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【エッセイ】「富の再分配の失敗」と「教育・教養の価値」の話

ふと考える、何故資本の事が、とりわけ貨幣や預金通帳の残高が高いことが嫌いなのか。

世間一般的な「普通」に頭まで浸かっていた時はその追求が人生の目的だと思っていたし、現実問題その多さが幸福な暮らしを実現するための選択肢の多さに直結することにもなるし、(擬人化するようで気持ちが乗らないが)資本そのものには罪はなく、用いられる者によって資本は顔色を変えるわけだから、それそのものに嫌悪感を抱くのは本来お門違いという訳なのだ。

にもかかわらずこの感情は紛ごうことなく本物で、紙幣や硬貨の運動を自分の目で直に見たりテレビや紙媒体などを問わず他者が行うそれを見ては、最早かつての様にポジティブに素直に見ることはできなくなり、その色眼鏡が資本が持つ汎用性と広く認知されている共通認識から生じる膨大な価値を用いて人々を動かす「利己的な快楽を追求する者共の思惑」が見せるから、こうして資本そのものに気持ち悪さを感じているのかもしれない。

あまりにも多くの悪意が宗教や政治や教育といった形で善意を装って無垢な良心を踏みにじり、一方では本来干渉さえしなければ陥ることなどなかった不幸に陥り、他方ではカモから搾取した甘い蜜を啜って快楽に耽るこの構図が常識のレベルで当たり前になってしまっているのだ。

あまつさえ自分さえもその両方の立場にあることが不愉快でありながら、しかしその変革を促すことができるだけの力がない為に、そして反撃に恐れをなして発言することに臆して、結局こうして集団リンチされない様にコソコソとぼやくことしかできない矛盾に陥っている自分に不甲斐なさや力のなさが常々精神を突き刺すのだが、それはまた別の機会に話すとする。

しかし時に市民は団結して反乱を起こし、現行の政府や社会体制に要求を呑ませて「構成員の大幅な整理」を強いたり「権威主義から民主主義に転向」させたり、それまでに生じた数々の悲劇を清算すべく(時にエンタメの形をとって)「責任者を処す」などして悪意を殴り倒し、それまでないがしろにされてきた要求を実現するべく発足した新体制に市民からの厚い理解を得て推薦された善意ある指導者が擁立されて「市民の声の反映」に向かうこともある。

それは「国民の公的権利の保護・拡充」や「保険・年金制度」といった「物質的財の再分配」という形で行われる事があるが、そこには「管理者が特権を用いて悪徳を画策する」とか「純然なコンプラを持った人間による混り気のない善意による運用」とか現場の人間の思惑に差異はあれど、本質として「市民の苦境を救済・改善するための資源・資金を提供する」という点で相違ないことを注記しておく。

なぜならばスタンスに差異があろうとも、本質としてそこには「与えた先のフォロー」や「適切な運用意図の周知」が行われない為に起こる「根本的な救済・改善の失敗」がもたらされるからである。

ここに今回提起したい問題が存在し、簡潔に述べると「提供される側の人に適切な知識や運用理念が備わっていないこと」が、特に提供する側とされる側とで運用意図が共通しておらず、提供する側が「与えるだけ与えてやることはやったからあとは本人次第」という丸投げな点が問題なのだ。

富の再分配それ自体には何ら問題はないのだ。

しかしそのためには「投資精神」、つまり「自己改革に努め、停滞を戒める行動理念」が必要条件であり、同時に「自主性・能動性に優れていること」が前提とされていて、提供される側に「他者に介入されたとしても絶えず進歩を志し、自らに正直に欲するところを得ようとする精神」がなければ再分配された富はただの散財になってしまうのだ。

知ってか知らずか提供する側は「機会平等性」という言葉を安直に考えているようで、「富の再分配という機会」を幾ばくかの富だけを与えて等しく機会を与えたと判断して、それを正しく使って自身に還元するためのコンパスたる「運用精神」の付与を怠っていることが「救済・改善の失敗を引き起こした最大の原因であり罪」なのだ。

折角個人的な不運や社会的な不公平で不利な状況にいる人々のライフチャンスに機会平等性を与え、幸福な暮らしの実現のために「個性の自由な発展」を促進する足掛かりとして用意された仕組みにもかかわらず、救済すべき人々に適切な運用精神がない為に分配された富を目的とは違う「日々の生活」や「突発的なリスクの為の貯蓄」や「督促分の返済」に、果ては「ギャンブル」や「嗜好品の購入」や「他者からの搾取の対象」になったりして消費されて、結局提供された人の個性は成長しないまま富は使い果たされることになってしまうのだ。

従来の富の再分配の失敗は「運用目的が完全に個人に委ねられている事に起因した目的外の対象への消費」が原因であるとしたが、ではどうすれば分配された富は有意義に運用されるだろうか。

それはひとえに「教育」以外にないと思われる。

要は、ライフチャンスに乏しい人には「自己改革目的で再分配された富の運用の為の知識や経験」が欠如していて、機会平等性を重んじるなら本来は「適切な富の運用のための知識や経験を付与するための教育」が必要なわけなのだ。

運用が想定されている人物像の前提として設定されている「(自他を問わない)投資精神」「自主性」「能動性」を根付かせることができるようなカリキュラムを設定し、現実に起こっているシチュエーションを模擬的に再現してその重要性や必要性を主観的に理解させる事。

そうして「個々人でどれとして同じものがない拡散する可能性」を個性として体現し行使することで叶う「幸福な暮らしの実現」によってGDPや幸福指数、ひいては国力が増大することにつながるのだ。

加えて道徳や倫理、歴史に成功や失敗・その原因や改善点を学ぶ教養を与えることで純粋に人としての奥行きが生まれるばかりでなく思慮深い人間性を育むことができ、犯罪・事故の抑制が実現できると思っている。

しかしそこに自主性や能動性を損なわせるような強制はあってはならない。

究極はたった一人でも個性の発展に勤しみ、他者の救済・相互向上に努める人間性の付与であり、そこに強制されて渋々従うような受動性は存在しないからである。

「純粋に自分がそう思い、そうすべきと思ったからそうしている」という状況こそが人としてあるべき姿であり、従わざるを得ない状況というほうが異常なのだ。

誰もが自分のしたい所をして、したくないことは他者に委ねる代わりに自分の強みをもって報いるという「相互補完」の状況にあるべきで、従来の教育にはない「精神面における教育の徹底」があればその実現に少しは近づけることができるのではないかと思う。

無論、困窮者救済のために政府が運用精神の教育を行うなどとは考えていない。

現実的に資金も資源も集まらないことが予想されるし、第一それを阻止しようとする者やそこに搾取しようとする者によって頓挫することが考えられるからだ。

善意はその寛容性から全方位から責められるのが常であり、反対に悪意はそのトゲトゲしさから攻撃手段に事欠かず、防ごうとも次の手段を講じてくるばかりでいたちごっこ、ましてや善意では悪意に太刀打ちできない。

こんな悪意に満ちた世の中では私が祈る弱者救済の声などもユートピア主義に含まれてしまうが、いつかこれが常識になるといいなと思うばかりである。

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