「夏」という言葉から思い出したことを綴っていた。
思い出らしい思い出は殆ど無い。あったのかもしれないけれど、それを思い出と呼ぶにはなんとなく物足りないかな。
 小学生の頃は夏休みがあると必ず絵日記や、夏の思い出を絵に書くという宿題が出されていた。絵の得意でない私にはとても苦痛だったし、友達に話したいような華々しい夏の思い出がなかったから、ある年はほとんどヤケクソの、墓参りをしている絵を書いたことがあった。意表を突き過ぎていたせいか、廊下に張り出されたその絵について立ち止まって話題にする人が多かったことには面食らったが。

 今年の夏も夏らしく蝉がたくさん鳴いている。蝉の声は暑苦しさを増幅するような気がしてどちらかと言えば好きではない。
「ぼくは セミの声を うるさいとは感じないよ」

言う人に最近会った。
そして庭先の木に群がるようについているセミの抜け殻について語ってくれた。その人が言うには、セミの習性なのか、なぜか一つの針葉樹の葉に何十匹もの形跡が残っていたのだそうだ。おもむろにポケットからスマートフォンを取り出すと何かを確認するように画面を見つめている。そして、
「ほらね」とその木の画像を私にみせてくれた。
その画面には地面に空いたたくさんの穴が写っていて、それはセミが地面から出てきた穴なのだそうだ。
 私はセミにはそれほど興味はなかったが、もう喜寿もとっくに過ぎたその人が嬉しそうにセミの抜け殻を見せる様子が可笑しくて、ずっと話を聞いていた。
 日常の中にある蝉の存在を、とても慈しむその人の姿に、思い出はこうやって人と人との繋がりからできるのかもしれないと思った。いつかの遠い夏の日に、ほんの数分のその人とセミについて語った時間を、穏やかな思い出として思い出すのかもしれない。