者1人あたりで1ヵ月3万3330バーツ(約10万6千円)を超え、治療を受けている患者はわずか3千人に過ぎなかった。タイは2002 年にHIV/エイズの3剤併用療法に用いるジェネリック薬の生産を開始し、その結果、治療費はそれまでの18分の1に減った。このお陰で現在、8万5千人のHIV/エイズ感染者が治療を受けている。国連合同エイズ計画(UNAIDS)の報告によると、エイズ治療を必要とする人びとの半数以上が実際に治療を受けている国は、東南アジアではタイだけである。
WHOは2005年8月に、また世界銀行は2006年8月に、治療薬に対する耐性や毒性が生じた場合、患者はより高価な新薬に切り替える必要があることから、タイにおける治療薬のコストは大幅に上昇するだろうとそれぞれ予測している。両機関はまた、「TRIPS協定*と公衆衛生に関するドーハ宣言」に明記された公衆衛生セーフガードの活用を勧告している。
ウィルソン医師はこう述べる。「タイ政府は、製薬会社の特許権よりも患者の命を優先する必要があることを明確に示しています。この政策はエイズ治療薬のロピナビル/リトナビルなど、高価で供給が不足している他の必須医薬品まで拡大されることが必要です。ロピナビル/リトナビルは現在1ヵ月あたりで7千バーツ(約2万2千円)もかかり、タイでは余りに高価なのです。」
*知的所有権の貿易関連の側面に関する協定
■主要経済指標 GDP 7.81兆バーツ(2006年)(日本の約23分の1)
一人当りGDP 3,136ドル(2006年)(日本の約13分の1)
2,707ドル(2005年)
2,479ドル(2004年)
■経済成長率(実質) 5.0%(2006年)
4.5%(2005年)
6.3%(2004年)
7.1%(2003年)
■消費者物価上昇率 4.7%(2006年)
4.5%(2005年)
2.7%(2004年)
1.8%(2003年)
■ 失業率
1.5%(2006年)
1.8%(2005年)
2.1%(2004年)
2.2%(2003年)
■最低賃金 191バーツ/日(バンコク、07年1月改定)
(従来184バーツ)チェンマイ近郊は180バーツ前後 パヤオ県においては農業労働者が多く最低賃金を厳守している雇用主は少ない.
■総輸出額 1,282億ドル(2006年)
* 主要輸出品 コンピュータ、自動車・部品、集積回路、エチレン(2005年)
* 主要相手国 1.米国、2.日本、3.中国、4.シンガポール、5.香港(2006年)
■総輸入額 1,260億ドル(2006年)
* 主要輸入品 原油、機械・部品、電気機械・部品、鉄・鉄製品(2005年)
* 主要相手国 1.日本、2.中国、3.米国、4.マレーシア、5.UAE(2006年)
Greeting □
* ごあいさつ
帖佐 徹 医師
記 2002年 (所属2002年現在)
TeddyBearProject 3年間の軌跡
国立国際医療センター国際医療協力局
JICA中国予防接種事業強化プロジェクト
帖佐 徹
私は1998年2月、JICAのタイ国エイズケア・地域ネットワークプロジェクトのリーダーとして、北タイのパヤオ県に赴任しました。パヤオ県はタイでも最もHIV感染率の高い所で、感染者(PHA)の窮状は想像を絶するものでした。当時は、PHAに対する社会経済的支援も、多剤併用療法(HAART)も、日和見感染症治療すらも存在しなかったからです。何をすればいいのか皆目判りませんでした。そのころ、AZTと粉ミルクを用いたHIV母子感染予防がたった一つのPHAへの保健医療サービスとして開始されました。プロジェクトとしては、これをブレークスルーとするしかなかったのですが、それでもこれで救われるのは子供だけであり、母親に医療的メリットはなく、子供はやがて孤児になる運命が待っていました。何か別のインプットが必要だったのです。
それでも萌芽はありました。孤独と社会的隔離の中で生きてきたPHA達が次第にグループを形成して互いに支えあうようになってきていたのです。その中でも、母親や女性達のグループはとくに結束が早かったようです。このグループが経済的に自立することが出来れば、自分達自身の健康の面倒をみることもでき、ひいては子供の面倒も長くみることが出来るようになるだろうと考えたのでした。
