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母の死

老人ホームに入居している母が眠ったまま息を引きとった。
ホームの職員さんはいさぎよいAさんらしい最後でしたねと言ってくれた。
93歳の年齢からいつかこの日が来るとは常に思っていたが
いざその日が訪れてからはあれよあれよという間に過ぎ、母は小さい桜の壺に入って私の目の前にいる。

こだわりの強い母。我が強い母。自分の意見を曲げない母。何かが他の人と違う。なんだろう。と思っていた。多分今の時代であれば何かしらの発達障害の病名がつくのではないかと思う。

小学生の高学年頃から反発してばかりだったかもしれない。母ばかりが話をして自分の話はあまり話さなかったな。昔はこんなではなかったな。私も色々母に話していたと思う。小さいころは母に話したくて話したくてたまらなくて私が話すことをただ聞いてくれていたと思う。いつからだろうただ純粋に話すことができなくなった。素直に話せなかった。それを言ったら母が心配すると子供心に感じていたから話せなかったかもしれない。母との関係は高学年の頃と並行線のまま大人になってしまった。

先日老人ホームで母の目やにを私がしつこく取ろうとしていた時に母が激怒した。「人の世話ばっかりもういいわ。色々言わないでくれる!私はあなたの話が聞きたい。あなたは何も私に話さないじゃない!」ハッとした。私は母に何も話していない。つらいことも嬉しい事も。母はもっとそういう普通のことを私から聞きたかったと思う。自分も母親だからわからる。子供からはそういう普通のことを話てほしいって。自分が今それを望んでいるのになぜ母にそれをかなえてあげられなかったか。それから母の世話を焼くようなことをやめて(週1回しか会えない。そこで注意みたいなことを言っても無意味でないかとやっと気づいた。私56歳の時)

しかし長年の母との関係性をそんなに簡単に変えることはできない。しかし母が何を望んでいるかがわかってからの私は少しずつ今までとは態度が変わったきたと思う。やっと長い長い反抗期が終わった。それは母がなくなる1年前くらいの話。遅すぎる。確実に遅すぎたけどでも気づいてよかった。 

母の遺影に話かける。本当の気持ちを話せてる。なんで生きているうちに話せなかったかくいは残る。なんでもっと素直になれなかったのか。母の特性にもっと早くに気づいてあげたらもっと違う関係性になっていたかもしれない。気づけなかったからしつこすぎる母こだわりが強すぎる母にイライラしてた。

棺桶にはいった母には何度もありがとうと言った。何度も何度も言ったけど言い足りなかった。ありがとうしか思いつかない。ごめんって言葉もちょっと脳裏にちらついたけどそれは母は望んでないと思う

本当にありがとう。育ててくれてありがとう。産んでくれてありがとう。お母さんが長生きしてくれてありがとう。ずっと忘れません。ありがとう!


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