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3つの逆境を跳ね返した『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』が証明したこと

#1 3つの逆境

TVアニメ『BanG Dream! It's MyGO!!!!!』(以下『MyGO!!!!!』)が先週9月14日に最終回を迎えた。この作品はここ最近の新作オリジナルTVアニメの中で僕の心に最も深く刻まれたフィルムであり、ほかのアニメファンたちの間でも大きく話題になった作品だ(その反響の大きさは公式SNSの投稿や、各メディアで展開された特集記事に対するリアクション数から窺い知れる)。

その意味で結果的に成功を収めたこの『MyGO!!!!!』だが、実はいくつかのディスアドバンテージを背負った作品だったのではないかと僕は考える。大きく3点挙げられる。

1点目。この作品が『BanG Dream!』というメディアミックスプロジェクトの一環として作られたものだということ。

ガールズバンドを題材にしたこのプロジェクトは、2015年に始動、今や小説、漫画、ライブ、アプリゲーム、アニメと多岐にわたる分野で展開している。そしてこれだけ長い期間にわたって走り続けているプロジェクトだから、当然一定数のファンがついている。それは『MyGO!!!!!』にとってひとつの追い風だったと言えるけれども、このように長期間にわたり展開中のプロジェクトから生まれたアニメには、このようなメリットと背中合わせのデメリットもあるのではないか。

それは新規ファンの獲得ハードルが高くなるということだ。たとえば『MyGO!!!!!』がバンドリ初のアニメ作品だったならば、まだこのハードルはそこまで高くないのかもしれない。しかしバンドリのTVアニメはこれまで既に4作品が作られ、劇場版やフィルムライブまで展開されている。このような経緯を少しでも知っている、しかし僕のようにバンドリからは縁遠かったアニメファンからすると、『MyGO!!!!!』のような後発作品がとっつきにくいことは否めない。

実際には本作品は、これまでのアニメシリーズを見ていなくとも十分に楽しめる内容だ。だが実を言うと夏クールのはじめには、僕も「あー、これはバンドリの新作ね。ということはこれまでのアニメを全部見てないとわからないのか」と真っ先に視聴を見送ったクチである(恥ずかしながら)。

2点目。キャラがほとんど3DCGで描かれていること。

ここ最近の3DCGの技術はすさまじく、本作品においても制作会社のサンジゲンお得意のセルルックは驚くほどクオリティが高い。本作のキャラたちの魅力は、ひとつには後述するような人間臭いドラマのたまものだが、そのドラマの説得力は、要所々々に差し込まれる手描き作画と、そして3DCGによる表情・動き芝居の豊かさに支えられている。「CGキャラは動きや表情が硬くて作り物めいている」という一昔前のイメージは、少なくとも『MyGO!!!!!』においては完全に払拭されている。

そよ。第2話の場面カットだが、この時点で既に胡散臭い。

にもかかわらず、1クールに放送される作品の中で圧倒的に手描きアニメの割合が多い現状では、未だに3DCGに抵抗感を覚える視聴者が少なくない。僕の周りのアニメ好きにも、視聴ラインナップから3DCGアニメを外す人たちはちらほらといる。これはかなり手痛いデメリットなのではないかと思う。

そして3点目。これが最もあらゆる意味で議論を呼ぶ点だが──ドラマが生々しく、「ギスギスした」テイストであること。

そもそもこの作品は高松燈千早愛音要楽奈長崎そよ椎名立希という5人の少女たちによるバンド・MyGO!!!!!を描いたアニメだ。しかしその幕開けに演じられるのは、燈、立希、そよが所属していた別バンド・CRYCHICの解散劇──正確に言えばその発端──である。CRYCHICを作り上げた豊川祥子という少女の脱退宣言から始まる一連の出来事は、元CRYCHICメンバーたちの心に消しがたい傷跡をのこし、その後に展開されるメインストーリーはMyGO!!!!!の物語でありながら、CRYCHICの禍根によってねじれ、ぐらつきながら進む。では残る愛音や楽奈はただその因縁に巻き込まれるだけなのかと思いきや、彼女たちは彼女たちで一癖も二癖もあるキャラクターで、ただでさえややこしい話をさらにややこしくしていくのだ。

