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銀座東洋物語。6(幸せな仕事・I)

 いつのまにか私の体験談になってしまった。しかしなぜ、30年も経った今、あのホテルのことを書こうと思ったか、それを説明させてほしい。
 端的に言って、ホテルは私の仕事の経験のなかでも、一番幸せだったからだ。それは多分、ホテルの最大の目的が顧客の幸せというところにあったからだと思う。
 こんなことがあった。 
 もう時効だとおもうからはなそう。

 そのころ、ホテルは北米のホテルグループを皮切りに、世界中の名だたるホテルから入会をもとめられていた。ホテルグループというと、資本が繋がっているイメージがあるかもしれないが、このグループは違う。
 そもそも、ホテルは修道院や病院と同じ起源を持つ施設で、古くは有名で神仏のご利益のあらたかな寺院や教会の近くに建てられた。それは参拝者の便利のためだったけれど、そこに格式や歴史が伴い伝統が生まれ、固定客と評判が根付く。
 また、欧州文化の中のホテルは、バカンス滞在やセレブリティの訪問のための施設として必要とされる高い水準のサービスを提供していた。
 それらは、『いつもの心地よさ』を求める顧客にとっては必須の条件で、上に紹介したような用件で知らない土地へ出かけるときにも欠かせないものだったのだ。そんなとき、顧客はどうしたか?
 同じホテルを使っている友人や知人から紹介してもらう、行きつけのホテルにたずねる、そんなふうにして宿泊先を見つけていたらしい。

 あのころ、日本の一大グループ企業の迎賓館として静かに開業し和風のおもてなしやスタッフは一部屋に三人というホテルの手厚さに、少しずつ世界にされはじめていた。
 スターや有名人が宿泊するのが一流の証、と思っていたが、入社二ヶ月でリザベーションに異動になった私は間違いだったことにきづいた。小さな、そしてスタッフとの密着度の高いホテルは、大切な家族や、企業の大切なトップの休息の場所として最適だったのだ。
 リザベーションに異動になり、英語ができたため海外からの問い合わせに対応することになった。それでもまだまだあのころの英語はつなないもので、成長させていただいた。そのなかで、ホテルグループからの問い合わせを初めて経験した。

 新米で、しかもホテル業のいろはも知らない私が、ピラリと送られてきたファックスに対応などできるわけがない。もちろん、その時は、アメリカのホテルグループ勤務経験のある、セールスの男性にお任せすることになった。
 ぴらりと一枚である。いまでも覚えている。
 ファックスだって家庭にあるのは珍しい時代だった。そんなとき、A4サイズの真ん中にPのエンブレムが描かれた優雅なレターヘッドのファックスが送られてきた。全部英語である。曲線の部分は、電話回線の乱れか、すこしずれていた。それがおかしかった。あのころ旅行業界はテレックスが主流で旅行会社から予約のそれがくることはあった。しかし、銀座東洋は、廉価多売のインバウンドの枠をはみ出しているから、たいてい隅田川の花火大会目当てだけど宿泊施設がとれなかった出遅れ客や、面白半分で予約をいれるけれど、結局間際になってキャンセルする客が多かった。そのせいか、大型コピー機が座した小部屋の奥に追いやられていた。
 つまり、ファックスおろか、外国人の予約はセールスが取ってくる企業案件がほとんどで、アヴェイラビリティに関する問い合わせが直接入ってくることはほとんどなかった。
 そのファックスには、北米のホテルグループからで、自分の顧客が日本に行く予定がある、大事なお客だが貴ホテルの評判を聞き泊まりたいといっているが宿泊可能か。ちなみに当方で宿泊する際には・・・・、といったないようだった。

 お客をとても大事にしているのがわかったのと同時に、ファーイーストのよく知らないホテルに探りを入れているような慎重さも感じた。
 結局、前述の男性社員があとはすべて引き継いでくれた。その辣腕のセールスのするどいフォローのおかげで、それが当時、日本進出を考えていた大会社社長の奥様とお嬢さんのサマーバケーションの宿泊だということを探りあてた。
 そして、これは謀なのか、それとも自然の成り行きなのか、そのホテルグループに銀座東洋は加入することになる。つまり、ホテルグループには、レストランガイドのミシェランのように、格の独立したホテルを束ね世界中、紹介しあうというものだった。当時の銀座東洋は、目が飛び出るほどのルームチャージで、一部屋しかないブランド仕様のルームなどはコネクティングルームと合わせるとバブル中でもなかなか塞がらない価格だった。ところがホテルグループもさまざまな種別があって、首都や街中の便利な施設をまとめたグループから、 南の島の、それこそ令和の時代なら自然に受け入れられるかもしれない、一島に一ヴィラという豪奢なバカンス仕様のグループもあった。それらと比べると、銀座東洋は小さくてこじんまりとして、スタッフが大勢いて安全。しかし、決して、高くはなかった。

 休憩時間になると、リゾート系のホテルグループのカタログを持って、社員食堂で時間を潰したものだ。地下の、電話交換と同じフロアにあった社員食堂は、個人の町食堂のように料理人夫婦の顔が見えた。ビストロだったり、田舎の蕎麦屋だったり、年末年始には田舎の実家の料理も供された。どれも美味しかった。お名前をあげることも憚れっるビッグネームの料理界の巨人たちが、夜の忙しい時間の少し前、私たちオフィスウォーカーとはずらした静かな時間にゆったりと、社食の質素なテーブルについていらしたのを思い出す。
 食券を買えば、価格以上の健康的で美味しい食事ができるから、わたしもよく利用した。厨房機器はレストランでつかっているのと同じだから、お皿は温められているし、ビュッフェのように鍋ごと並んでいるけれど、これといえばおじさん、おばさんがお皿に盛ってくれた。食堂なのに、昼夜いがいの間の時間も誰かしら食堂にいて、昨日のケーキを落としたての珈琲で頂いていたりした。
 そこで、ホテルグループの本を開いて眺めた。北米が頑張っていた時代だ。ラルフローレンの人気がでてきて、ホームという枝分かれでベッドリネンとかタオルを扱う店舗が日本の百貨店でもひらかれだした。そんな商品ばかりをつかった、四つ柱のベッドの写真を眺めながら海外のホテルに思いを馳せた。

 さて、ホテルのしあわせな仕事、それはそのホテルグループの窓口から入った予約客に起こったことだった。

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