当時、タイには有名なPHAのためのホスピスともいうべきお寺がありました。すべて一般の人の喜捨で成り立つこの活動は偉大なものでありますが、100万人に達するタイのPHAがアクセスできるものではありません。公共的な支援も、この膨大な人数をカバーできるものではありません。「自立」はキーワードだったのです。
現在プロジェクトは新しいフェーズに入っています。タイで長く連携した、PHAグループは、今度は本当に「自立」しなければならないからです。いつまでも投入を続けることは出来ません。ビジネスのノウハウを技術移転してきましたので、彼らのがんばりに期待したいところです。
タイのPHAを取り巻く環境は、ここ1年で劇的に変化しました。PHAの誰もが努力すれば、HAARTすら手の届く価格になってきました。プロジェクトの始まった頃は遠かった道程も、ずいぶん近いものになりました。そしてプロジェクトは新たなカウンターパートも加えて、ともに歩き始めています。
記 2002年11月
2004年記載
本報告書を手に取られた皆様、
ここには、テディ・ベア・プロジェクトの4年間の軌跡がまとめられています。その努力の結実をご精読いただければ幸いです。
テディ・ベア・プロジェクトは2000年、「日本-タイHIV感染者ネットワーク」として開始されたものです。タイのHIV感染者をめぐる当時の情況は、今よりはるかに厳しいものでした。政府の政策は予防中心で、HIV感染者に対するケアの優先順位は低かったのです。抗HIV療法(ART)は高価で、公的に支援されていたのは、母子感染予防に要するAZT投薬のみであり、一般のHIV感染者がARTへアクセスすることは、ほとんど不可能でした。それだけでなく、農村や貧困層における医療保険が整備されていない当時の情況では、対症療法すら受診が困難でした。周囲には差別や無理解が存在しており、職も得られず、生活は厳しく、HIV感染者に対する当時のこの情況は、「捨てられた人々」と形容できるかもしれません。
これらの被害を最も深刻に被っていたのは、HIV流行地の北タイの女性たち、とくに夫から感染し死に別れ、子供を養育しなければならない母親たちでした。テディ・ベア・プロジェクトは、まさにこの人口層を対象に開始されました。その中心となった谷川氏は、その卓越した縫製技術を元に、社会的に自立していた先駆的なHIV感染者の方です。縫製技術と販売ノウハウを北タイの女性たちに伝承することによる経済的自立、それによるARTへのアクセス、およびその過程での正しいHIV治療の知識普及が、プロジェクトの骨子でした。
それから4年、HIV感染者のケアの世界的な情況は大きく変わりました。エイズ・結核・マラリア国際基金が設立され、WHOは3X5プログラムを開始し、製薬会社はコピー薬生産や価格ディスカウントに合意し、ARTへのアクセスは極めて現実的なものとなっています。タイにおいては、「30バーツ・ポリシー」など貧困層への医療保障も充実してきており、無料のART提供も実施されています。テディ・ベア・プロジェクトの目指したものは、発足当時は夢想とも思われたのですが、4年の歳月を経て、ようやく現実的なものとなりました。その先見性こそ評価されるべきものと考えています。
しかし、HIV感染者のケアにとって、ARTの無料提供は最大の問題でしたが、最後の問題ではありません。北タイのHIV感染者は、ARTへのアクセスが改善されても、決して安価でない民間療法を選択することがあります。ARTに対する知識も充分ではありません。副作用によって、ドロップアウトするケースも見られます。医療サービス提供側の説明責任が充分に全うされていないケースもあるようです。すなわち、薬のみでは達成できない「質の高い医療」へのアクセスは、いまだ未解決の問題なのです。
HIV感染者側からみて、「質の高い医療」とはどんなものなのでしょうか。さらには、HIV感染者の自立と、社会生活はどのような将来像をもっているのでしょうか。その回答は、この報告書において、アンケート分析により明らかにされると信じます。そしてテディ・ベア・プロジェクトの経験が、より貧しい国、より流行が深刻な国への、HIV感染者ケアの指標となることを、望んでやみません。