祥子。すべての始まり。

かりにもエンターテインメントを謳うガールズバンドプロジェクトの最新作として打ち出されたビジネス色の強いアニメが、よりにもよって陰鬱なバンド解散劇から始まり、その後もバンドの人間関係の生々しい軋轢を主軸に展開するとは!

むろん、その道のりは決して真っ直ぐでもなければ爽快でもない。彼女たちのやることなすこと、すべて手放しで称賛できるようなものでは到底なく、良識の観点からすれば眉を顰めるようなこともある。こう言ってしまっていいならば、ある種の受け手にとってはハッキリと不愉快な話なのだ。このような作品のテイストを公式では、次のようなコピーで端的に言い表している──「ドロドロ、ぐちゃぐちゃ、それでも。」。

以上、この作品がとっつきにくい3つの理由を挙げた。巨大メディアミックスプロジェクトの後発作品であること、3DCG作品であること、きわめつけに青春ガールズバンドものでありながら作風が生々しくドロドロしていること。特に最後の作風の問題はかなり人を選ぶように見えるにもかかわらず、この作品は多くのアニメファンに受け容れられ、称賛を勝ち取るに至っている。それはなぜなのか?

#2 序盤の千早愛音が持つ“性格悪さ”の魅力

ほかのエンタメや表現にもあるいは言えることなのかもしれないけれど、僕がフィクション=物語というものを特に愛してやまないのは、それがただ楽しいだけの娯楽ではなく、そこにおいてあらゆる感情を経験し、共有することができると思うからである。古くから人は、ただ爽快で心躍る楽しい物語だけではなく、いっけん不快な物語をも求めてきた。そしてその謎について多くの人が知恵を絞って考えてきた。世界中のシネコンでは必ず毎年のように何本ものホラー映画が上映され、悲劇について考察した哲学書や論文は枚挙にいとまがない。これらの例は人が不快なはずのものを、にもかかわらず求めてしまうということ、そしてそれが当の人間たちにとっても不可解な謎であることを示している。

僕もまたその謎を抱きながら、不快な物語に惹かれてきた人間だ。そればかりか、それを自覚し、積極的に求めすらしてきた。だから2023年夏クールも中盤にさしかかろうというある夏の日、偶然SNSで見かけた広告に書かれた上述のキャッチコピー──「ドロドロ、ぐちゃぐちゃ、それでも。」──に思わず興味をそそられてしまったのは、しごく当然の成り行きと言える。

僕にとって幸運だったのは、前述のような価値観から、この一見ネガティブなコピーをポジティブに受け止められたことである。すぐさまその日の夜にサブスクのアプリを開き、『MyGO!!!!!』の第1話から第6話までを夢中で突っ走った。そして、自分が長らく求めていたアニメに出会えたことを確信した。

6話までの前半部分では、祥子による突然の翻意の謎と、MyGO!!!!!──というよりこの段階では愛音がメンバーをかき集めた名もなきバンド──の立ち上げ、そして元CRYCHICメンバーへの執着をうっすらと窺わせるそよの動向が、ときに交差しながら描かれていく。しかしこの構成が純粋な意味で僕の興味をそそったのか、つまり「ストーリーが面白かったのか」というと、もちろん楽しませてはもらったけれども、前半の醍醐味はほかにあった。

それはまず序盤の物語を牽引した愛音の魅力だ。これは僕の持論なのだが、キャラクターというのは基本的に性格が悪かったり、多少人間としてアレだったりするくらいの方が面白い。シリアスな意味での悪人であれば、ピカレスクロマンや破天荒なドラマを演じさせることができるし、人間性のどうしようもなさは滑稽さに通じるところがあるので、コミカルな意味でもキャラクターが活き活きとする。そもそも人間味のない善人や四角張った優等生よりも、少し隙があるくらいの人物の方が、現実でも親しみを持てるものである。

