夏目漱石「こゝろ」中 感想
やはり私は先生の言葉を、心持ちを読むためにこの小説を読んでいる。
先生を殺したのは「中」だ。
また、だらだらと磨きのない文章を打ち込むから、読むなら相当暇な時に良んで欲しい。
「私」の境遇はある意味幸せだと思う。
現代に生きる私たちは、親の死に目に、さらには危篤の時に離れず側にいることはできない。
それは1日と経たずに日本中を移動できるという意識からきているものかもしれない
いや、「死に目」に会えなくても仕方ない、我々は忙しいのだから
仕事や学校に穴を空けるわけにはいかない、成績や生活のために
という意識下においてはむつかしいものである
「私」の一家は、父という家長の死に目に親子が揃っている(娘は妊娠中だから仕方がない。平時なら確実に揃うことができただろう)。
身の上の話になり恐縮だが、私の祖父母4人とも、本当の「死に目」には死人の一家が全て揃ったことはなかったと記憶している。
もしかすると1人くらいは揃っていたかもしれないが、大体はもう長くないと分かっていてもそれぞれの生活があるから、死ぬまで側に着くなんてことはできないのである。
きっと私も両親の死に際には立ち会えないだろう
それらを鑑みると、「私」は…この時代の人たちは「家族」(殊更に家長は)を大事にし、今際のときは各地から飛んでくるというものは…
もちろん、家族といえど恨みを持っていたり、色々と事情のあるものもあるかと思う。
しかし、「私」一家は特に大問題もないのであるから、一家の大事に殆どが集まるということは、とても幸せな最期であることだ
結構なことだ
まあ、そんな個人的な妬みは置いておくことにする
ついに先生に言われた通り財についてどうこうするかも決まらずに終わってしまった
財は罪だ。
財によって人は罪を犯すと、こゝろは物語っている
人は普段は善人だが、欲を目の前にして悪人になると、上で先生が言っていたように「私」の一家の周りには「人間」がいる
もちろん、これはおそらくだが、例に漏れず「私」一家も同じだと思う
父は自分が死ぬ前に子が大学を出るのは都合がいいといい、母は家長が死ぬ前に偉くなれ(就職しろ)といい、兄は兄で働かなければ…と言う
「私」一家は普通だ。
「私」だって、先生と出会っているという点を除かなくても普通の書生だ。
至って普通の人間は、善人の仮面をつけた人間で、都合のいい時にその仮面を剥ぎ、悪人の仮面に面構えを変える
個人的には、悪人と善人の仮面と、その下の素顔があって人の形になっているとおもっている
まあそんなことは置いておいて、先生の言葉が中には殆ど出てこなかったことは残念だ
下は先生の遺書である事は知っているが、中でここまで先生の事を書かれないのは少し驚いた
先生を殺したのは中だ、と冒頭述べた
先生の中で、驚くべきほど、不本意に、呆気なく、奇跡的に「私」という存在が住み着いてしまったことが、先生の死に繋がっている、そう感じられる
中では、先生が出てこない=先生の事を考える暇もない状況であった
仕方のない状況であったことは確かだ
もしも、なんてことを考える隙もなく、どうしようもない状況の中で、唯一先生が死ななかったかもしれないチャンスはあの電報だっただろう
しかし、あの時、汽車に乗り先生に会いに行けば何かが変わっていたかはわからないし、父はその間にしんでいたかもしれない
多分どちらにしろ先生は死を選んでいたと思うが、このように考えずにはいられないのが性である
先生の危うさはもともとあったであろうが、「私」の手紙をきっかけに死を選ぶことになったと思う
「私」の手紙を読んで、どうにかしたいと思わなければ…「私」とそもそも懇意にしていなければ…先生はこのタイミングでは死ななかった
死ななかったらそもそもこの話が成り立たない、という正論は一旦傍に置いておいてほしい。
私は先生に死んで欲しくて、死んで欲しくなかったのだから
私にとっても、先生は先生のような人間に昇華されつつある気がする
さて、次に感想を書くときはいよいよこゝろを読み終えるときかな
きちんと消化して文章に起こしたいという気持ちはあるが、文を推敲したりするのはどうもやる気が起きず、苦手だ
だからやっぱり、感想は書き殴り文章で角の取れていないガタガタの文章で読みづらいだろうが、まあいいかな
あと思ったんだけど、こゝろ、高カロリーすぎる…