■ 木島 知草 がらくた座主宰
2002年期
ガラクタ座人形劇主宰
-HIV/AIDSとの共生を伝える語部として全国を巡業する。-
木島知草
1999年12月のことでした。私自身は日本でのメモリアルキルトの語り部として人形劇紙芝居と共に教育や医療の場で「自らの問題としてHIV/AIDSを伝える」啓蒙活動に年間100ステージを全国巡業する中で、やっと私の中に現地を訪れる力が沸いてきたのが2001年の春でした。
私は別な立場から彼女達と女性同士として又、ほとんどの女性達が夫を病気で失った私と同じ未亡人で子供を抱え生活をささえなければならい・・・・・。
~という共有でいるものを感じ彼女達の胸に体当たりで飛び込みました。~(私も谷川さんと同様「情」で動く性格なのです。)
そのコミュニティーの子供達を集めて人形劇をしたりAIDS孤児の施設へも出向きBABYキルトや人形、楽器などを届けたり人形劇をしたりして何度かの訪問をするうちに実感をもってこの活動を共に支えていく役割を感じることが出来るようになりました。言葉以上のハートが通じるようになり彼女達がTeddyBear作りを通して生きる力を前向きに獲得している姿も感じ取れましたし自らの病気に対する知識や治療法を相談できる場をもち孤立せず社会参加して生きて行こうと踏み出す大きな一歩をTeddyBearProjectが後押しし切り開いていると思うことができました。踏み出しさえすればTHAI女性達のパワーは見事なものがあり彼女達自信でアイディアを出しやっといきたいという欲求もでています。今後はその意欲をどういう方向に向けその収益や使途を間違わないように平等にコミュニティーの一人一人の健康を守り病気の治療に役立つシステムを彼女と共に作り上げていかなければならぬ段階へと来たのです。一筋縄ではいかぬ活動の中でいつもTeddyBearProjectが大切にしてきたことは常に正直であること間違いも、つまずきもメンバーみんなで分け合い話し合い目に見える効果がすぐに上がらぬようにみえてもこのプロセスそのものの中に確実に人々がつながり命を輝かせたりしてきた時間があり作品もどんどん上達し生まれていることを確認しあいながらあくまでもシステムや形だけを作り上げることにばかりとらわれて荒削りになったり日本側の考えの押しつけやタイPHAの人々の気持ちや要望や本当の自立への方向に向いていないような活動にならぬように常に現場を歩き聞き取りをして報告をすることを心がけてきました。自らがPHAであり体調を整えながらここ3年間の3分の2はタイに滞在しその体験を通して現地の情報をリポートし,行きつ戻りつ辛いことの多いこの活動から逃げずに彼女達と共にあろうとする姿を私は個人的にも姉のような存在として又活動の同士としてこれからも私の出来る限りの力を出して共にこのプロジェクトと歩みたいと思うのであります。
記 2002年11月
■ 2004年記述
プロジェクト日本支援者
木島知草
私がHIV/AIDSを胸の深いところで自らの問題として受け止めたのは1990年のことだった.それはAIDSで倒れた人々を追悼する・記録する一畳大の布‘メモリアルキルト’との出逢いだった.感染経路も問わず国も超えて,赤ん坊も母親も男も女もセクシャリティーも,すべてを分け隔てなく平等な一人一人の人生の歴史として,HIVに感染しAIDS発症で命を失った人々の尊厳を伝える一枚一枚の布に,ショックと共に大きな気付きをもらった.まさにその時,世間は情報に躍らされAIDSパニック ‘差別と偏見の渦巻いている’ 状況だった. そんな時 メモリアルキルトは私に ‘私達の命を無駄にしないで’ ‘あなたにとってHIV/AIDSは決して他人事ではないのよ,本当に人を愛するってどういうことなの?’ と強く胸をノックしたのだった. その存在に出逢った時が私の人生の大きな転機となった.私は既に1973年から人形劇で全国行商の旅芸人として暮らしてきた.子供から大人まで様々な教育現場や施設によばれて自分の表現である人形劇を届けていた.
