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特別支援学校↔地域交流
【ソーシャルインクルージョン】
障害者らを社会から隔離排除するのではなく、社会の中で共に助け合って生きていこうという考え方。昨日は久しぶりにほっこり法話カフェへ参加した。テーマは特別支援学校↔️地域交流について。最初は学校紹介や小学部の様子、校歌演奏などなど。そして先生による質問への回答。参加者4人からのコメント、最後は記念撮影。
私自身、55年程前、静岡にあった養護学校へ入学した。今の支援学校の前の呼び名である。高校卒業するまで同じ仲間と過ごした事が懐かしく蘇ってきた。その当時は東部中部西部に一校ずつで障害も軽度で車椅子使用者はそんなにいなかった。
そして地域との交流など無かった様な気がする。記憶にないのだ。分断されていたのでしょう。悲しいかな現在でも感じるのだ。
よく知らないからという理由で問題を放置していることありませんか?自分と違うという理由だけで何となく苦手意識を感じたり接触を避けたり知らないフリをしてしまっている人は少なくないのではないでしょうか?私もそのうちの一人でしょう。
手を貸したくても貸し方がわからない
声をかけたくても気分を害してしまうかもしれないからかけられない
一緒にやってみたくても傷つけてしまうかもしれないからできない
本当に聞いたことはありますか?
手伝われたら嫌ですか?
声かけられたら傷つきますか?
この行動気に障りますか?
たまに、こんな事話して傷つけたら御免なさいと言われることがある。それこそが嫌なんだよ~である。
障害によって困りごとは違う
障害の程度によっても困りごとは違う
男女によっても困りごとは違う
年齢によっても困りごとは違う
そして個人個人によっても困りごとは違う
そして、その困りごとは社会が作り出している(社会モデル) 簡単に言えば、エレベーターさえあれば、車椅子使用者も自由に移動ができる。個人の問題ではなく、エレベーターが無いのが障害なんだよという考え方。
実は近くにある全く知らない世界。障害者健常者の人間同士の交流はどことなくぎこちない。
もっと自然に、もっと楽しく、もっとフランクにお互いのことを知ること。
違うということを体験して
違うということを認め合い
違うということを尊重する
ボランティアと利用者、ヘルパーと利用者、お互いが話すことで関係性を築いていく。
すぐには分からないよ。すぐに相互理解は難しいので、それよりも存在をありのままにみせる。そしてチューニングを合わせてみる。イメージを変える。知ることでズレは小さくなり、どうすればいいのか?何ができるのか?何を話しかけてよいのか?見えてくると思います。
わからなくていい。だからその人を知ろうとする。それは、障害のあるなしに関係ないですよね。目の前の人が障害があろうが、なかろうが、その人を知ることに違いはないから。
思いを重ねて、言葉を重ねて、動きを重ねて、
将来ある子供達の自立に目を向けながら理解者と一人一人に出来るかたちで。
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