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後からも”ある”
心や体の特徴を、その人の学びや生き方の特性・特徴・長所ととらえられないだろうか。
例えば近視がちの人は、手元の書物を紐解いてミクロで物を考えるのが向いている。ミクロだから侮るなかれ、マクロはミクロの堆積によってできているのだから。
遠くに焦点を結ぼうとするとボヤける。それはその人のキャパを超えているから。あるいは手元で掴んだ感覚はとても微細で、大きなものにするには時間と労力と忍耐が必要。それは一人でするものでなく、大きく把握するのが得意な遠視の人間を組み込めばいい。
遠視の人間は、遠くの遠く、物事の全体像を俯瞰で観れるから次に何をすべきか予想することが得意。それで何かをしようとした時、小さな誤差は見えないから間違いが起きるかもしれない。それを生来の根気と緻密さでサポートするのが近視の人。
遠い・近いは能力だけの問題じゃない。その姿勢は、心までも巻き込む。学校で押し並べて同じ教育をしようとするけど、手元を愛でるのが好きな人に知らない遠くのこと知ろうとすると大変だ。遠くの人の自分では何もしてあげられない人の不幸を背負ってしまって辛くなる。
遠くの目的に到達するのがモチベーションになる人は、ちまちましたことに注釈つけられて面倒くさくなってしまう。
かわいそうは、本当はどこにもない。あなたの頭の中にあるだけ。誰とも比べないから自分が可哀想かどうかわからない。かわいそうだとすれば、意思あるところに道がひらけない時だ、それも誰かの恣意によって。その意思を理解しない誰かが、不理解の壁を作るときだけ。わからなければ放っておいてください。道は自分で作ります、邪魔だけしないで。
ADHDだデクレシアだ、と心が絡んだ色んな状態を症候群という解決のない名前で綴じて、先天性だなんだとあざなえるDNAの縄に転嫁してるけどぉ、当人の柔らかく・感じやすい心が何かから自分を守るために作り出したとは考えられないか?
私は、料理中に何度も指先を洗うし、心が騒ぐときは窓サッシの細いところにつま先立ちになると落ち着く。指先を何度も洗うことが何かの症状なら、そうじゃない人はよほど免疫力がおありなのかな。
何かの切先に立つと、「崖っぷちに立つ」と同じく、生存本能のスイッチががちゃんと入り、雑音は鳴り止む。
ひどく動揺した時、あれは高校の古文の時だったか。ひどく動揺した時、見ていた教科書の文字が勝手に動き出した。まずはへんとつくりが席替えし、次に隣の字のそれと席替えし、それはどんどん見ているページで勝手に行われてゆくから、しまいには何が書かれていたか全くわからなくなってしまった。そんなことは初めてで、自分の頭がどうかしてしまったのかと思った。実際どうかし始めていたのだけど、そう気がついて活字が勝手に動き出すかもしれない可能性のことを全否定することにした。のぎへんがふらつきだしてからわずか二、三分のことだった。あまり動揺するとこんなことが起きるんだな、と達観した私の中の姉御の部分が冷めたことを言うから、もう動揺したり感情移入するのはやめた。あれから三度、漢字やひらがなのはらいの部分は、ちょいとしたときに靴を履いて歩き出そうとしたが、「ありえない」と呪文をかけて止めた。
ひどく動揺した時、その後の3年前。死んでしまった方が楽だなぁと思った。一旦そう思うと、それは脳にシミのようにひっついて、心が弱るといつもそこに目がいく。でも血みどろも苦しいのも嫌だし、周囲の人の泣き顔も見たくない。水が蒸発するようにいなくなれたらいいけれど、その閾を越えるにも努力が要って悲しむだけでは蒸発できない。だからそのことを考えるのをやめた。じゃあ死なないで済むにはどうすればいい? どうせ生きているなら楽しくしたいじゃん。 だから楽しいの定義を変えた。正解だった。
破天荒は、誰かにもみくちゃにされて初めて当たり前をしる。綺麗事だけ、当たり障りない関係性では彼女は完成しないんだ。叩かれ持ち上げられ、傷つけ、しっぺ返しされ、自分は悪気ないのにと悩み涙を流し、当たり前を知って、そして自分のことも大切にできる。両方知ってるから強い。強いからって怖がらないで、敬遠しないで。心はものすごくガラスだから。
できないことは、できる人に任せて、できることを大切にしたい。できない自分を愛して認めて、自分ができないことをできる人を尊敬して感謝する。完全じゃなくていい世の中がいいなぁ。
そう、先天性って安心しないで。