でも1990年秋から私はこの人形劇の場にHIV/AIDSの語り部としてキルトの存在を伝え社会に起きているHIV/AIDSに対する他人事の意識に問いかけを始めたのだった. きっと10年後にはHIV/AIDSは目の前の問題になるに違いない.
あなたの大切な ‘子供’ そして私にもいる子供の現実の問題になると直感していた.我が身も私のつれあいも(彼はすでに1998年秋,結核の後遺症で亡くなっている)HIV/AIDSは身に迫ることだった.私達は輸血もしていたし夫婦になる以前の何人かとの恋人とのSEXもあった.私は過去幼い頃性暴力を受けていた.そして青春時代,性に溺れた未熟な若者の一人でもあった.私自身の人生を振り返り,正直に語りながら周囲の人々にHIV/AIDS 性=個=人権 として ‘差別している場合ではないこと’ ‘自分のこととして考えること’ ‘子供達の将来の性感性症の現実として考えてほしい’ と訴えてきた. その叫びや訴えを人形劇や紙芝居・身体遊び・キルトの語り部という表現にして,全国巡業に歩き回った15年だった. そんな自分の草の根の活動の中でPHAの人々と出逢った.
たとえ薬害という社会的被害者として,裁判を起こしている人でさえも名を上げられず隠れて生きて行かなくてはならない日本の現実. そして性感染症の一つしてHIV/AIDSは,この15年の旅の中で‘ひしひし’と広がり続けて行ったのだった. 今私自身の活動は全国120カ所,特に教育現場で若年層の人々にやっと届けられるようになってきた. それでも社会全体の意識は非常に低いと感じている. 子供達の命を守る為に性のタブーを乗り越えて,伝えるべき力は未だに弱きマイノリティの立場である.
このプロジェクトを日本で支援し谷川氏らの活動現場をみるためにタイに訪れた時,すでに私は未亡人であり娘を女一人で育てる身でもあったから私なりにタイ国のPHAの女性達と共有できる精神があった. 小さいながらも底力になりたいと今も谷川氏と試行錯誤を重ねながら粘り強く支えあって来たつもりだ. すぐに効果があがる物ではない. タフな精神力と実践力がいる. そしてタイで出逢った ‘女達’ の逞しさ –ある種のしたたかさ—に アジアの仲間として学ぶべきことがたくさんあった. 私自身.この語り部を続けながらHIV/AIDSと共に生きる人々にどれだけ鍛えてもらったか・・・はかり知れない.必ずこの地道な活動を見つけてくれる人がいる.多くのHIV/AIDSに関わる方々に読んで頂きたい.
私もアジアの一人の女なのだと・・・誇りを持って生きていこうと思う. 現地で頑張る女達へエールを送り続けます.
佐藤正喜
バーンラック財団ディレクター
■ 2004年記述
4年間を振り返って・・・
1999年以前からタイ王国にあるホスピスを数カ所数回訪ねたことがある.なんとなくこのような状況でいいのかな?と感じていた頃. ホスピス支援でなく,もっと地域に根ざした活動を目指してやろうというProjectがあるということを知り,自分でもいろいろ考えていた時期で関心がありこのProjectに加わることとなった.
AIDS感染者への協力を経済的側面からというアプローチから始まったこのProject. まず現金収入をどうやって手に入れるかが,中心的な活動となり,そのためには女性達がある程度やりやすい縫製の基礎知識からはじまり,商品開発/
訓練から始まり,オリジナルな製品を造り出せる迄になった.ついには,独自の店舗を開店するところまでこぎつけた. しかし収入はある程度出て来たが,肝心の陽性者へ保健サービスについての面で,当時は薬剤はともかく高く一人の薬剤を確保できるのも覚束ない状態だった.せめて定期的な検診はきちんと受けて欲しかった. ただProjecthaはパヤオ県のチェンカム郡チェンマイ県メーリム郡内のサルワンの地区と拡大していったが,なんとなく確信が持てないでいた時に,ある女性に出逢った.彼女はかなり最初の頃からProjectに参加していたのだが,彼女は縫製など好きではなく自分でトッラクも運転し話を聞くとロータスデーパートメントの前で携帯電話を使った具体的な収入確保を現に実現しているのだった. 丁度プロジェクトも商品をタイ国内・日本国内で販売できる目処がある程度できつつあった. 次の段階の薬剤についての学習会の話しが提案されていた.