愛音。かわいい。

その点、愛音はとても魅力的なキャラだと思う。行動原理は基本的に見栄とエゴ。「一生バンドやりたい」などの発言を繰り返す燈に、「いちいち重いんだよな〜」とつい言ってしまうところに象徴されるような、ちょっとした無神経さ。バンド名に頑なに自分の名前を絡めようとするくだりなどは、シリアスな局面の多いこのアニメにおいて、屈指の笑いどころである。

また愛音はその行動力や自己主張の激しさでときに周囲の反発を生みつつ、ドラマや掛け合いを数段おもしろくしてくれる。たとえば第1話の終盤、理不尽なくらいに刺々しい立希に対して、すぐさま反撃に転じた愛音の「はあー?」というリアクションと表情。このくだりが好きな視聴者も多いはずだ。

しかし愛音は決して見栄だけ、無神経なだけのキャラクターではない。燈には「クラスのマスコット的存在だから一緒にバンドやれば目立てるかも」というしょうもない動機で近づく愛音だが、絆創膏の話題にしっかり乗ろうとしたり、落ち込んでる様子がなんとなく嫌で元気づけようとしたり、傷つけたと思ったらちゃんと追いかけて謝ろうとしたり…打算的に接するわけではなく、意外にもまっとうな人間関係を築こうとするのだ。燈が序盤からそれなりに愛音に対して信頼と好意を寄せているのも、このような人間臭い等身大の善性を端々から感じ取ったからなのかもしれない。

そんな愛音を僕が決定的に好きになったのは、彼女の過去が明かされる第5話だ。ここではバンド結成に奔走する彼女が浅はかな動機だけでなく、それなりに切実な思いで行動していることがわかる。それは中学までうまくやっていた愛音が留学で経験した、苦い挫折からくる気持ちだった。

ここの愛音と燈の水族館での掛け合いは、前半エピソードの中でも僕がとくに大好きな箇所だ。愛音自身にとっては汚点のように感じられる挫折と屈託を、「迷子」という言葉で受け止め、ポジティブに掬い上げる燈の真摯さ。そんな燈に「じゃあさ、一緒に進む? 迷子のままで、私たち」と返す愛音の、観念したような、背負っていたものを下ろしてほっとしたような、ほのかな希望を見つけたような絶妙な表情。『MyGO!!!!!』という名前の意味を悟るとともに、こういう多層的な感情表現こそこのアニメの魅力だと再認識するシーンだった。

左が燈、右が愛音。嘴を体に擦り付けているペンギンを見た燈が「かゆいのかな…」と言うところがお気に入り。

また前半部分の心理描写という点で言えば、第3話も避けては通れない。この話数では燈の幼少期からCRYCHIC結成、そして解散までをダイジェスト的ながらも長い尺を割いて描き出している。このエピソードの最も素晴らしい点は、映像の見せ方においても、息遣いまで聞こえてくる燈自身の声の近さにおいても、一人称視点を徹底していたところだろう。なぜならここにおいては彼女が見た世界もさることながら、彼女が世界をどのように見ていたかということがきわめて重要な意味を持っているからである。CRYCHICのメンバーと過ごした日々のまぶしさや、彼女の心の震えが実感をともなって伝わってくる回だった。

第3話より。失われた尊い日々。

#3 王道ライブシーンの変奏としての第7話

まだまだ前半話数で語りたいことはいくらでもある。けれども、もしこのアニメが6話までで終わっていたら、僕はここまでこの作品に入れ込むことはなかっただろうと思う。そのくらい第7話の衝撃は大きかった。

