見出し画像

ラーメン王ワンサの十三回忌

今日は、極めて個人的なことを書きます。

明日2020年7月13日は、ワンサこと武内伸(たけうちしん)の十三回忌です。

武内伸は私の中学高校の時の同窓生で、毎年クラス替えがあるのにも関わらず同じクラスになったことは一度もありませんでした。
後述するように部・同好会・サークルも重なってないのですが、いつの間にか廊下とかで会うとお互い声がけするような仲になってました。

ワンサは中高時代、漫画研究会に所属していて、私は別な文化部を3つ掛け持ちしていたので放課後一緒になることはついぞありませんでしたが、ともかく言うことやることが面白過ぎて、当時まだタモリも明石家さんまもTVに出てくる前の時分、「こいつは世界で一番面白い奴だ」と思ってました。

ワンサが私のことをどう思ってたかは聞いてませんが、まぁ普通の奴、でも悪い奴じゃない、とでも思ってくれていたのじゃないかな。

いや、思い出した。
私本人の発案じゃないけど、一つ上の部活の先輩が色々面白い発想を出してきて、それに乗っかって結構バカなこともやってました。

その際たる出来事は、校庭の砂場に部員を全身埋めて、周りで突っ伏して号泣する真似をした写真をばらまいたことがありました。
私も「モデル」になり、手首だけ残して全部埋めたところを写真に撮り、それをワンサが見て大笑いしてくれてました。

ワンサの面白ネタは、同じ部がひとつ重なっていた太刀川令爾がよく仕込んできては、「昨日ワンサがさ~」と言って教えてくれるのを、それを皆で面白がって聞いてたものでした。

一番面白かったのは、ある日ワンサがニコニコしてたので、太刀川が、「おぅワンサ、どうしたんだ?ご機嫌じゃないか~」と聞いたら、ワンサがさらにニッコリ笑って、「俺はもう童貞ぢゃねぇ」と話し出したのです。
思い立って某ストリップ劇場に行き、確か中学3年か高校1年になったかならないかぐらいのタイミングだったので、おっさん顔はしてるけど、大学生にもなってないワンサを入場させてしまった劇場も劇場ですが、当時はおおらかなものでした。そして生本番ショーの時に、ストリッパーのお姉さんが舞台に呼びかけるのですが、それに応じて「ハイハイ! ハイハイハイ!!!」と熱狂的に手を挙げて応じ、お姉さんから「まぁ、元気ねぇ♬」とご指名を受けて舞台に上がり、おっさん達がぐるりと取り囲む舞台の上で無事初体験を済ませて来たそうです。

翌日だったか翌々日、私もワンサを見かけたので、「おい、聞いたぞ~。卒業したんだって?」と聞いたら、本人もまんざらでない様子で、でもちょっぴり恥ずかしさも含めながら、苦笑してました。一応、まだエイズウィルスも世に知られる前の話でしたが、そういうの病気怖いよねと、追随する同級生は出てきませんでした(笑)。

こんなこともありました。

ある日、校門から入ると、母校はまず事務室があって、その部屋の前の周囲はタイル張りのごつごつした床になっているのですが、そこにワンサを見かけました。

いきなりワンサが、「おお、野副じゃないか~~~」と言い出した途端、こちらに向かって爽やかに手を振って駆け出したと思った瞬間、「おっとっとっとっと~」と言いながら急にこけて、サンダル履きでGパン姿のワンサが5メートルくらいその事務室前のタイルの上をずささささ~と滑ってきて、目の前でピタっと止まったのでした。

こちらはあっけにとられるだけでしたが、その一連の動作は明らかにわざとやってたので、もう絶句して二の句も告げられませんでした。
仲間内では、「ワンサにかかると事務室前のタイル張りの床も摩擦係数ゼロになるんだな」と言い合ってました。

後で、「えっちゃん」の愛称で親しまれていた事務室のお姉さんに裏付けのために聞いたら、「さっきからずっとそこに居たわよ」と暴露してくれました。
その、新たに仕込んだネタを知り合いにやって見せるために、事務室前でずっと待ってたのかワンサは。とか思うと、今でも「こいつは世界一おかしい奴だ」と思ってしまいます。

ワンサの似顔絵は、漫研所属である本人より、同じ漫研所属の同期の矢澤秀昭の描くワンサ像が瓜二つで、漫研の同人誌を矢澤がよく売り込みに来るのをこずかいから買ってました。
その同人誌は、面白くて何度も読み返しましたが、あいにくもうとっくに廃棄してしまいました。

私が高1だった時には、長らく学園紛争のために中止されていた運動会が復活し、クラス毎に縦割りチームが作られ、にわか応援団が結成されました。騎馬戦とか試合中心に高得点が取れるのですが、参観した父兄の応援合戦への投票がポイント高いと知り、早速自分の母親を動員する手に出ました。