‘私達外部の人間’? が収入増進を手取り足取りやって行く事ではなく,彼女らの知恵で携帯電話で収入を得る知恵を彼女らは持っているだということを学んだ.
収入を何とか手に入れる方法は,自分の手で手に入れた方が良いに決まっている.
後日談であるが私達がある程度縫製Projectから手を引くようになって,リーダのやり方・管理に納得出来ないグループも出来たがなんと私達が最初から手伝ったグループ,別れたグループともに独自の販路を確保して?事業は立派に継続していたのだった. それを見ていろいろあったしこちらの?至らないところもあったが,陽性者がともかくも自立して活動していることに対して,ともかく嬉しかった. だからこそ次は陽性者が本当に薬剤の必要性を自ら知り自発的に投薬していけるようにしたら,状況はかなり違ってくると思い始め,収入増進Projectも良いけれど,それより陽性者による薬剤の学習会の必要性を強く感じた. 1999年12月薬剤について非常に高価なもので話題にすらのぼらなかった. 2004年7月,5年の歳月が流れパヤオ県チェンカム郡の陽性者グループに薬剤学習会の打ち合わせに行ったら ‘既に薬剤を投与していたり’ ‘知識を得ていたりした’.
ただし病院や医師・看護婦からの一方的な情報でもっと多方面な情報やら,お互いの情況/情報交換など,お互いが学びあう必要性を強く感じ,学習会の開催の意義にも手応えを感じ帰ったことを思い出す. このような先駆的なProjectに少しだけでも関わったことを 大切にしたい.
テディベア-プロジェクト3年間の歩み
バーンラック幼稚園(在タイ国)
代表 佐藤正喜
1999年の12月からの調査に始まり、丸三年になる。
突っ 走っては大きく転げたり、時には遅々として進まなかったりと、「紆余曲折」が多々あったが、何とか続いて来ている。
何とか続いていると一言で書いたが。このプロジェクトは何とかどころか、少々手前味噌的な感はあるが、時代を先取りしてきたのでは密かに自負している。
日本のPHAとタイのPHAが対等にプロジェクトに関わる、このような形のプロジェクトは多分非常に少ないケースと思われる。健常者?だけの思惑で進むプロジェクトとは、プロジェクトの発想から実際に現場で活動からして違っているのではないかと思っている、その中で健常者?も多くを学ぶことが出来ると思っています。
エイズの問題は「経済問題」であるという認識のもとで、ともかくタイのPHAの収入増進にはどうしようかということで縫製の技術移転に始まり、製品を市場に出せるまでになった。
このことに対しては今後も側面援助は続けていくが、市場の問題、製品の向上とか、きちんとしたビジネスのセンスを駆使して行くのは大変と思うが、彼ら自らが自立し、テイクオフしてくれるように願うし、このようなことが具体的な「自立」と言うことだろう。
どうやって薬を確保し、PHAの「健康管理の維持していくか。収入の増進と同時に、薬に対しても取り組みもしてきたが、3年前は遠い出来事のように思われた。タイ人の月平均収入の3倍もの金額が必要であったから、薬の有効性を説いても夢 物語を話しているようだったと思う。現在は何とか普通に働けば手に入れられる金額に近づいてきている、但し地方のPHAにとってはまだまだハードルは高いが、これはグループを作って基金・互助組合のような形でやっていける目途はついたのではないかと思っている。このことは我々のプロジェクトは説いてきていた。
というように時代・問題を先取りして我々のプロジェクトは進めてきたと勝手に自己評価している。
我々の「やってきたことがすべて正しいとは思っていない、」常に口にしていることは失敗の事例も公開しようと、今までのプロジェクトの評価を行い、多くの人たちに情報を公開し、意見を聞きつう次ぎのステップに進みたいと思っています。
記 2003年 2月
■ Shadow eye □2008年追記
タイ王国を斬る-------様々な視点から,様々な見方と共に
在タイ30年になろうとする氏が見た タイ王国 その違和感
佐藤 正喜
2006年にクーデターが勃発した.
そして2007年12月に民意を問う選挙が行われた.
