【小説】水族館オリジン 11
chapter XI : キングヘリング
フランスからのお客様をお泊めしました。大きな体に日に焼けたやさしいお顔。デイビッドさんは西の海で海の色の研究をしています。電波を発信する大きな機械を海流にのせて流します。電波は人工衛星がキャッチします。海の色の研究だそうです。宇宙から見た海の色、その時の海の中の様子を調査するのです。例えば、春は海水は黄緑色を帯びます。黄緑の海の中は植物性プランクトンが繁殖しているのだそうです。なんとも詩的な研究じゃぁありませんか? 電波塔にのせた発信機はとても精密で、メンテナンスが欠かせません。それに植物性プランクトンが発生する季節は特に藻がたくさん絡みつきますから、なおさらメンテナンスが必要です。それをするのがデイビッドさんのお仕事です。
崇くんもいつも長靴をはいているので漁師か冒険家みたいだと思っていましたが、デイビッドさんは外国の冒険家、そうリアルインディージョーンズじゃないかって思います。海の上の、ときには陸から何キロメートルもはなれた真っ只中にプカンと浮かんだ発信機を体一つで潜ってお掃除するのです。四方を水にかこまれたところで、ひとり深い海にもぐってゆく時はどんな気持ちになるでしょう。不安になったりしないのでしょうか。
私はときどき頭が痛くなるほどいろんな声が頭の中に流れ込んで来て混乱します。そんなときはしばらくじっとして遠ざかるのを待つしかありません。
デビットさんは、海の中にいることは、いろんな気持ちを共有することだよ、といいます。不思議だとか考えるより先に肌を伝って海の水が伝えてくるのだそうです。光だけじゃなく、ちょっとした流れの変化とか、海水の成分の変化なんかとか、そういうものがいつもとどんな風にちがうのか、海水を伝って全部つたわるのだそうです。
「ぜんぶ、同じうみです。どこも、いつも。つながってる」
デイビッドさんはもう撫翁の海に潜ったといいました。明日、漁師さんの船にのせてもらうのが待ちきれなかったと、洞窟の潮溜まりから何種類も貝をひろってきました。
「砂抜きはしないの?」
崇くんは、洗っただけの貝をワインと一緒にフライパンにいれたデイビッドにいいました。
「ノン、なにもしません」
崇くんはすこし嫌な顔をしました。さて砂を噛んだ二人はどんな顔をするんでしょうね。面白いので見物しましょう。なんだか男二人が台所で楽しそうにしている風景は結構よろしくて、お任せしました。そんな台所でも二人は魚の話がとまりません。
キングヘリングという魚を知っていますか?日本語ではリュウグウノツカイといいます。時たま死骸が波打ち際にうちあげられたりして発見されることがあります。地震の前触れだと言う人もいます。大昔は海の龍だと思われていました。それで、いることは知られているんだけど、どんなふうに生きているのかこれまで観察されてこなかった魚です。長いのだと11メートルにもなります。孔雀の冠毛のようなピンとしたヒゲを頭の上にはやし、体はタチウオのように銀色で細長い。そして体の片側に赤いうつくしい背びれをもっています。大昔は、海獣としておそれられ、大嵐をおこしては船を飲み込んでいると思われていました。
デイビッドさんは、電波塔を掃除する時、このキングヘリングに出会ったことがあるそうです。黒い闇になった深い海の底から、銀色にかがやくリボンがゆらゆらとたゆとうように流されて来たかと思ったら、リュウグウノツカイだったそうです。縦になったまま、しずかに細かい背びれをたなびかせるように動かしまっすぐに海の底から上がって来る。その様子はまるで龍が天空へ登るようだったとデイビッドさんはいいました。
「しかし、彼の脳はそら豆ほどなんだよ。しかも鼻の穴もない」
魚に鼻の穴があるなんて知りませんでした。デイビッドさんによれば、魚にもちゃんと嗅覚があって、海水の成分の変化などを感じ取るのだそうです。
