どうもやる気が出ないので

#2 12月26日2021年

 自分のことを書いてみよう。

 私はいまは学生をしている。2020年4月に通信制大学に入学した。公認心理師という国家資格を取得したいと思っている。きっかけは、2019年6月に観たNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」。このドキュメンタリーのインパクトは大きかった。いろいろ端折って書くと、「ここに私が居るべきだ」と強く思った。安楽死を推進したい、という意味ではないです。それについてはまだまだ考える材料が足りない。でも、番組の中で、人が死ぬに際して必要な、もの・時間・環境を彼女が具体的に見せてくれたように思えた。それが素晴らしかった。彼女の知性あってのことだと思うから心からありがとうと思えた。そして、彼女は私と同い年(か1つ違い)だったのも育った時代背景を思うと、私にとっては共感を増すものだったと思う。

 多系統萎縮症という病と共にいた人で、病気の進行に伴い、「ありがとうと言うことも出来なくなる」と、二人の姉の献身的な支えに対して礼すら言うことも出来ない自分を想像し、それが日増しに近づいていることが死への動機を強くしていたし、それを良しとする根拠として語っていた。そして、スイスのlife circleという団体のとてもシンプルなこざっぱりと明るく静かな部屋でお姉さんたちに最後のお別れを告げてほんとうに安らかな最期だった。こんなに確実に、計画的に、しっかり挨拶をして旅立つことが出来る。現実の死はこの逆だと思う。この方は微笑んでいるように見えた。満足そうに見えた。

 人間は、生まれるのと死ぬのは決まっているけれど、一方でそれがいつなのかは決めることはできない。その代わり、生きている間、たくさん勉強をして、社会の役に立って、お金をたくさん稼げるようにすることで、自分で選択可能な範囲を拡げられるようにと自分で自分を鍛えていく、いこうとするかもしれない。そんなふうにすることが良いことのように言われている。しっかりしている人はそれが大人の責任だと思っているかもしれない。だから、死に際もそれが習い性のようになるかもしれない。確実に、計画的に。独りで生きてきた人は余計にそうなるかもしれない。ショーペンハウアーの『自殺について』を思い出すけれど、生きる意思の強い人はその強さゆえに絶望するし、その意思を使って自分を殺すこともできてしまう。でも、多分、多くの人間は実際のところそうでもない。東洋的な文脈だと、そのあたりも織り込んでいるようにも思う。

 番組の終わり、彼女は自ら点滴のストッパーを回して、薬剤を身体に流した。確実に、計画的に、誰も慌てふためくこともなく、あっという間に亡くなった。きれいなお顔のまま。

 この番組を観たインパクトはとても大きいものがある。余韻と波紋は今でも自分の中に響いているし、ここから始まったなぁと思っている。

 



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