なぜそこまでの衝撃を受けたのか。それはこのエピソードで描かれたライブシーンが、今まで僕がアニメで見てきたどのライブシーンとも違うものだったからだ。

いや、流れだけを見れば決して特殊なライブシーンではないどころか、むしろ王道とも言えるかもしれない。今まで色々なトラブルがあったバンドメンバーたち。練習量はもちろんのことそのほかの点においても準備万端とは言いがたい。初ライブの緊張もあって、最初は演奏もボーカルもうまくいかない。しかし以前のバンド仲間に励まされた気がして、ボーカルが勢いづいてからはパフォーマンスが軌道に乗る。エモーショナルなMCから予定していなかった二曲目へ。勢いに乗ったメンバーたちは素晴らしい演奏を披露し、最初は乗り気でなかった客たちを熱狂させる。

こうして書き出してみれば、なんとも胸が熱くなる展開だ。苦境を乗り越え、最初はうまくいかないが、それをも突破して最終的には大成功を収める──しかし実際に行われたことは違う。『MyGO!!!!!』はこの王道展開を、いかにもこのアニメらしい心理描写を並走させることで変奏し、全く別の表情を持つシーンに仕立てているのだ。

その変奏の要として、ここでスポットが当たるのはそよだ。CRYCHICを象徴する楽曲『春日影』の演奏をこれまでにもやんわりそれとなく拒否してきた彼女。しかし聴衆を前に、ステージで進行する流れには逆らえず、予定になかったこの楽曲の演奏をしぶしぶ始めることになる。そんな彼女にとっての度重なる不幸は、その場に祥子がいたこと、そして祥子が『春日影』を聴いて泣きながら会場を去る姿を目撃してしまったことだった。

その決定的な光景を目にしてからのそよは、行き場を無くしたようにうなだれ、胸に嵐の如く渦巻いているであろう感情を押し込めて淡々とベースを弾き続ける。そしてライブ後のあのシーン、SNSでも話題になった「なんで春日影やったの⁉︎」の炸裂に続くわけなのだが──ここに辿り着くまでもなく、これまでの『MyGO!!!!!』を注意深く追ってきた視聴者たちにはそよの心情がありありと理解できるのであって、それを前提にこのライブシーンを見るとなんとも複雑な気分になる。

そよ。初見時、不謹慎ながら思わず「おもしれー!!!」と叫んで拍手してしまったカット。

そよ以外の4人にとって、このライブは幸福な時間だっただろう。またバンドができた燈、そんな燈と再びライブしている立希、懸念していた演奏がなんとかなり初ライブを楽しんでいる愛音、「おもしれー女」とやりたいようにギターを弾けている楽奈。しかし同時に彼女たちがいい演奏をすればするほど、そよにとっての『春日影』──CRYCHICの思い出は踏みにじられ、そればかりか祥子をも傷つけることになってしまう。結果、一方では輝かしいのに他方ではそのことによってかえって痛ましいという、両義的で凄みのあるライブシーンが生まれる。

しかもその心を揺さぶるシーンの力は、セリフや掛け合いによってではなく、演奏中のメンバーの表情や、歌が持つ文脈によってのみもたらされている。たとえば祥子が会場を飛び出すのは燈が「君の手はどうしてこんなにも温かいの/ねえお願いどうかこのまま/離さないでいて」と歌った直後だ。またそよが祥子のその姿を目撃した後、何か救いを求めるように左右を見回したのち、やりきれない表情を浮かべながら俯くカットからは、彼女の心の痛みがありありと伝わってくる。こんな形で心が動かされるライブシーンを、僕はかつて見たことがなかった。

涙をこぼして会場から走り去る祥子。
祥子の姿を見てしまったそよ。初見時、ここで「うわ…」と声が出た。

#4 違う景色を見ていても

後半エピソードはこのあと9話まで、そよを主軸に展開していく。これまでメンバー間の調停役を演じ、誰にも柔和に接してきたそよ。だがライブ後に怒りを露わにしてからは徐々に歯車が狂っていく。メンバーからの連絡を完全に無視するだけでは飽き足らず、CRYCHIC元メンバーの若葉睦に強く迫って祥子との面会の場を無理やり作らせ、祥子に手厳しく拒絶されてからは、バンドへ連れ戻しにきた立希に核心をつく容赦ない言葉を浴びせて追い返すなど、一周回って清々しい暴れっぷりを披露するのだ。