当然、私の母は私が居るクラスに1位をつけたのですが、2位にはワンサの居る応援団のクラスに点けてしまいました。結果、ワンサのクラスが1位で優勝し、私のクラスはなんと1位と総合得点たった1点差の2位で敗れてしまいました。2位じゃダメなんです!帰宅して母に文句を言いました。
「ダメだよ~、2位には、もっと絶対に上位争いに食い込まない下手な応援してたチームに点けとかないと~」と言ったら、母は、「ごめんごめん。でも、あの法被着て一生懸命踊ってた子が不憫に思えて...」
・・・その、母に不憫と思われた子が、ワンサなのでした。

後で、しぶしぶその話をしたら、ワンサは「やった~~!」と言いながら、壁をカメレオンのように這い上がって壁をバシバシ叩いて喜んでました。
・・・今はだいぶ綺麗になりましたが、母校の校舎の壁は、現役時代にはお世辞にも綺麗ではなかったので、そういうワンサを、「しょうがない奴だなぁ」と逆に許せてしまうのでした。
床に着地してから、自分の両手をまざまざと見つめて、お約束のように「うわっ」と驚くワンサでした。

その後、私は4つ目になる演劇部を一個上の先輩達が造ったのでそちらが忙しくなり、卒業後さすがに大学に進学しようと決意して受験勉強に没頭し、ICUに入りその学生生活を満喫することに集中したので、ワンサも含めて麻布の人達とはご無沙汰な状態になりました。
今から10年前にFacebookを始めて、多くの元同級生同窓生と再会するまでは。

同じ頃ワンサは、映画監督だった山本嘉次郎のグルメ本を読んで荻窪の春木屋のラーメンを食べてそちらに開眼し、高2高3で合計200軒もラーメン屋を食べ歩き、日本大学理工学部に、ほぼ全く準備せずに合格したであろうワンサはラーメン同好会を結成して、卒業後もその道を進んで行きました。

彼の高校2年生以降の話は、実はワンサが死んだ後になって私はWikipediaの彼に関する記述を読んで、初めて知ったのでした。自分の不明を恥じました。

この著述を誰がしてくださったのか判りませんが、感謝します。

そして、同じく元同窓生で同期の小林功が見つけてきてくれたのが、1995年のこの画像。

ワンサ0

ワンサ

「TVチャンピオン」というゼッケンをしてますから、まさにWikipediaの以下の記述の写真でしょう。

1992年にテレビ東京系列の『TVチャンピオン』で開催された「ラーメン王選手権」の第2代ラーメン王の座に輝いた。1995年の第3回選手権では準優勝の座に甘んじるが、このときの悔しさが、逆に「ラーメンで生きていきたい」「ラーメンに人生を賭けたい」と言う気持ちを強める結果となったという。また、この番組出演の影響により、マスコミからの取材が増え、周囲の環境が大きく変化するきっかけとなった。

その後、ワンサは新横浜ラーメン博物館に入社して広報担当になったり、日本ラーメン協会設立に尽力したりしていました。が、肝臓を患い、医師にラーメンばかり食べていることを咎められても言うことを聞かず、肝機能障害を発症して入退院を繰り返します。日本ラーメン協会が2008年3月に設立されると、その副理事長に選任されますが、同年7月13日、肝硬変のため、入院先の神奈川県相模原市の病院で死去しました。48歳でした。

運命のいたずら。

私は生まれつき胃腸虚弱で、とくにラーメンの油やスープが体に合わず、ラーメンを外食すると必ず体調不良になるので、ワンサの真似は絶対に出来ないのですが、その後社会人を続けながら体調を整え、接待や飲み会で多少無茶をしても大丈夫な体作りとノウハウを積み上げ、彼が入退院を繰り返していた時期、株式会社ぐるなびが食日記というサイトを2007年に立ち上げ、そこに毎日のようにブログを投稿し、2012年までの5年間で合計100万PVを達成していたのでした。

でも、ワンサのように、命をかけてまで食にのめり込んだりはしませんでした。

ワンサを診察した医師がワンサを非難するのは医者として当然ですが、ワンサの生き方までを非難することは誰にも出来ません。もちろん、私のように家庭と家族をもっていたら、やってはいけないことです。

でも、路頭に迷わせる家族が居なければ、ワンサはワンサなりの生き方を全うして死んだのだと信じています。

最後にワンサよ。

君の面白おかしい話を、もっともっと聞きたかったぞ。

君の生きざまと死にざまを知ってから、何度大粒の涙を流したことか。

君を心から尊敬している。

私には、君の真似は出来ないが、君と違ったところで、世の中の役に立ってから人生を全うしたいと思う。

安らかに、眠ってくれ。

いいなと思ったら応援しよう!