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あしたはあしたの時代が吹く

ゴールデンウイーク最終の日曜、谷中へ行ってきた。 長男が専門学校の仲間と開いた展示会を見に行くためだ。谷中商店街から一本住宅街へ入った路地の先、マッチ箱みたいな昭和住宅が会場だった。

入口の引き戸をひらいたらたたみ一枚の広さもない三和土があり、腰掛けるのにちょうどいい高さの上がり框。6畳程度の部屋に、台所と押し入れがあるのみ。欄外みたいなスペースに階段があって2階へと続く。おおきな、それこそ大人一人が横になれる大きさの押し入れがある。2階はそれだけ。それだのに、なぜ豊かな感じがするんだろう。今の建築法ではおそらく許可がおりないだろうと思ったのは、部屋の三面がすべて窓だったこと。それから古くすっかりくすんだ色になった木がふんだんに使われている点もある。人の温もりを感じる家だった。

ナイーブで、尖った感性の作品をずらりと見て靴を履こうと入口へもどる。すると三和土の壁に銭湯みたいな富士山の絵を発見。狭い三和土の天井には円形のカーテンレールが。
元は画家のアトリエだったとか。お風呂もないし、タライ風呂していたんでしょうか、という話。
商店街はすぐ近く。食事だって惣菜を買って来れば済む。銭湯もきっと近い。街が生活の場所として、コミュニティーとして集約されていた時代の建物だ。こういう物件に若い人が興味をもつ時代になったんだなと思う。一戸建て、核家族、新築、スクラップ&ビルド、私の世代の最盛期を駆け抜けていった言葉だが、今はそれらがスクラップだ。

価値観の違いは物質にあらわれていた。ないものは作ればいいという時代に、心の穴は物質が埋めた。昭和という時代を語るときに物やデザイン抜きでは語れないのはそのせいだ。戦闘機から逃れる子供時代を過ごした親たちには宿題に追われる小学生や、部活で休日がない高校生の気持ちはわからないだろう。物が溢れる時代に自分だけのオンリーワンを探すのに、デザインは重要だ。

狭い国土にもりもりの国民。自分が生きているのは他の人間がいるから。小さな違いに自分の価値を見出そうという国民。小さな違いに気づく敏感な神経を大切にしている。本当は日本に単一の民族なんかじゃないないんじゃないか?みんなどっかの混じり合い。それが狭いところではじき出されないよう、柔らかい主張で自分の立ち位置を確保しようとしている。争わない。争えば誰かが溺れる。そうすれば恨まれて、結局は自分の足場が危うくなる。

なぜデザインを勉強するのか。穿った理由を考えながら手作りの、尖りまくった才能たちを見て、どうすればこの意思たちが経済的価値に昇華するのだろうかと考えた。
サントリー、いいちこほか諸々、日本のCMの最盛期を見てそだった息子はCM制作をやりたいと留学したが、海外ではCM の位置付けは違っていた。四年ほど前の日本はまだ、高度経済成長時代のやり方が残っていた。新人類なんて言葉が生まれてから30年以上が経って、共通言語を使い地動説が共通なだけで、教科書に書かれたこと以外に共通理解のない時代に、二十代三十代は行き詰まりを感じていた。

それから呼応するように起きたパンデミックだ。衣食住の当たり前以外にこそ、衣食住の当たり前にすら一人一人の感じ方や納得の違いがあることに価値が生まれた。それを再認識させられた期間だったのだろう。そういう細々したことに気を配っていたら、他人と争っている暇はない。戦争なんかしている暇はもっとない。
この狭い島国は、他人との違いにひどく敏感だ。受け入れ、際立たせる。それに命を注ぐ。Cawaii文化のつぎは、そんなデザイン文化が根づくんじゃないでしょうか。全部言わなくて共通理解でわかりあう土壌がそだてた新しい形のデザイン。言わずものがながなの延長線上の美学が勝負を決める。数年後日本は、その言わずものがなの共通理解を、生来のナイーブさで理解できる人たちだけの、会員制国家みたいなことになっているんじゃないかしら。

展示会は、200人ぐらいの来場があったらしい。今の世情に敏感に反応したあの子たちが、うまく経済の波に乗れればいいけど。

行きの電車で、乳母車を押した親子に遭遇した。こちらはもういい歳なのだけど若作りしていたのと、前の晩の足裏マッサージのおかげで至極体が軽かったので席を譲ろうと考えた。それくらい気分がよかったのだ。
ところが、子供連れの父親はフルマラソンに出場しそうな出立で、ピンと浮き出たアキレス腱の先には履きならしたランニングシューズを履いていた。決して電車内弱者じゃなかった。時代は変わったもんだ。
30年近くまえまで、ベビーカーを車内で広げるのは禁止だったのを覚えている御仁は少ないとおもう。

スポーティなお父さんの育児っていうかっこいい姿を見て、六年前に行ったロンドンを思い出した。テムズをへだてた河畔のテートギャラリーへ息子と言ったのは週末だった。ひとしきり館内をまわり、瀕死のオフェーリアをはじめとする女性の肖像画を堪能し、あいからずコンパクトにしてエッセンがつまった美術館のありように感心した。そして市民のための施設であるべく、カフェへむかった。海外のこういった施設にはかならず手頃だが質のいいカフェがあるのだ。軽食をえらんでセルフサービスのカウンターからテーブルを探した。カフェが目当てでやってきたらしき客たちが三々五々時間を過ごしている。仕事をする人、本を読む人、友人と話す人・・・子供にご飯をあげる人。
子供は、父親には赤裸々だった。父親は、家庭の人じゃなく、社会の人だからむやみに怒らない。それを子供は知っている。カフェで見た父と子供の間には、そこがカフェでなかったらどうなっていただろうというくらいに険悪な空気が流れていた。こどもは食べ物を吐き出し、父親がとりなすのもきかずだだをこねた。母親は?と探したが、どうやら二人連れらしかった。

近くの停留所まで移動中、何組かの親子連れをみかけたが、いづれも父親とベビーカーに乗った赤ん坊だけで、母親はいなかった。本当に手のかかる時期の赤ん坊たちなのでどういう偶然なのか訝しくおもった。が、つまり、土曜は母親の休憩の日なのだと気づいた。あの当時の、ロンドンの、テートギャラリーの周辺の住民のあいだではそれがトレンドなのだとわかり、膝を叩いた。

あれから、いろいろあって、日本でもお父さんオンリーで乳母車をおして出かける時代がきたか、しかもかなりアスリートのお父さんで、感心した。

「時代」って簡単に口にするけど、それは前の時代に足りなかったものを補ってうまれる。そして反対に注目されていたものが価値を失う時でもある。どうなっちゃうの、って心配になることもあるがどう変わってゆくかが、息子たちが感じた不足を満たすものであるなら、楽しみに見守ってゆこう。と
思う。

Tomorrow never knows.

Only they know.


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