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小さな冒険

 「○○さん、どうぞお入りください」
 救急外来の診察室に患者さんを招き入れる。基本的に救急で出会う患者さんは普段病院にかかる必要がない方ばかりなので、初対面であることが多い。医師として働き始めて2年目になった今、多少は慣れてきたものの、いまだに緊張してしまう。「俺は全く緊張しないぜ!」と言える方に、ぜひ緊張しないコツを教えていただきたいくらいだ。おそらく、そういう方々はコツなど必要とせずに、無意識にできているだろうけれども。

 患者さんが途絶え、当直室に戻ろうとエレベーターのボタンを押す。暗い廊下に向けて突然光が差し込むと、まるで異世界への扉が開くみたいだなと半分寝ている脳みそが考える。非日常と錯覚する景色に心が動かされるが、それに反して足取りは重い。旅行好きの自分にとって、見たことのない景色や、もう今後会うことがないかもしれない人との会話にはわくわくするが、今乗っているエレベーターは毎日利用しているものだし、今からトランク片手に旅行へ出発できるわけでもない。
 そう考えると、臆病な性格をしている割には、意外と冒険心はあるのかもしれない。初対面の人と話すことは緊張すると言いながら、旅の道中で出会った人と話すのは苦ではない。その違いは、一体何なのだろう。
 そういえば、「冒険」をテーマにした文章が募集されていたな。エレベーターから降りた辺りで、ふと思い出す。自分が書けるものといったら、旅行についてくらいだが、たぶんつまらない文章ができるだけだしなぁ……。どうせ書くなら、他の人が選ばないジャンルでも書こうかな。頭の中であれこれ空想しながら、当直室のベッドに横になった。



 小学校の頃、僕は父の転勤先から自分が生まれた地へと戻ってきた。必然的に、前の小学校の友達とお別れし、新しい小学校に転校することを余儀なくされた。父の仕事の都合なのだから、仕方ない。しかし、僕には漠然とした不安があった。
 「……友達、できるかなぁ。」
 おそらく、全国の小学校一年生が入学式前日に考えること第一位に間違いない。しょうもない悩みではあるが、小学生にとっては一大事だ。話す相手もいないまま、残りの小学生期間を過ごしたくはない。ただ、事前に準備してどうにかなるものでもないので、大人しく転校初日を待った。

 いざ新しい小学校で過ごしてみると、あれだけ心配したのが嘘のように、たくさんのクラスメイトと話すことができた。友達は、できたのだろう。ただ、自分の中でも無意識のうちに、周りに壁を作っていたように思う。自分からは話しかけなかったし、あまり心から接することができなかった。授業の板書は緑色の黒板に書かれていたけど、僕の目にはモノクロに映っていた。

 初めての図工の時間、もう何を作っていたかも思い出せないが、僕は転校生だったので、皆から遅れてのスタートだった。最初に先生が丁寧に説明してくれたが、自分の不器用さも相まって、すぐに躓く。先生をいちいち呼ぶのも申し訳ないなと、子供ながらに気を遣っていた。
 ふと、隣の女の子と目が合った。隣の席なのに、転校してからまともに話したことがない。異性という面も、きっと影響していたのだろう。このまま黙っていても、皆との差は広がるばかり。数分間逡巡した後、意を決して彼女に話しかけた。
 「あの……、良かったら、ここ教えてもらってもいいかな」
 「うん、いいよ!」
 即答で元気な声が返ってきた。僕が悩んだ時間の意味。少しでもいいから返してくれ。
 ただ、彼女は自分の進度を遅らせてまで丁寧に教えてくれた。その後は普通に話すようになり、自分から他のクラスメイトに話しかける機会も増えていった。客観的にみたら、ただ小学生が小学生に話しかけて、図工を教えてもらっただけである。でも、当時の僕の心境には、とても大きな変化を与えた。


 その図工の時間から、教室の景色が色づいてみえたのは、きっと気のせいではないと思う。


 たぶん、あの頃の僕は人に話しかけるハードルを勝手に上げていた。あれから多くの人と接してきたけれど、おそらく自分が想像するよりも、他人は自分を気にしていない。それは、良い意味でも、悪い意味でも。
 ただ、確実にあの出来事がきっかけで、自分の中のハードルは人並みの高さに落ち着いた。実家を出て大学に進学した時、大学のある県に知り合いは一人もいない環境だったが、今は多くの友人や信頼できる人たちに囲まれている。周囲の環境に恵まれたと言われればそれまでだが、自分の行動も少しは影響したんじゃないかな、と前向きに捉えている。



 あの日の小さな冒険が、今の僕をほんの少しだけ、形作っている。


 冒険には様々な種類がある。きっと多くの人がイメージするのは「身体的なもの」だろう。旅行、留学、登山、航海……。どれも素晴らしいものだと思うが、時間やお金と相談しなければならないし、それほど気軽にできるものでもない。
 ただ、冒険を「精神的なもの」に限定すると、僕たちは実に多くの冒険をしているのではないだろうか。挑戦、決断、友情、恋愛……。それぞれのドラマがその過程に存在し、皆それを乗り越えて行動している。その悩みや思考だって、立派な冒険の一つだと僕は考える。
 極論をいえば、挨拶だって冒険だ。挨拶ほど、話しかけるのに適切なものはない。この文章を読んだ貴方が、もし明日の朝コンビニに行く用事があれば、店員さんに挨拶してみてほしい。きっと、その日はいい気分で過ごせるはずだ。



 「初めまして、医師のカノンと申します。本日はどうなさいましたか?」
 今日も変わらず、僕は患者さんに話しかける。


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