その穴がないリュウグウノツカイは最近になって、口の中にその代わりをする器官をもっていることがわかりました。おちょぼ口から思い切り水を吸い込みそれをその器官に通すことで、誰かが近づいて来るとか、嵐がやってくるとか知るのだそうです。それは味なのかしら?それともとろみなのかしら?と聞いてみましたが、デイビッドさんは話に熱中で、耳を貸してくれませんでした。
リュウグウノツカイが泳いでいる姿は最近になってようやく見られるようになったので、どんなものを食べているかすらわからないのだそうです。それでも、巨大なリュウグウノツカイが縦になったままゆっくりとキラキラひかる背びれをゆらし海面ちかくへ上昇してくる姿はとても荘厳で生物の起源みたいなものを考えてしまいます。敵のすくない海の底に暮らすこと、ほとんど姿を変えずに生き続けていること、狭い世界だけで満足できる体になること、その結果がそら豆サイズの脳なんて・・・。よほど高性能な脳細胞か、あるいは、考えなくても対応できるまでに昇華された日々の所作なんでしょう。おっと、これは裏千家の師範でもいらっしゃる館長先生のお言葉でした。頭で考えているうちはダメなんです。頭を空っぽにしてもきちんと動ける、正しい動きができる、そこまで練習と鍛錬を積むこと、それでようやく『私はやっています』といえるのよ、とおっしゃいます。
デビッドさんがあんまりリュウグウノツカイへの尊敬を込めてお話するので、その気持ちが私に伝わり、ガランドウのアパートの中空を赤い背びれのお魚がゆらゆら泳いでいるのが見えました。その子はこの世界からさよならしたことを、知っているのでしょうか。そうとは思えない平たくて大きな目はあまり動かないまま私をギラリと睨みました。その姿に見とれているとき、デイビッドさんと崇くんの話が感じが変わりました。頭も痛くならずに、鼓膜を一ミリも揺らさずに目の前にあらわれたからびっくりしたけれど、とても素敵で部屋の空気がピンク色にそまったようです。
デイビッドさんが、崇くんをフランスにさそっています。ヨーロッパの海にお仕事でゆくなんて、素敵すぎます。私も図書館の夏休みには遊びに行くから、是非行ってちょうだい と言いたいのですが、ふたりの話は熱くて入ることができません。いつもの崇くんなら、冒険大好きな崇くんなら、何も考えないで行くって答えていたでしょうに。
「でも、一人にはできない」
そう言っているのが聞こえます。
「しかし、君もすこし自分のことを考えなくては」
デイビッドさんのおっしゃる通り。私たちは結婚をしているわけでもないし、子供がいるわけでもありません。だから自由なのです。でも私は長い人生、ずっと崇くんと歩いてゆくつもりです。だから二人が働けなくなっても、これまでの思い出をおかずに終盤を退屈しないで過ごすにためにも、崇くんにはフランスに行って欲しいです。そして、願わくば、夢ですけどね、次のステップ、あたらしい人生の延長線を見つけて欲しいです。私も、自分の図書館愛を極めつつ、楽しいなぁ、生まれてよかったなぁと実感しながら、後半戦で崇くんに話して聞かせてあげるお話をたくさん集めようと思っています。だから、どうしても、ぜひとも、デイビッドさんのお誘いにはのって欲しいのです。
わかった、と頷きながら彼が目尻をぬぐっています。なんだか部屋が煙いです。私は安心感でまた眠くなりました。
浅い眠りの中で、崇くんとデイビッドさんが古いアパートの台所に並んで立ち、さっきの酒蒸しのスープをつかってリゾットを作っているのが見えました。私は、冷凍庫のパンチェッタを使い切って、と言いたかったのですが、近頃とても眠くて、午後八時まで起きていられません。
女手がなくてもそんなことにはおかまいなし、男の子二人は勝手にシャンパンの栓をあけて飲み始めました。リゾットの貝柱とパルメザンの塩気はシャンパンにとてもあいますね、きっと。
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