そよに詰め寄る立希。このときのそよの絶妙な表情が好きです。

正直こうなってからのそよの方が僕としては面白いのだが、同時にその危うさに心を痛めるところもあった。ここまでやってしまうとふつうはキャラクターとして完全に嫌われるよな、というようなことまでやっていたと思う。それでも僕がそよを嫌いになれないのは、彼女の過去を描いた第9話があったからだ。

このエピソードでは3話を彷彿とさせるようなCRYCHICにまつわる回想が、しかし今度はそよの視点で展開される 。燈と違い3人称視点の映像になっているのは何か演出意図があるのかもしれないが、ともあれそこに深く立ち入るのはよそう。とにかくここで描かれるのは、そよがCRYCHICに寄せている切実な愛情だ。それは人によっては執着とか依存とかいうふうに表現する類の心情なのかもしれないが、たとえそうだとしても大切なものは大切なもので、その切実さそのものは誰にも否定する権利などあるまい。だからこそそよには救われてほしいという気持ちがあった。

驚いたのは、そんな期待に応えて『MyGO!!!!!』がもう一度ライブシーンで奇跡を見せてくれたことだ。第10話である。

これまで積極的にはバンドを繋ぎ止める役割を演じてこなかった燈と楽奈が立希と愛音を呼び戻し、そしてバンドの発起人であり、CRYCHICの部外者であり、もしかしたらメンバーの誰よりもそよを慕っていたのに裏切られてしまった愛音が、そよの家へ単身乗り込み、会場まで連れてくるというこの一連の流れ。その前段を踏まえてのライブシーンは、予想を超える圧巻のひとときだった。

たとえば立希が涙を流していることに気づいた愛音が「何泣いてんだか」とでも言いたげな顔で笑いながら自身も涙し、そこからそよの泣き顔のカットを挟んで一気に音があふれ出す一連のくだり。歌が終わり、自分の想いが届いたのか確かめるようにそよを見る燈と、そんな彼女の視線を受けて悔しそうに涙を流すそよのカット。これまでのドラマで描くべきものが描かれてきたから、たとえ言葉がなくとも、彼女たちの姿は雄弁にその心情を語る。

ここの燈のぐしゃぐしゃの泣き顔がさあ!いいんだよなぁ!

僕が特に好きなのは、フラッシュバックが挟まれる箇所だ。ここの面白いところは、それぞれに回想する情景が違うということ。立希とそよは同じようにCRYCHICの記憶を思い返している節があるが、思い出している情景の中身や数は違う。愛音はもちろんその時代のことは知らないので、燈との出会いからこれまでのことを思い返している。楽奈はそもそも回想している様子がない(そして燈については演出的にどうも判然としない)。

つまり各々が違う景色を見ているのだ。

このバンドは毎度こうなのである。7話は言わずもがな、心を一つに演奏しているように思える10話のこのシーンでさえ、見ているものは違う。そもそもライブ以外でだって、彼女たちはそれぞれの動機でバンドをやってきた。きわめつけには後半エピソードの中心人物であるそよだって、結局このライブを経てもCRYCHICに対しては未練タラタラのまま。この5人はずっとバラバラなのである。

だが、だからこそいいのだと僕は思う。彼女たちはそれぞれに違うものを見ている。バラバラに生きている。けれどもライブの瞬間は一緒に曲を奏でている。その気持ちがひとつでなくとも、その音は聴く人の心を打つ。それがMyGO!!!!!なのだ。