この一連の政権交代に対して,非常な違和感を覚えた.なぜならば政権をとっていたタクシン政府、これを倒した民主化勢力-軍部の両方の側に違和感を持った.
以前のクーデターは大義名分のような--何か‘我’を--感じさせるものがあったが、今回の政変は、タクシン政権にも違和感を感じていたが、民主化の側軍部の側にも違和感を覚えた.
またこの2008年の選挙で民意を問うといった選挙の結果すら違和感を強めるだけだった..
南タイで教育関係公務員らと話す機会があり,いろいろリサーチしたところ,南部タイはタイ国の他地方と違って圧倒的に民主党が強い.2004年の総選挙の時タクシン政権はこの南タイを自分の側に引き寄せようと必死だった.移動閣議をトラン県元首相のチュアン氏の地盤でやったり、3代続いた民主党支援の地元の有力者を自党から立候補させたりなど,大々的な事前の選挙運動を行った.
この選挙は民主党への票が大分流れるのでは?と,この時に話を聞いたタイ公務員達も思ったという.でも結果は全国的にはタクシン側が圧倒的に勝ったが、南タイは惨敗だった.
このことからもタイ国の選挙は民意なんか反映していないのでは?という結論を強く抱いた.
またバンコクに住む,インテリ層/中間層は確かに進歩的で民主化を受け入れられる人達であると思うが,これまた‘地方のことは何も知らないといっていい位関心がないのだ’.政治・選挙には関心がある,でも地方の状況はほとんど知らないし,知ろうともししないし,知る必要がないのかもしれない.
この人たちが政治を語るが-‘それは抽象的な政治でしかない’.
だからタクシン氏をはじめ政治家の現実的な対応が地方の人たちには受けるし,受け皿がある.
タクシン政府は確かに民衆受けする政策をとった.
30バーツスキーム医療についても財源問題など懸念されたが,6年間どうにか財源を破綻させることなく来たには来たが,何か民衆受けすることが目的で‘タイ国をどのような国にするのかの政策については非常に希薄に感じていたと思う’.
経済的な積極策をとり,外国からの投資を呼び込むような事に腐心していたし,現にクーデター後は日系・外資系企業が政権が変わり,政策が変わることに対しての懸念をしているのが常態だった.
しかし、確かに経済政策が少し内向きだったが,クーデター政権下においても,投資の件数など少し減少傾向であるが投資金額などは減ってはいない.
ずっと以前に聞いた話であるが,20年ほど前,国際的な調査でタイ国の就学率が東南アジアの隣国よりも低く,国としての面子をつぶされたこれを契機に就学率は高くなった.福祉政策についても,なかみよりも他の国との比較とかを気にしているように思う.
したがって制度と法的なことでは整備されて来ているが、実質的な運用となるといささかどうでしょうか?
‘憲法も非常に立派な条文のものが作られる,それでも最終的には超法規のような形をとらざるを得ない様な状況に持ち込む’.
でも、確かに30バーツ医療といい障害者のリハビリテーション法といい社会保険の整備といい以前に比べてはるかに進んできていると評価すべきだろう.
そしてこの情報を知っている人,知らない人.
これらの政策の恩恵を受ける人と受けない人の差は縮まったと見たい.
■ タイ王国 衝撃とともに・・・女達は?
桜だ しきぶ
冒頭から少しずれているかもしれないが,タイ国を著すある事例を告白したい.私は任期中ずっとオーキッドタイ航空を利用していたが,私はずっと知らぬまま女性として登録されていた(笑)航空機の席は隣に男が座ったことがない.ある日所用でタイ国際航空に電話をかけたら,Are you men?と聞かれ あんたは女で登録されてるわよ!—と言われ ‘私は女で登録されてたのね’と気付いた次第である.察して頂きたい パスポートのSEXが性ではないわけである.セキュシャリティーとは・・・こういう国なのである.さて本題・・・
タイ王国に於いてNGO/CBOを行った在任期間中タイのAIDS界は激動の瞬間だった.赴任当初は治療は全く機能しない中,ただ死んで行く人々を無気力感と共に見送るしかなかった.省略するが,タクシン首相が30Bスキームを始め,タイ保健省はジェネリック薬を生み出し(これはThai PHAが起こした裁判勝訴が大きく関与)これでタイPHAの問題は解決されると思われたが・・・社会制度自体がまだ未熟なタイにおいて薬剤の全額自費出費や無保険者のための30Bahtスキームでは,根治治療はしてもらえない/入院などの長期療養は自費出費などの多くの問題が残されていた.しかしながら,タクシン政権が全盛期の2003’タクシン自ら‘海外支援はいらない’と明言している.
