![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157159880/rectangle_large_type_2_b2f3e13f43b59225af7fb7ed4a00c8b2.jpeg?width=1200)
深海真空パック
今から十数年前私の中で海が熱かった。映画『パイの物語(Life of Pi)』は難破したインド人少年がサーカスの虎と一緒に数日間を海上で過ごすストーリーが熱くて、今もプロジェクターであの碧蒼の海原を壁に映すところを想像するとうっとりしちゃう。地球の70%は海なのに、海面の下がどうなっているかなんてとんどわかっていない。それがちょっと罪のような、魅力のような、全部わかっていたところでどうというわけではないんだろうけど、そこに生きる命のことを慮るようになると私自身の何かが変わるような気がするのである。あくまで人間が知っているやり方が全てじゃない生命の営み、知ったところで理解が及ばないことがさらりと行われているんじゃないか。いつもそこにあるのに日頃配慮しないそのぬるりと張られた紺碧の幕の裏の、バックステージにはどんな現実があるのか。とても惹かれる。
子育て真っ最中時、逆に豪勢な自分育てをしてきた。完全なアダルトチルドレンの私は『子供時代にやりたかったことを』大人になってようやく実現させた。継続的に絵本を購入するのがその一つで、福音館の『みるずかん・かんじるずかん』を定期購読した。中でも『深い海の魚』は今も手元にあってよく開く。海の底に生きる生物を水深ごとに描かれている。海の中にはうじゃうじゃ魚でいっぱいと思いきや、ちゃんと棲み分けをしている。そして深くなればなるほど、魚の体は軟体になり、どんどん白くなる。
海底には光が届かず目のない魚や反対に大きな目の魚が、群れることなくゆったり泳いでいる。群れているのは温水が噴き出る箇所。そこにワームが生きるための工夫を駆使して局所的に生息している。
この知識を柔らかい子供の図鑑を見て温めていたから『Life of pi』で沸騰した。そして、こういうのもサイクルがあるのでしょう、メディアが海を盛んに取り上げていた。同時期に公開された『ライフ!/Life』も、テーマは別のところにあったけれど、北欧のまるで生き物のように荒れくるう海の映像が圧巻で全く別物の海のイメージを私の脳裏に強く刷り込んだ。
メディアは海洋学者たちを扱い、彼らの知られざる世界を紹介した。あの人たちは、海の特別な魅力を知っていて、私たちの触れられない世界と紙一重のところで暮らしている。岸から何百キロと離れた海の只中に、お天気や潮流のデータを発信する機械をくくりつけた発信塔がプカリプカリ浮いているなんて想像したことがありますか?それを掃除する仕事があるのを知ったのもその頃。彼の話は衝撃的で拙作、『水族館オリジン』の中で使わせてもらった。リュウグウノツカイが打ち上げられたのもその頃。その姿から、それこそ空を飛ぶドラゴンのように海を泳いでいるのかと思いきや、彼らは縦に、まるで雨後のたけのこのように真っ直ぐに海中に浮かんでいるのでした。細長い真剣のような体全体がアンテナで、大海原の遠くで起きた出来事もその柔らかいからで感知する、とは発信機の掃除人の話。彼らはどんな豊かな人生を送ってきたんだろうと、羨ましく思う。
先月会いに行った引田さんは、こころのコンディショニングもしてくれる。地球の地殻に根ざした感覚を持つアーシングは、よく教わるけれど彼女のハウスでやるとカツンとマグマに深く刺さる感じがする。そして深く息をしてーと言われると息をしてみるのだけど、なかなか深くは吸えなかった。
その時、なぜかリュウグウノツカイのことを思い出した。それに数キロ先の血の匂いすら嗅ぎ取るサメのことも。彼らは広大な海原で寂しさなんか感じる暇もない。なにせ全身が耳、全身で触れている海水をつたって感じているのだから。むしろ騒がしいに違いない。
あれ?人は?
人は見えない、感じない、音しか聞こえないと思っているだけ。空気はどこまでも繋がっているし、私たちだって第六感とか、虫の知らせとかいってるけど、ちゃんと空気から感じとっているんじゃない?つまり、皮膚が体の外と中を隔てているだけ。押し出せばそれだけ入るもの。吸えないのじゃなくて、吸わなかったのかもしれない。
そう意識を変えただけで、不思議と空気は肺に入ってきた。シャットダウンするんじゃなくて、開放する。ジャッジしない。いずれおいてゆくものだから、循環してくれればいい。
イメージは真空パックのノドグロを開ける感じ。私は何も図らない。ただの媒体になるだけ。
そういえば『水族館オリジン』も右脳だけで書いたな。
作為的になってはあれは書けなかった。そういう意味で意味ある作品。