#5 ドロドロ、ぐちゃぐちゃ、それでも。

第11話から第13話についても、ストーリー以外のことについても語りたいことは山ほどある。11話のそよのこと、12話のライブのこと、Ave Mujicaのこと、羊宮妃那の演技のこと…とはいえ、本道から外れないよう、ここで当初の疑問に立ち戻っておきたいと思う。

なぜこのような一見とっつきにくい物語が受け容れられたのか。

まず断っておくと、これまでに語ってきた僕といういちファンの『MyGO!!!!!』体験はかなり特殊なものかもしれない。そもそも僕は「ぐちゃぐちゃ」「ドロドロ」に抵抗がないどころか、そういうものをむしろ好む傾向にある。だからこの物語にもすんなり入ることができた。

しかしそもそも、僕がなぜそういうテイストの物語を好むのかという根本のところを掘り下げると、多少それらしいことが言える気がする。つまり決して僕は露悪趣味や陰湿なユーモアだけを求めてそういう作風の作品に触れているわけではない(そういうところがあることももちろん否定しないが)。結局のところ、僕は血が通ったドラマを見たいのだ。

エンタメに求めるものは人によって異なる。世の中には実にさまざまな人がいる。その中には、娯楽の時間にまで、人の醜いところや悪いところなんか見たくないという人もいるだろう。とくに自分が好きなキャラクターには善良だったり、尊敬できるところがあったりしてほしいと願う人もいるのかもしれない。その気持ちは僕にも少しわかる。

ある意味では当然のことだ。というか物語が人──や人と同様の心の機微を持つ存在──、およびその行動を描くエンタメである以上、かれらはどうしても道徳的な価値基準で評価されざるをえないところがある。だから上述のような人たちが好む作品を作るならば、主人公やその周りのキャラクターくらいは善良な存在として描いた方がいいのだろう。少なくともあまりに嫌なところを描き過ぎてしまうと受け手の心が離れかねない。

けれども、逆にそのような配慮が行きすぎてしまうと、ドラマは力を失うのではないだろうか。なぜなら現実の人間は善良なだけではないからだ。だから善良なだけのキャラクターはどこか薄っぺらく、嘘くさく感じられ、かれらのやることなすことは我々人間とは違うどこか別の星の生き物の営みに思えてしまう。また作り手としても、もう一歩踏み込んだ深みや面白さのあるドラマが描けなくなるのではないかという気がする。

実際、僕はそういうキャラクターにあまり興味が持てない。むしろ間違えたり、嫌なところがあったり、迷ったりする、真っ直ぐには生きられない、素直には愛せないキャラクターの方が好きだ。その方が面白いし、最終的には愛着が持てるし、ふだんは何か人となかなか分かち合えないものを、分かち合えているという気がする。

エンタメには、娯楽というものにはビジネスの側面がある。ビジネスであるからには、多くの人に受け容れられ、好まれることが望ましい。したがって不快なものや醜いものや悪いものは、ふつうに考えれば避けた方がいいし、避けられがちになるはずだ。けれども物語というジャンルのエンタメについては──あるいはほかのジャンルでもそうなのかもしれないが──、なぜかそういったネガティブなものが受け容れられるところがある。僕は物語のそういうところが好きだ。

それにしても。ブシロードほどの企業が展開している大きなメディアミックスプロジェクトの一環として、しかもキャラクターが好かれる必要のあるビジネスで、このようなコンセプトの作品が作られたこと、その試みが功を奏して、こういう無駄に長い感想記事をわざわざ好き好んで書きたがるようなファンたちを多数獲得しているというのはさらなる驚きである。けれどもおそらくこういう驚きを抱いてしまうこと自体、僕が自分をも含めたアニメファンというものを見くびりすぎていたということなのだろう。

なぜ『MyGO!!!!!』が受け容れられたのか。ドロドロ、ぐちゃぐちゃ、それでも──真摯にキャラクターを描けば、多くの人の心に物語は届く。おそらくはそういうことなのだ。

第12話より。

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