タクシンは偶然にもタイ北部/東北部の出身者であり,お金持ちに優しい国----である,タイ国において大衆層,貧困・中間所得層には絶対的な人気を誇っていた.政策が弱者に優しいのである.しかし皺寄せはインテリ層高額所得者層に露呈していた1999’—2005’であっただろう.30代-40代のタイ人友人によくこんな質問をした. What do you feel now Thai government? その答え達は Better well, now Thai police checking so heard maybe Thai better well more than now, Good everything change now Thai grow などと言った全く普通の一般市民がタクシン政権を好意的に見ていたと思う(インテリ層は私の友達には居ません涙).しかし特筆すべきは,タクシン首相はタイ国内に多数企業を展開しており,特に大手の携帯電話会社の会長/社長である.今回の一連のスキャンダルも頷ける.
が・・・しかし タイ王国のクーデターは日本にも速報で流され大きな衝撃を世界に与えた.20世紀は社会主義・共産主義 ベルリンの壁崩壊・ソビエト連邦の失脚など,‘ある価値観’が通説となった.ミレニアムにおいては人権と環境も一つのキーワードである.日本で流されたタイからの報道は 国家元首 ‘国王’が軍部の策略者と密談し民意で公選された首相不在中のクーデターを引き起こしたことを顕現化した映像だった.
国会とは民意の議論の戦いの場である.それらを無視し、ある権力が折角築き上げた議論達を瞬時に0にしてしまった.タイ国民が皆口にする ‘タイ王国には階層が存在する・・・’ 権力は民意ではない・・・君主 軍部 公安/警察 et al である. 果たしてこれでタイが成長したと言えるであろうか?
折角前回のクーデターより歴史を重ね議論を重ね築き上げた民意達を・・・この件に関して日本の識者達はテレビ報道において‘この状況は許しがたい’と酷評していた.
また近年において日用雑貨の裏を見て頂きたい,タイ製となっている物が非常に増えている.対貿易輸出入においても日本とタイの関係は非常に緊密であり,その歴史も古い.そして中国製品に関して安全性が懸念されている ‘今’ 最も新しい報道は ‘中国産がタイ国産にシフトへ’ である. 経済的に見て日本企業の大事な国であることは間違いはない.
ただ・・・忘れてならないのは,今回のクーデター後の暫定内閣は決して弱者には優しくないであろう・・・
私達が共に過ごして来た,子供を抱え自らHIVと闘う ‘女’ 達に逆風がふいていることには間違いない.しかしながら女は強い、特にタイ国はアジア地域を対象とした女性の社会進出度の調査においては常に上位またはトップだ・・・ 自国の文化を守り築き上げて来た女達の底力に期待し
ある一部の人間達で文化を創ることは不可能である.地域に根ざした風土は,常にそこに暮らす大勢の人々によって造り出されることは ‘真実’なのだから.
そしてはっきりさせばければならないだろう・・・1990年前後---社会的に無計画にThaiからThaiへのトランスミッション/エビデンスはないと首相自体が拒否していた頃,感染した彼女達は完全な社会的被害者である.私は知っている.タイの男がどんな価値観を持っているかを・・・特に田舎に残る忌まわしき風習は女達を ‘今’ 苦しめている. そして日本 日本にはAIDSにも2Ways 存在する.どちらもその頃政策的に有効な対策を取っていただろうか?こちらは被害者で,こちらは自己責任?というのならば,一体何をフォーカスして来たのだろうか?個人の品格と知力が問われる 奥の深い問題であろう・・・もしもあなたが差別と偏見はいけないというのならば,HIV陽性者はすべて社会的被害者になるであろうと結論づけられるはずである. 2008.3.25