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はなむけ・てんちむよう・情けは(他)人のためならず

 遅ればせなら雛人形を出した。
 2階の天袋から椅子に乗って脚立に乗って下ろす。年々面倒になってきた。しかし出さないといけない事情があり、いつまでできるかわからないが、とりあえず毎年人形の顔を見ることにしている。
 その事情の一つは、懐かしい父の文字に出会えること。父が亡くなってもう三十年近く経つ。その文字が雛人形の道具を入れた箱に残っているのだ。
 ガムテープに隠れてわからないが、
 『天地無用』
 と書かれている。
 無用はいらない、転じて、してはいけない、の意。
 天地はひっくり返すこと・
 つまり、ひっくり返してはいけません、といってる。
 
 こんな言葉は、今はもう文字として見ることは少ないんじゃ無いだろうか。無用が「するな」という禁止であったとは、昭和の日本語は今とはニュアンスが違う。

 春は卒業、転勤のシーズン。そんな時に使う『はなむけ』は実は『鼻向け』であるという謎。
 馬の鼻を向かう先へと向けてやる、英語のオリエンテーション的な意味なのだけど。花束を送って門出を祝う意味合いがぴったりで、過去の意味合いが埋もれていっている。

 情けは人のためならず。
 こういった話の時には必ず出てくる慣用句だけど、『ひと』は人ではなく、今は『ヒト』とリビをふる他人のこと。回り回って自分に返ってくるから、他人に親切にしましょう、てな意味。

 良識のある今の若い世代は、世にある慣用句が心正しい道徳的な視点に基づいた蘊蓄に思われるかもしれないが、なかなか昭和人は慇懃に柔和に一線を引く人たちだった。ストレートに言わないのも、知性の表れとでも言いたげ。

 ところが最近『そもそもこの言葉の意味はこうで・・・』という解説を見ることが少なくなった。ついこのあいだも、テレビ番組で『情けは・・・』が引用されていた。さぁさぁ、きたぞきたぞ、と待ち構えていたが、「自分のためになる」というフレーズは結局出てこなかった。知っていても印象のよろしくない、話の腰をおるようなことは持ち出さないというのが今の風潮なんだろうか。
 
 心優しい若き日本人はそんなことを心得ておりクスッと心の中で微笑み、知っている者同士で目配せしてその場の空気を大切にする。メンバー制国家日本はますます難しくなっている。口幅ったく、誰かが無知を晒すのを待ち構えている昭和世代には、それ見た事かと羽を広げる機会が減ってきてい。日本は狭い。

 父の手書きの段ボールももうそろそろ寿命かな。プラスチックの衣装ケースに替え時だろう。寿命と書いて、本当に父と別れるようで淋しさが迫る。
 伝わりづらいだろうか。戦争に負けた父の世代は我をシニカルな目で見ながら、それでも自分と身近な周りを大事にしていたあの時代が言葉の原型に残っている気がして、書かれた文字だけじゃなくその意味の伝え方にも、今現在にはないニュアンスを感じるのだ。
 
 一週間。そうしたらまたお雛様たちは天袋にお帰りいただく。
 


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